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旅行記
ここでは、旅行記を紹介します。
旅行記 No.004 | 北海道 方面 |
題名 | 「魅惑の北の大地・北海道紀行」 著・真野 修史(RPS) |
魅惑の北の大地、北海道紀行
1997年4月1日、JRは無事、10歳の誕生日を迎えた。私の友人のJ君は、テレビで、国鉄からJR移行の瞬間を見た記憶が未だに残っているそうで、その記憶力の良さに甚だ感心するけれど、この記憶力の良さを、少しばかり、政治家に分けてあげたい。
冒頭から話が逸れてしまって、我ながら恐縮している次第であるが、この、JR10周年を祝うという名目で、JR旅客6社(北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州)から、実に、お買い得な、記念きっぷが発売されることになった。3月29日から、4月6日まで、連続する3日間、全国のJR線の特急列車の普通車自由席に乗り放題というきっぷ(要は、乗車券と自由席特急券)である。値段は、3万円。決して安くはないが、とりあえず2枚買おうと思う。このうち、1枚を駆使して、北の大地、北海道を駆け抜けよう、と思う。もっとも、きちんと計画を立て、重要なところには、指定券を別に買っておこうと思う。
前回の旅行記では、コース説明はしなかったのであるが、今回は、我ながら遺憾であるが、少しく、前もって説明しておきたいことがある。この機会に、大阪−青森間、日本海縦貫線をロングランする、特急「白鳥」に、全区間、乗ってみたい。ところが、大阪−青森間、実に1040㎞を走破するのだから、12時間半近くかかる。鉄道があまり好きではない人ならば、途中で失神してしまいそうな時間である。つまり、この「白鳥」に乗ると、1日潰れてしまう。残りの2日で北海道へ行き、北海道を駆け抜けて来ることは、不可能ではないけれど、しんどい。かといって、4日分使うのも気がひける。そこで、私は、兼ねてから、一度試してみたかった、「夜行バス」なるものを組み合わせることにした。今回の10周年きっぷでは、JRバスには乗れないから、別に乗車券も買わねばならないが、もともとバスは安いから、そんなに大騒ぎすることはない。もちろん、JRバスの「ドリーム号」にしようと思うが、これに乗って、東京まで行き、東京から秋田まで3月22日改正で開業した秋田新幹線「こまち」に乗り、秋田から青森まで「いなほ」、或いは「かもしか」に乗り、青森から快速「海峡」で青函トンネルをくぐり函館。函館から「スーパー北斗」で札幌、「オホーツク」の夜行で網走、釧網本線で釧路、「スーパーおおぞら」で札幌、夜行急行「はまなす」で青森、青森から一挙に「白鳥」で大阪へ、という壮大な仮プランを頭の中で考え、時刻表との格闘に入った。その御蔭で、3月1日の数学Bのテスト勉強は、全く出来なかったが、そんなことより、計画が出来上がった時の満足感は、何とも言えないものがあった。
ここで、指定券を買ったバス・列車を書いておく。まず、3月28日、大阪駅から東京駅までの「ドリーム大阪2号」。これは、2月28日に、M君と一緒に、二条駅に買いにいった。そして、3月29日の、秋田から青森までの「いなほ1号」。青森から函館までの「海峡11号」。札幌から網走までの「オホーツク9号」。日付が変わって、3月30日の、釧路から札幌までの「スーパーおおぞら8号」。札幌から青森までの「はまなす」。そして、3月31日、最終日の、青森から大阪までの「白鳥」。10周年きっぷ2枚と、これらのきっぷの総額は、8万2300円。相当な金額ではある。その他の乗った列車については、旅行記を最後まで読んで頂ければわかると思うので、書かない。
3月28日。21時30分。JR大阪駅桜橋口。西日本JRバスのカウンターが、ここにあるということは、すでに、時刻表で調べ上げてある。JRバスは、基本的に、JRの鉄道と同じで、改札も2回、乗車時と降車時にあるし、プラットホームまである。この日の「ドリーム大阪2号」は、4台ものバスを連ねて到着した。最悪なことに、私の指定された1号車は、JRバス関東の2階建てバス。2階建てバスというのは、不思議なことに人気があるが、車高が高い分安定が悪く、よく揺れる。それだけならまだいいが、横から正面に強風を食らえば、横転する。冗談ではなくて、実際、そういう事故も起こっている。2・3号車は、JRバス関東のハイデッカー車、4号車は、私が一番乗りたかった、西日本JRバスのハイデッカー車である。
22時05分近くになって、ようやく発車。明朝の首都高は、「首都低速道路」と言われる程で、渋滞が予想されるので、出来れば余裕を持って運行してもらいたいのだが、始発からこの調子では、先が思いやられる。値段は少し高くついても、「銀河」にすればよかったか、との思いが頭をかすめる。地下鉄御堂筋線と並走する、新御堂に入った頃には、発車から25分近く経過していた。 22時40分過ぎ、名神高速に入る。すると、運転士が、どのような関係があるのか知らないが、「名神高速に入りましたので、車内の電気を暗くさせて頂きます」と言う。マイクの接触が悪いのか、時々、送話口に息をフッと吹きかけている。我が家のインタホンも同じような調子で、誰が来たのかわからないという状態だから、妙な親近感を覚える。
名神高速に入ってからは、順調に飛ばし、23時20分、菩提寺SAでトイレ休憩。
3月29日4時33分。東名足柄SAで、2回目のトイレ休憩。東京駅到着はあと2時間後に迫っている。缶コーヒーを買って、僅かな眠気を吹き飛ばす。
