このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
◎西坂・寺町から東山手へ 長崎駅から東へ200mほどのところに中町教会がある。明治29年に設けられた教会だが、原爆により被災し、今の建物は昭和26年に復元されたものだ。 県立美術博物館・図書館から「長崎くんち」で有名な諏訪神社への通り道にあたる西坂界隈は「歴史探訪路」としてカラー歩道などの整備工事が進められている。 美術博物館から南に下ると勝山小学校がある。戦前の鉄筋コンクリート校舎だ。国道34号線に沿って東に向かうと長崎市教育研究所(大11 旧山野辺邸)がある。長崎市長官舎として一時期使われていたようだ。 ![]() 興福寺などお寺の並ぶ寺町通りの方へ行くと、磨屋小学校(昭2)や深堀邸(大正後期)がある。眼鏡橋を渡ると長崎銀行(大13)、江崎鼈甲店(明31)が近い。宗福寺の近くには木造の東七郎商店長崎支店(大正中期)がある。 電車通りを渡ると花街丸山だ。高杉晋作、坂本龍馬も遊んだという料亭花月がある。検番があったり石量の歩道などあるもののふつうの民家と交じり昼間の様子からは花街の雰囲気は感じられない。 ![]() 新地中華街を抜けて十人町を登って行くと坂の途中に病院だった品川邸(大8)があり、登りきったところに海星学園(明31)がある。すこし下ると活水学院(女子大・短大)(大8)がある。丘の上にある赤い屋根の校舎はめだつ。 ![]() オランダ坂を下って、孔子廟の近くに木造洋館の池上邸(明治中期)がある。南に向かうと電車通りに出て、大浦天主堂下電停近くには長崎木装の煉瓦造洋館(明治中期)や煉瓦造倉庫も見られる。 |
◎足を伸ばせば ![]() |
◎出津(しつ)文化村 長崎市内から大瀬戸方面行のバスに乗って一時間。西彼杵半島西岸の外海(そとめ)町の出津文化村に着く。フランス人ド・ロ神父が明治12年に赴任し、教会を建て、地域の住民に農耕、手工業などさまざまなことを指導し、医療、福祉などの係わりも深かったそうだ。出津教会は明治15年に竣工したもので、現在、県の文化財に指定されている。 ![]() また、ド・ロ神父が建てた教会としては、出津から北へ4㎞ほどの大野郷にある大野教会(明26 県文化財)がある。 さらに、南へ2㎞ほどの黒崎郷には煉瓦造の黒崎教会(大9)もある。 |
諌早から島原鉄道のディーゼルカーにゆられる。昨年(92年)11月に正面衝突事故を起こした車両が、ヘしゃげた部分にビニルシートをかけられ愛野駅に留置されていた。その姿が痛々しい。 島原半島を南下するにつれて雲仙普賢岳の噴煙が間近に見えてくる。あたりは火山灰のせいで何もかも白っぽい。車庫のある南島原から保安要員が添乗する。 島原の町を出はずれると普賢岳から流れ出した泥流などで大きな被害を出した水無川流域である。島原鉄道もたびたび不通となったところで、鉄橋付近の補強もされているようだが、あたりには大きな岩がころがっていたり、ビニルハウスが泥流に埋もれたままになっている。ひん曲がった支柱など、ほんとに痛ましい光景だ。 ![]() 積み出し港として盛況だった頃は三井物産などの支店もあったようだが、明治末に三池港が改修されて外洋船が直接三池に乗り入れるようになると口之津は寂れ始めたそうである。この資料館には「からゆきさん」の資料が展示されていた。明治時代、彼女らは石炭の輸出船に乗せられて海外に売られていったのである。 |
![]() 今回は、長崎県雲仙にあるホテルを紹介しよう。 ◎雲仙観光ホテル このホテルは昭和10(1935)年に外国人観光客のリゾートホテルとして建てられた。スイス・シャレー建築の外観は外国人賑わった古き良き時代の雰囲気を伝える。 |