5時35分。突然、スピードが遅くなった。いよいよ、渋滞が始まった。どうやらこれは、東名の料金所渋滞のようだが、いっこうに進む気配がない。いよいよやばいぞ、と思い始めた6時頃、何とか関所を切り抜け、「SHUTO EXPWAY」に進入する。
首都高は、予想より順調に流れており、20分もすると、麻布を抜けて、一般道へ。このバスは、途中、霞が関に止まるので、官庁街を目指して走る。「大蔵省上」という交差点があったりして、お上りさんの私はびっくりする。
6時32分、定刻より8分遅れて、東京駅日本橋口(JR東海エリア)に到着。きっぷを運転士に渡して、巨大迷路、東京駅構内に入る。
今、東京駅を「巨大迷路」と書いたが、まさにその通りで、案内表示はあるのだが、あまりに広いので、それがうまく機能していないのである。私も、同じ通路を行ったり来たりして、延々20分近くも歩き廻り、ようやく、JR東日本エリアの、八重洲南口に辿りつく。さらに、2社のJRの境界、八重洲中央口へと向かう。八重洲中央口は、東京駅のメイン玄関で、JR東海とJR東日本の競争が熾烈である。案内表示板は、東海道新幹線側はJR東海タイプ、東北新幹線や在来線側はJR東日本タイプで、見ていて飽きないし、JR東海の旅行センター、「JR東海ツアーズ」と、JR東日本の、「びゅうプラザ」が互いに客を奪い合い、「みどりの窓口」にしても、自社エリアの窓口への誘致合戦が盛んに行なわれている。
そのような様子を堪能して、7時過ぎに、東北・山形・秋田・上越新幹線ホームに入る。ちなみに、上越新幹線は、故・田中角栄元首相の、「日本列島改造計画」により、建設着工が決められた。角栄の新潟を含め、自民党有力政治家のお国が、高崎など、上越新幹線沿線に多いことも、その理由の一つであるという。
8時発の秋田行き「こまち1号」の発車まで、あと1時間近くあるので、東京駅で、弁当でも買っておこうと思う。朝食分はもちろん、昼食分もあわせて買っておく。本当は、東京駅などの駅弁は、何の地方特色もなく、高いだけなのであるが、「こまち」は、つい先週、22日に走り始めたばかりなので、自由席は大混雑が予想される。こうなると、駅弁を積んでいる、車内販売のワゴンは、自由席車部分が運休になる。これは困る。もっとも、秋田到着が11時55分なので、秋田駅で買ってもよいのであるが。
結局、900円のとんかつ弁当と、800円のチキン弁当、500円のサンドイッチ、150円の烏龍茶2本を買って、「こまち1号」の列に並ぶ。それにしても、烏龍茶1本が150円とは、どう考えても高過ぎる。それも、180mlという、一般に自動販売機で売っているものより、2まわりも小さいものが、である。また、2食分なのに、3食も買っているのは、読者も経験があるかと思うが、列車に乗ると、ただ座っているだけであるのに腹が減る。私などは、運動した時よりも、余計に減る。だから、サンドイッチは、おやつ代わりである。
7時45分。まもなく、「なすの234号」が13番線に到着する。私は、時刻表さえ見れば、この列車が、折り返しで、「やまびこ・こまち1号」になることがわかる。なぜなら、どちらも、13番線から発着で、「なすの234号」の到着が7時48分、「やまびこ・こまち1号」の発車が8時丁度である。この間12分あるが、これは、だいたい、折り返し整備にかかる時間である。私の予想が当たっているとすれば、「なすの234号」は、E2+E3系の15両編成である筈である。
果たしてその通りであった。他の客は、「なすの」にも、このような新型車両が使われているのか、と驚いているのを尻目に、私ひとり、得意になる。ところが、一旦閉まったドアが、なかなか開かない。もう7時55分を過ぎている。これは、上野の留置線に引き上げるのではあるまいか、とも思ったが、7時57分、ようやくドアが開く。駅員が、「発車まであとわずかです。素早くお乗りください」と叫んでいる。新幹線区間用ステップを踏んで、車内に入る。
開業した秋田新幹線は、1992年7月開業の山形新幹線と同じく、本格的な「新幹線」ではなく、「ミニ新幹線」と呼ばれ、レールの幅だけ、在来線の1067mm(狭軌)から新幹線の1435mm(標準軌)に改軌し、新幹線電車が、そこに乗り入れるという形を取っている。従って、従来の東海道・山陽・東北・上越新幹線とは違い、実際には、並行する在来線は存在しない。しかし、それでは、地方住民の足が消えてしまう。そこで、この区間(山形新幹線;奥羽本線福島−山形・秋田新幹線;田沢湖線盛岡−大曲間)を、在来線として走る、ローカル電車用にも、標準軌の車両が新製されている。もちろん、この区間は、他の在来線との直通運転はできない。また、秋田新幹線の、残りの大曲−秋田間は、この区間の奥羽本線を複線化し、標準軌・狭軌単線並列の形を取っている。日本の鉄道は、「左側通行」が原則なのであるが、この区間では、「右側通行」というシーンも見られ、諸外国を彷彿させる。このような理由で、「こまち」、「つばさ」に使われる、E3、400系は、他の新幹線電車より、約40㎝近く細い。このままでは、単純計算で、片側20cmもの隙間が、ホームと車両との間に出来てしまう。これは危険だ、お 年寄りが転落して列車に轢かれる、というので、幅の広い車両に合わせて設計されている、「新幹線」区間では、ドア下から、跳ね上げ式のステップが出され、転落しないようになっている。