門司港 昨年(92年)は関門トンネルが開通(昭17)して50周年にあたっていたが、海底トンネルができるまでは、現在の門司港駅付近が九州の玄関であった。 ![]() 北九州市では、この門司港駅舎を中心に、その付近に残る近代洋風建築を活かして都市型観光地に生まれ変わらせるという「レトロ事業」を進めている。事業としては、旧商船三井ビルの買収、旧門司三井倶楽部(大10年 国重要文化財)の移築などがあげられる。三井倶楽部は門司港駅の向かいに移築中で、すでに建物の骨格が現れてきた。 門司港付近に残る主な近代建築には建物を紹介する案内板が設置されている。 |
下関 門司港駅前(かつては国道を渡ってすぐに渡船場があったが海岸が埋め立てられて数十m先になっているが)から対岸の下関市唐戸まで高速艇が出ており、関門海峡をわずか5分ほどで結んでいる。東側には関門橋が間近に望める。 唐戸付近は山陽鉄道(JR山陽本線)などが設けられ下関の中心として発展してきたところだ。しかし、関門トンネルの開通により門司港ともども交通の要衝だったところが取り残され格好なのである。 ![]() 北へ数分歩いたところには、もと外国系商社だった煉瓦造のロダン美容室(明38)、下関商工会議所(大11)、旧下関郵便電信局(大12)が並んでいる。電信(電話)局舎は最近まで市役所の別館として使われていた。 ![]() かつての下関駅前には旧山陽ホテル(大12)がある。JR山陽本線の前身山陽鉄道が明治39年に設けたホテルで、現在の建物は焼失したあと再建されたもの。先の大戦で戦災にあい営業を停止した。現在はJR西日本関係の事務所として使われているようである。 この斜め向かいには、下関警察署(昭5)がある。しかし、隣接して新しい庁舎の工事が行われており、完成すれば取り壊されるかもしれない。下関水上警察署(昭9)も近い。 |
若松 ![]() 若松駅から洞海湾のほうに向かうと三井鉱山若松営業所(大正初期 旧三井物産若松支店)がある。海岸道路に沿って若松法人会(明42 旧若松築港会社)、北九州商工会議所若松支所(大正後期〜昭和初期 旧麻生鉱業)がある。日鉄鉱業九州支店(大7 旧古河鉱業若松営業所)の建物は煉瓦造で塔屋がめだつ。 ほかにも上野ビル(大2 旧三菱合資会社)や栃木ビル(大9)などが海岸沿いに並んでいる。 若松−戸畑間には洞海湾をまたいで若戸大橋がかかっている。前回(84年)、このあたりを訪れたとき、この橋を歩いて渡ったのだが、最近は自動車専用橋になったらしく、橋脚部付近にあった橋上に上がるエレベーター乗り場はコンクリートでふさがれ、その痕跡すら見いだせなかった。 橋を徒歩、自転車で渡る利用者の割にエレベーター等の維持管理に費用がかかりやめたのかもしれない。戸畑に行くにはバスがあり、また若戸大橋の下を片道20円の渡船が頻繁に往復しており不便はない。 |
戸畑 若松から渡船で渡ったところに日本水産(昭11)がある。若戸大橋の橋脚部のそばにはかつて西鉄北九州線の電停があった。この近くには玄海授産所(大7 旧明治鉱業本社)もある。戸畑駅の近くには明治製菓戸畑工場(昭11年)がある。鹿児島本線の電車からでも見える。 ![]() そこからさらに東へ1㎞ほどいったところに九州工業大学がある。この大学の前身は明治専門学校で、安川敬一郎、松本健次郎ら九州財界人の手で設けられたものだ。構内には貢献した人達の顕彰碑がある。正門に残る木造の守衛小屋が創建当時の唯一の建物だそうである。 |
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