東京を発車すると、「やまびこ・こまち1号」は途中、大宮、仙台、盛岡、と停まり、盛岡から、在来線改軌区間(田沢湖線)に入るため、幅の広いE2系(「やまびこ」)を切り離し、スマートなE3系(「こまち」)が、田沢湖、角館、大曲、と停まって、終点、秋田まで走る。また、お気付きかと思うが、この列車は、かつての在来線特急時代、及び一昔前の新幹線ターミナル・上野を通過する。「北の玄関」は、上野から東京に移り、上野は、「北への廊下」と化してしまったようだ。
1982年に東北・上越新幹線が暫定開業した時の東京側ターミナル、大宮で、どっと乗ってきて、自由席車は、通路まで客で埋まり、さながらラッシュ時の通勤電車、という感じになった。もちろん、予想通り、車内販売は来ないし、車掌すらやって来ない。トイレにも行けない。今日は、4時30分に足柄SAでトイレに行ったきりだ。これから、秋田に着く11時55分まで、我慢しなければならない。弁当を食べると、どうしても烏龍茶を飲んでしまうので、サンドイッチだけで朝食を済ませる。サンドイッチが500円、というと、大変な量のように聞こえるが、コンビニで買えば250円程度のものである。
杜の都、仙台に9時39分着。この「やまびこ・こまち1号」の見所は、ここからでもある。「やまびこ・こまち1・3・5・2・4・6号」(東京−盛岡間、上野又は大宮、仙台にしか停まらないノンストップタイプ・「やまびこ」はE2系使用)は、仙台−盛岡間で、「のぞみ」よりも速い、時速275km運転を行なう。「のぞみ」は追加料金が必要だが、こちらは、一般の「やまびこ」等と同じ料金でよい。これを試さない手は無い。仙台発車後、車窓にかじりつくが、もし知らなければ、時速275㎞運転中とはおそらく気付かない。そう言われれば、始めて、なんとなく速いかな、という感じである。軽い失望に思わず苦笑する。
盛岡に10時26分。ここから、またどっと乗ってきて、トイレの前から、連結部分の渡り板の上まで、ギュウギュウ詰めになる。秋田新幹線工事の最難関箇所と言われた、高架の東北新幹線から、地べたを走る田沢湖線への連絡橋、「盛岡アプローチ」を渡り、田沢湖線に進入する。一応、秋田新幹線でもあるが、ここから先は、踏切が残っていたり、鉄橋強度等の関係で、最高速度は時速130㎞で、在来線の特急と同じである。また、保安装置も、新幹線のATC(自動列車制御装置)から、ATS−P型(自動列車停止装置)に変わる。また、ここからの特急料金は、これまた在来線と同じ、A特急料金になる。
スキー場で有名な、雫石を通過する。スキー客はかなり多いが、ほとんどの「こまち」は、雫石を通過する。雫石までは、普通列車も多いし、スキーシーズン以外は、客もあまり多くはないのだろう。それにしても、通路はラッシュ並の混雑で、立ちんぼ続出という時に、こちらはリクライニングシートでくつろぐというのは、優越感よりも、申し訳なさが先に立つ。考えてみると、通路に立っている客も、トイレの前で顔をしかめている客も、連結部分の渡り板の上で、よろけずに立つのに精一杯の客も、私と、同じ権限のきっぷを持っているのである。車掌が、「自由席車、大変混雑いたしまして、申し訳ありません。譲り合ってお座りくださいますようお願いします」などと放送するから、ますます申し訳なく感じる。強要されて、心と正反対の反省文を書くよりも、こちらの方がかなり応える。どうやら、繁忙期に自由席を利用すると、精神に悪影響を与えるようだ。通路に目を向けると、恨めしそうな目を向けられそうなので、ここは冷酷になり、車窓に目を向ける。あちらこちらに白いものが見える。残雪だ。家に帰ってから地図帳を開くと、雫石−田沢湖間には奥羽山脈が横たわっており、この辺りは、標高894m、仙岩峠と呼ばれているようだ。雪は見る見る間に増え、一面銀世界、とまではいかないが、まさしく、山紫水明的な景色の中を、時速40㎞くらいのゆっくりしたスピードで、峠越えに挑む。長いトンネルを抜けたかと思うと、残雪がほとんどなくなり、間もなく田沢湖、という車内放送が始まった。
田沢湖でも、ほとんど乗客は減らず、終点、秋田目指して走る。
11時12分、角館着。かつては、松葉までの旧国鉄角館線が分岐していたが、奥羽本線の鷹ノ巣から比立内までの阿仁合線とともに、第三セクター、秋田内陸縦貫鉄道に転換され、その後、この二線がつながり、国鉄時代に計画されていた、鷹ノ巣−角館間を結ぶ、鷹角線が実現している。
11時22分、大曲着。意外なことに、ここでグンと客が減り、自由席車の通路にも、少し余裕が出来る。ここから、田沢湖線から奥羽本線に入り、進行方向が逆になる。私の近くにいた2人のおばさんが、「田舎やねえ。新幹線がスイッチバックなんて。珍しいわあ。ギャハハ」と、何が面白いのか、全く理解できないが、大笑いしている。大曲の人が聞けば、どう思うだろうか。
大曲を発車すると、「こまち1号」は、奥羽本線の上り線に進入する。日本ではここだけの、「右側通行」シーンが、ここから秋田まで、約30分に渡って展開される。下り線は、狭軌であるが、途中、神宮寺−峰吉川間12.4㎞は、狭軌部分のレールの外側に、標準軌部分のレールが組み合わさった、3線軌道である。これは、上下「こまち」の行き違いのためであるが、行き違いを行なわない列車は、本来の下り線には入らず、ずっと、上り線を走行する。なぜなら、標準軌部分は、ここを複線として使えるが、その間、狭軌部分は、全く使えないのだから、あちらから見れば、甚だ迷惑な存在であろう。
標準軌部分の新設などで大改築された南秋田運転所を眺め、11時55分、これまた大改築された、秋田駅新幹線ホームに滑り込んだ。いつ見ても思うが、JR東日本の駅名標は、それぞれの雰囲気は似ているのだが、全く統一されていない。JR北海道・東海・西日本は、ほぼ管内全ての駅が統一されている。九州・四国・東日本は、まだ、国鉄時代のままの駅もある。ところで、よく考えてみれば、秋田は、かなり北に位置するが、東京から4時間弱で着いてしまったせいか、そんなに、遠い、という感じがしな い。もっとも、この認識は、来る、「白鳥」への乗車で、完全に訂正されることになる。
12時37分、「いなほ1号」に乗る。これは、新潟始発だから、指定券を買っておいた。指定された1号車は、一番青森寄りの車両で、半室グリーン車の、グリーン・普通合造車である。グリーン席は、1〜4番までしかなく、定員は16人である。烏龍茶を秋田駅の売店でも買っておいたので、列車が動きだすと、すぐに、東京駅の「とんかつ弁当」を広げ、昼食にする。が、駅弁というのは、1つ食べたところで満足するものではない。現に私もそうである。賞味期限の問題もあるので、「チキン弁当」も同時に広げたが、これは失敗であった。ご飯(チキン風味の炊き込みご飯)がやたらに脂っこくて、到底、食べられない。「チキン弁当」800円のうち、唐揚げしか食べなかったから、300円分くらいしか食べていないが、箸を置いて、デッキのくずもの入れに放りこんだ。学校の、サービスランチのサラダの件を思い出し、ひとりで苦笑する。烏龍茶を開けて、飲みながら景色を楽しむ
時刻表を開いてみると、食事中に、男鹿半島へ向かう男鹿線が分岐する、追分を通過してしまったらしい。旧国鉄は、同一駅名をつけるのを避けていたが、追分駅は、北海道の、室蘭本線と石勝線の接続駅にもある。北海道の追分駅も、今回の旅行で通る筈である。
13時04分、八郎潟着。諸君がご存じの、あの八郎潟である。当たり前のことを書いているような気がしないでもない。
13時27分、五能線が分岐する、東能代に到着。五能線は、冬場には、日本海の荒波がレールを洗う、今では屈指のローカル線である。いつか、真冬にここに来てみたい。いや、来ることであろう。
13時50分、鷹ノ巣に到着。今でこそ、「秋田内陸縦貫鉄道線は、乗り換えです」と言うが、ほんの12年ほど前までは、「阿仁合線は、乗り換えです」と言っていたに違いない。第三セクター鉄道として残ってくれたのが、せめてもの救いであるけれど、淋しさは否めない。
14時05分の大館から、14時31分の大鰐温泉の間は、不毛の無人地帯で、旅行者の心を打つ。住んでいる人が聞くと、不愉快な表現であろうが、実際にそうである。また昔話になるが、かつて、北海道には、一日に、上下合わせても十本足らずしか運転されない、大赤字線がゴロゴロしていた。これらの線の、貧弱な、か細いレールは、誰に遠慮するでもなく、びょうびょうと広がる原野を、3mもの積雪の中を、一直線に延び、車窓は、景色というよりも、「超景色」で、焦点が合わないものであった。話を現在に戻すと、ここは山岳地帯なので、カーブは多いが、何もなく、小学校の校庭に置いてある朝礼台のような、貧弱な無人駅だけが、時々、姿を現す。こんなところに駅を造ったところで、誰が利用するのか、との思いに駆られる。
14時45分すぎに、旧国鉄黒石線が分岐した、川部を通過。国鉄黒石線は、1984年11月1日、初の民鉄転換線として、地元の弘南鉄道に引き取られた。しかし、不幸にも国鉄時代より客は減少し、黒石線だけで累積赤字は約7200万円に達し、弘南鉄道は、来年3月末をめどに、黒石線を廃止、今後は自社バス転換を検討する、と発表した。ちなみに、弘南鉄道全体で見ると、2900万円の黒字経営である。旧国鉄の廃線を引き継いだのは、第三セクターやバスがほとんどだが、同じ青森県の、下北半島を走る、JR大湊線のさらに支線、旧国鉄大畑線は、地元のバス会社、下北交通が引き取った。しかし、ここも国鉄時代より客は減少しており、下北交通は、「鉄道線」の廃止も視野に入れているという。第三セクター鉄道も、1995年度、黒字を計上しているのは、松浦鉄道4900万円、愛知環状鉄道3400万円、平成筑豊鉄道3000万円、甘木鉄道1300万円の4社だけで、下北交通を含め、32社は赤字を計上しており、北海道ちほく高原鉄道の4億7800万円と、北近畿タンゴ鉄道の4億1100万円がダントツでワースト2。続いて、のと鉄道2億5800万円、会津鉄道2億500万円、となっている。赤字総額は、27億4400万円だという。私が愚考するに、下北交通、北海道ちほく高原鉄道の2社は、相当、嫌な予感がする。こう言っては悪いが、特に下北交通は、本業のバス部門でも赤字を計上しているから、八つ当りのような形で、鉄道線廃止に踏み切る公算がかなり高い。
ともかく、今はこのことは置いておき、「いなほ1号」の旅に戻ろうと思う。
まもなく、終点青森である。「いなほ1号」の青森着は15時13分、「海峡11号」の青森発は15時17分で、接続がよすぎるので、少々心配ではある。ただ、指定券を持っているから、座るのには心配いらない。
ドアが開くやいなや走り、跨線橋を渡り、階段を1段飛ばしで駆け下り、「海峡11号」に飛び乗った。
指定席車に入ると、なぜか通路に立っている客がいる。それも数人ではない。かなり多い。席に落ち着いてから、彼らの会話を傍受すると、自由席車が鮨詰め状態で入れないらしい。本来、指定券を持っていない客が、指定席車に立ち入るのは禁止されているが、止むを得ないため、車掌も、何も言っていなかった。
それにしても、なぜ、こんなに混んでいるのだろう。私は1ヵ月前に指定券を買ったのに、通路側の席である。団体客でもいるのだろうか。窓の外は残雪というのに、車内は暑い。クーラーがかかり、少しはましになったが、クーラーのかかった車内から、荒れる海と、残雪を眺めるのは、おかしな気がする。15時47分の蟹田で、JR北海道の車掌に交代。次の中小国を通過すると、いよいよ、津軽海峡線に進入する。
ここから、JR北海道である。
JR北海道は、本州の地上にも、れっきとした駅を持っている。津軽今別という旅情あふれる名の駅だが、まわりに人家などある筈もないから、一日の列車は上下3本ずつ、計6本しかない。また、津軽今別駅は、津軽線の津軽二股駅(JR東日本)とも接続している。津軽線とは中小国で別れたことになっているから、一旦離婚した者同士が、ちらりと再会する、みたいな格好になっている。これから、こちらは、世紀の大プロジェクト、青函トンネルを目指す。小さなトンネルを9つ抜け、16時12分、10番目のトンネルに進入した瞬間、ジョイント音が消える。青函トンネル全長53.85㎞は、線路に継目の無い、世界一の超ロングレールを採用しており、これから北海道上陸までの約50分間、列車は、継目の無いレールの上を、滑るように走る。貫通路の上部には、LED電光掲示板があり、青函トンネル内の列車の現在地を表示している。だが、トンネル内の50分は、暇である。青函トンネルだ、というので、乗客は、始めの5分くらいは、もの珍しそうに外を眺めるが、10分もすれば、週刊誌などを開くようになる。トンネル内では、車内外の気圧差と、海面下240mへの降下のせいで、耳が二重におかしくなる。
プワーンという警笛が聞こえてる。特急「はつかり26号」だ。「はつかり」は、青函トンネル内は、時速140㎞で突っ走る。もちろん、北越急行ほくほく線と並んで、在来線最高速度である。一瞬ですれ違ってしまい、何だか物足りない。
青函トンネルは、ほぼ、線対称な構造になっている。本州側から海面下240mの中間地点の少し手前まで、12パーミル勾配で下り、ここから約5㎞の3パーミル下り勾配を経て、北海道へ向けて12パーミル上り勾配に挑む。ちなみに、海底下を走るのは、53.85㎞中23.00㎞、本州側陸上引13.55㎞、北海道側陸上引が、17.00㎞である。この陸上引というのは、本州、北海道の、地下部分(陸地部分)のことで、本州側には、竜飛海底駅が、北海道側には、吉岡海底駅が設けられ、地上へ通じる非常階段のほか、トイレや待合室、自動販売機、公衆電話などが備えられている。万一の列車火災等事故の際に、このどちらかの駅まで突っ走り、地上へ脱出する、言わば非常口である。だが、それでは施設がもったいない、という理由からか、840円の「ゾーン539」という見学コースに申し込めば、駅の見学ができるが、最近は、トンネル爆破などのテロを防止するため、手荷物検査も実施しているとか。
16時47分、吉岡海底駅に停車。案外薄暗い。青函トンネル建設では、13名もの尊い犠牲者が出ている。私など、ひとりでここにいろ、と言われても、一分も我慢できないかも知れない。洞窟のようなドームのところに、JRの係員と見学者の一団が固まって列車を待っている。彼らは、一本前の「海峡」でここまで来て、駅を見学の後、次の「海峡」に乗り、函館へ、というルートをとる。
17時03分、まわりが突然、パッと明るくなる。北海道だ。私が、夢にまで見た、憧れの北の大地、北海道に上陸したのだ。まわりの乗客も、いっせいに週刊誌などから目を離し、外の景色をしばし眺める。北海道独特の広大な土地が広がる。すぐに、知内という駅に停まる。数人が降りる。
列車は、やたらに長い駅間距離の無人駅をいくつか通過し、17時21分、木古内着。ここで江差線が分岐する。かつて、青函トンネル開通前は、江戸時代に松前藩がおかれた、松前とを結ぶ、松前線も走っていたが、青函トンネル開通という一大エポックの蔭に、ひっそりと消えていった。
辺りが真っ暗になり、上磯に17時57分着。函館まで、あと15分である。「海峡11号」は、ラストスパートをかけ、終着、函館を目指す。
五稜郭を通過し、函館本線に合流。18時11分、函館駅に滑り込む。「風の強い町」、北海道南端、かつての「本州連絡駅」、である。青森から約3時間。青函連絡船が約4時間だったから、確かに、速くはなった。だが、かつて、「渡道」という言葉で表現されたような、北の大地、北海道へ渡る、という希望は、少し薄れてしまった気がする。
同じホームの向い側には、すでに、18時46分発の、札幌行き特急「スーパー北斗19号」が、ドアを開けて待っている。発車の30分以上も前から、ドアを開けるということにも、北海道の大らかさ、雄大さが伝わってくる。これで、せめて北海道だけでも、大赤字線の廃止が中止されていたら、どんなに素晴らしかったか、と思うが、何しろ北海道が大赤字ローカル線の「本場」だったのだから、そんなことができる筈はない。
自由席車に荷物を置いて、2人分の座席を占領してから、ホームに下りて、820円の「特選鰊みがき弁当」を買う。これだけ聞いても意味不明であるが、ご飯の上に、かずのこ、鰊の煮付け、カニが少々、などがのっているもので、「鰊版親子丼」という訳である。発車まで30分以上あったから、私は、発車前に、全部食べ終わってしまった。少々物足りないような気がしたので、未練で容器をいじっていたら、かなりの上げ底であった。少しむかついた(この「むかつく」という言葉は、正しい日本語ではない、という人もいるが、間違いで、辞典にもきちんと載っている)から、屑物入れに、思い切り放り込んだ。
車内には、自動放送装置で、停車駅と到着時刻、車内の案内が、日本語と英語で流れているが、このJR北海道の英語放送は、私が知る限りでは、一番、発音がよい。京都市バスの英語放送など、音がこもって、何と言っているのか外国人でもわかりにくいほどだから、話にならない。繰り返して聞いていると、CDリピーターより勉強になる。
18時46分、力強いディーゼルエンジンの音を響かせて、函館駅を離れる。先日乗った、「さんべ」とは、大違いである。「スーパー北斗19号」は、東室蘭まで、長万部にも、伊達紋別にも停まらないから、約2時間、2人分の座席を占領できる。「スーパー北斗」ことキハ281系は、カーブで車体が内側に傾く、振子車両だから、カーブにも、スピードを落とさずに突っ込む。だが、制御振子のため、とてもスムーズである。また、この281系には、さらに、従来の鉄道車両の常識を破った設備がある。車掌室である。ふつう、車掌室というのは、運転室兼用のものを除くと、トイレのようだが、この車両の車掌室は、ホテルのフロントを思わせる、オープンカウンター方式で、車掌室をノックする勇気がなくても、オレンジカードなどを気軽に買える。私は、車内改札に来た車掌に、オレンジカードが欲しいのだが、と告げた。すると、車掌氏は、車掌室に置いてあるから、少し待ってくれ、と言う。しばらくすると、いきなり、先程の車掌氏が、山ほどのオレンジカードをかかえて戻ってきて、どれにしますか、と言う。JR北海道は赤字だから、商魂も旺盛と見える。「スーパー北斗」のを1枚買おうと、指差して、これをください、と言うと、車掌氏はなぜか当惑した顔になった。よく見ると、同じ台紙に、もう1枚、「はつかり(485系)」のもついている。2枚セットという訳だ。内心で、この商売上手め、とも思ったが、じゃあ2枚ください、と言うと、車掌氏はほっとした顔になり、ありがとうございます、と言った。
大沼公園付近を通過するころになると、LED電光掲示板に、「大沼公園は、道南一の景勝地です。雄大な眺めをごゆっくりお楽しみください」と出るが、なにしろ外は真っ暗なので、文字通り無用の長物で、憮然とした気分だけが残った。
長万部を通過。列車は、ここから、室蘭本線に入る。倶知安・小樽経由の函館本線経由の方が、札幌まで、距離的には近いのだが、「山線」と呼ばれる勾配区間が続くので、今は、函館−札幌間の優等列車は、全て室蘭本線経由になった。国鉄末期までは、函館−札幌間を、全区間函館本線経由で結ぶ、特急「北海」も走っていた。
かつて、胆振線が分岐した、伊達紋別を通過。胆振線は、ここと、函館本線の倶知安とを結んでいたが、廃線の基準となる数値(輸送密度)を算出する3年間の間に、丁度、運悪く、近くの有珠山が噴火し、胆振線の線路は灰に埋もれ、長期間不通になってしまった。当然、営業成績は悪くなるから、廃線基準として定められた、輸送密度4000以下、というのにひっかかってしまった。地元は、有珠山噴火という非常事態なのに、なぜそれを考慮してくれないのか、と猛反発したが、国鉄上層部や運輸・大蔵両省のお役人は、「規則は規則」と意味不明なことをほざいたあげく、第二次廃止対象路線に指定され、1986年10月31日、廃止された。誰が見ても、地元の言い分の方が理にかなっているのだが。
もう少し悲しい話をすると、そもそも、伊達紋別という駅名は、オホーツク沿岸の名寄本線に、すでに、紋別、という名の駅があったので、頭に「伊達」を付したのだが、元祖「紋別」駅の方は、1989年4月30日、名寄本線廃止とともに消えていった。 20時33分、東室蘭着。ここで、自由席車はほぼ満席となる。札幌まで、あと1時間ほどである。苫小牧、南千歳と停まって、21時45分、北の都、札幌着。次は23時05分発の、網走行き特急「オホーツク9号」であるが、これについては特急券を持っているので並ぶ必要もなく、カメラ片手に札幌駅構内をうろうろする。
ホームの放送によると、今日の「オホーツク9号」は、増結車があるという。しかも、増結車は全車指定だという。そんなに混んでいるのか、指定券を買っておいてよかった、とこの時点では思った。
ところが、実際に乗ってみると、思わず声をあげそうになった。私の指定された4号車は、グリーン・普通合造車で、普通席は8番から11番までで、定員は16人である。しかし、私の他には、ビジネスマン風の男性1人しかいない。一体どういうことか、と悩んでいるうちに発車のベルが鳴り、ディーゼルエンジンをふかして、動きだした。
その男性も、砂川で降りてしまい、4号車の普通席には、私ひとりが残された。果たしてこれでも増結する必要があるのかと、甚だ疑問に思い、増結車を覗くと、見事に空気を運んでいた。
鉄道など、空いている方が旅行者にはよいに決まっているが、夜行列車で、まわりを見回しても私ひとりだけ、というのは異常である。車掌が、ぽつんと座っている私を見て気の毒に思ったのか、「もう誰も乗らないから、前の席も使いなさい」と命令口調で言うから、前の座席をこちら向けに回転させて、4人分の座席を占領し、対角線状に足を伸ばした。
私は、今回の北海道旅行では、寝台は取らなかった。高いこともあるが、寝台でなくても、寝られる自信があったからである。ほぼ毎日、阪急電車の中で、約40分の睡眠を取ることに慣れていたから、簡単に寝られる、と思っていたのである。ところが、40分と一晩とでは訳が違う、ということに初めて気付いた。先日の「だいせん」の時は、始めから寝ようとは思っていなかったからよかったけれど、きのうの「ドリーム号」では苦しかった。鉄道旅行者にとって、「夜行の夜は長い」というのは常識であるが、それを実感したのはこの時でもあった。どうせ寝られないのなら、私は、ある計画を実行することにした。
この列車は、4時04分に遠軽に停まり、4時27分に生田原に停まる。注意を要すのは、生田原と、その次の駅、金華間にある、常紋トンネルである。この常紋トンネルの建設の際、いわゆる「タコ部屋」労働者が動員され、苛酷な扱いを受け、百人以上の犠牲者が出た。しかし、大正に入ってまもなくの頃でもあり、遺体は、周辺に乱雑に埋葬された。なかには、生き埋めにされた者もいたという。ところが、トンネル開通後、運転士は信号が突然消えるという怪現象を、乗客は火の玉を目撃した、という話が出て、戦後になって、慰霊碑が建てられた。この近くにある、現在は無人の常紋信号所は、国鉄時代、職員が詰めていた頃は、この常紋信号所勤務は、歴代の常紋駅長の家族に病人が多発したこともあり、気味悪がられ、嫌がられたという。その常紋トンネルを、ぜひこの目で見てみたい。そう思った。
だから、私は、眠らずにひたすら頑張った。雪が現れ始めた旭川、始発列車=最終列車という、人家も何もない、白滝付近、そして、かつて名寄本線が分岐した、遠軽でのスイッチバック、生田原駅の停車。ここまでは記憶にある。ところが、私の記憶は、ここで突然途切れ、留辺蕊到着まで、肝心の常紋トンネル付近の記憶は、なぜか全く無い。これでは、何のために頑張って起きていたのかわからない。寝てしまったのではない。生田原から留辺蕊まで、わずか27分である。私は、無人の生田原駅の、薄暗いホームを、はっきりと覚えている。それから27分の、留辺蕊駅停車も、はっきりと覚えている。何か、X−ファイル的な超常現象が起こったとしか考えられない。スカリーに、どうだ、と言わなければならない。
何か精神的に疲れてしまった。5時16分、北見。先述の、北海道ちほく高原鉄道の分岐駅である。1989年6月3日までは、JR北海道の池北線であった。5時43分、かつて、北見相生への相生線が分岐した、美幌着。相生線は、1985年3月31日に消えていった。
6時15分、終点、網走着。かつては、名寄本線の中湧別とを結んだ、湧網線が分岐したが、1987年3月19日、廃止された。私は、この旅行記で、何か機会があるごとに、廃線になった路線の話をしているが、この湧網線は、厳冬期には、結氷した能取湖やサロマ湖、そして、オホーツク海に果てしなく広がる流氷も眺めることができ、北海道の廃止路線のなかでも、有数の景観を誇った。ほんの10年ほど前までは、列車の窓から、流氷を眺められたのである。惜しいことをしたものだ、とつくづく思う。
次は、6時44分発の、釧網本線の普通で釧路へ出て、釧路で約3時間の待ちぼうけの後、「スーパーおおぞら8号」で札幌へ戻る予定である。ワンマン運転の単行ディーゼルカーに乗り込む。
ディーゼルカーは、途中の斜里あたりまで、オホーツクの海岸沿いを走る。冬のオホーツク海の眺めは最高である。もう流氷は見られないが、日本海の、日本的な荒々しさに比べると、オホーツク海は、日本離れした荒々しさを感じさせる。
8時過ぎ。緑に到着。なかなか発車しない。妙だな、と思い始めると、「お客さまに、お知らせいたします。この雨の影響により、時速25㎞の徐行運転を行ないます」と放送される。おかしなことになってきた、と思う。だが、ここから釧路までは約100㎞だから、遅くても、12時過ぎには着くだろう、と楽観的に構え、文庫本を開いた。
8時40分近くになって、緑の次の駅、川湯温泉に到着。すると、「お客さまにご案内いたします。この雨の影響で、列車は、当駅で、運転を打ち切りとさせて頂きます。運転再開の見通しは、たっておりません」と放送される。私の心臓の鼓動が、俄に速くなるのを感じた。運転士が、車内にやってきて、ひとりひとり、行先を尋ね始めたのだが、私は、このとき、少し勘違いをしていたのかも知れない。私は、「行先」というのを、この列車での目的地、と解釈して、「釧路」と答えた。ところが、私のすぐ近くにいた、旅行者風の若い男性が、いきなり、「大阪」と言った。彼の説明を傍受すると、私と全く同じルートをとって、大阪まで行くようだ。運転士は、この一言で、かなり慌ててしまったらしく、いきなり運転室へ取って返すと、無線機をつかみ、「列車指令、列車指令。こちら4725D列車。乗り継いで大阪までのお客さんがひとりいらっしゃいます。対応をお早く願います」と早口でまくしたてる。列車指令も、慌てたらしく、「大阪ですか」と聞き返してきた。私の他に、長距離の旅行者は5人ほどいて、私も彼らに混じって、運転室の前に陣取り、最新情報を入手すべく、しばらく待っていたが、ドアから雨が吹き込んでくるので、自分の座席に戻り、時刻表を開いた。私につられて、他の客もめいめい自分の座席に戻ると、時刻表を眺めだした。ここから釧路までは、まだ90キロもある。25キロの徐行運転をするにしても、9時10分ごろには運転を再開しないと、「スーパーおおぞら8号」は絶望的と見られる。ところが、時間は容赦なくたっていく。9時20分を過ぎてしまった。絶望的である。私は、時刻表の後ろについている、「JRの営業案内」の、「不通区間の発生」という項目と、「払い戻し」という項目に目を通して、「スーパーおおぞら8号」の特急券を払い戻してもらうことを本気で考えた。よくわからなかったので、運転士に聞こうと思い、立ち上がると、時刻表を眺めて、ため息ばかりついていた、他の旅行者もぞろぞろとついてきた。そのうちのひとりが、「おおぞら6号」の特急券はどうなるのか、と尋ねている。運転士は、手数料なしで払い戻すから、釧路に着き次第、窓口へ行ってくれ、と言うが、いつ釧路に着けるのかすらわからない。だが、そもそも、雨はそんなに強くはない。関西では、一般的な程度である。例の大阪への若い男性が、「大阪じゃあ、このくらいの雨で、不通なんて聞いたことが無いんですが、北海道ではよくあるんですか」と尋ねる。私も、それを聞きたい。運転士は、当惑した顔で、「いやあ、よく、というほどのことでもありませんが、春先の北海道、特に道東では、時々ありますね」と答えた。誰かが、「今年は、雪より、雨の方が多いんですか」と尋ねると、運転士は、少し、ウーンと唸ってから、「道東は、もともと雪はあまり多くはないんですよ。最高でも1mくらいですかね。今年も、そのくらいはあったと思うんですがねえ。札幌の方は、今年は雪が少ないって言ってますが」と言う。1mの積雪を、「少ない」と表現するところがいかにも北海道らしい。だが、こんな会話をしてもどうにもならないので、私たちは、誰からともなく、再びめいめいの席へ戻った。
いっこうに雨は止む気配を見せない。「かわゆおんせん」と書いた駅名標が、雨に打たれている。時刻表の、根室本線・石勝線の上りのページを開けて、今後の予定を練る。13時09分発「スーパーおおぞら8号」の次の、札幌行き特急は、15時16分発の、「おおぞら10号」だが、この列車は、従来型のキハ183系で、新型キハ283系「スーパーおおぞら」に乗れなくなってしまう。それを考えると、18時26分発の、「スーパーおおぞら12号」だが、この列車では、札幌着が22時15分になってしまい、22時発の青森行き夜行急行「はまなす」に間に合わない。いや、南千歳で降りれば間に合う。そんなことを真剣に考える。
9時50分ごろ、運転士が、「釧路までの方、集まってください」と言う。また、ぞろぞろと通路を歩いて、運転室の前に集まると、運転士が、「代行バスがもうすぐ来ます。スーパーおおぞら8号には間に合うと思いますので」と言う。私たちの間に、ほっとした空気が流れるのがわかった。私も、思わず胸を撫で下ろした。やれやれ、一安心である。
10時ごろ、阿寒バスが到着。「JR代行」と紙に書いて貼ってあるから、JRがあわてて借りたのだろう。車庫で昼寝していたバスらしく、かなりの旧型で、車内の時計も狂っていて、8時10分を指している。
ところが、なかなか発車しない。何をしているんだ、という空気が流れ始めた10時30分頃、ようやく、阿寒バスの運転士2人と先程のJRの運転士がやってきて、阿寒バスのひとりが、「これから、釧路へ参ります。JRの駅ごとに停車していきますんで、2時間半程かかると思います」と言う。それなら早く発車してくれ、と思うが、ひどくのんびりしている。業を煮やした誰かが、スーパーおおぞら8号には間に合うのかね、と尋ねる。すると、「8号は大丈夫でしょう」とのこと。JRの運転士が、行先を調べたメモを阿寒バスの運転士に渡し、「よろしくお願いします。お気をつけて」と言って、駅舎の方へ戻る。
走りだすと、流石、北海道で、信号も、対向車もない、ただ一直線に伸びた道路を、快調に飛ばす。
釧路には12時50分過ぎに到着。一時はどうなることかと思ったが、無事に、「スーパーおおぞら8号」に乗ることができた。売店で、920円の、「秋鮭弁当」とお茶を仕入れ、車内に入る。
すぐに発車時間になり、私も駅弁を開いた。ご飯の上にのった焼鮭がおいしかった。
13時29分、白糠。近くのおばあさんが、「へぇ。白糠にも停まるの」と頷いている。ちなみに、ここ白糠と言えば、鉄道ファンにとっては、複雑な思いのする駅に違いない。あの、憎き「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(いわゆる国鉄再建法、実態は国鉄解体法)」により、全国でトップを切って廃止されたのが、ここから茶路川に沿って北へ、北進とを結んだ、白糠線だからである。そもそも、北進、という地名は無く、これは、さらに北へ進めよう、という意気込みから付けられた駅名であった。上茶路−北進間の延長開業が1972年、廃止が1983年10月22日だから、わずか11年で姿を消したことになる。
池田に停まって、14時42分、帯広。強風の影響で徐行運転をしたので、若干、遅れている。帯広からも、かつては、2線が、南北へとのびていた。北へ、上士幌、糠平、十勝三股へと走った士幌線、南へ、広尾へと走った広尾線である。士幌線の、糠平−十勝三股間は、1978年の水害以来、二度と復旧されることはなく、タクシー代行を経て、1987年3月22日、全線が廃止された。広尾線には、大正、愛国、幸福といった、縁起のよい駅名があり、なかでも、『愛国から幸福ゆき』と印刷されたきっぷは、NHKテレビが紹介したことが火付け約となり、全国的な大ブームになった。この幸福という地名は、明治時代、この地に入植した福井県出身の開拓民たちが、幸せに、という願いを込めて、故郷から一文字を借りて、付けた地名である。広尾線は、1987年2月1日に廃止された。
新得あたりから、睡魔に襲われ、少し眠ってしまい、トマム付近で一度目を覚ましたものの、疲れのせいかまた眠ってしまい、ふと気が付くと、もう南千歳はすぐであった。どうやら、石勝線内でも徐行運転が続いたらしく、遅れは、約30分にも拡大している。
・結局、終着札幌には、定刻より40分近くも遅れ、17時40分少し前に着いた。よく考えてみると、日本の鉄道が40分も遅れるのは、少し異常である。アメリカなどは、時刻表こそ、日本のように分単位で記してあるが、飛行機や船のように、5分単位か10分単位、あるいは30分単位くらいで記し、「頃」とでも付した方が、実態に即しているのだが。
予定では、17時15分発の特急「オホーツク7号」で旭川まで行き、旭川19時発の特急「スーパーホワイトアロー24号」で20時20分に札幌、と考えていたが、「オホーツク7号」はもう発車してしまっているから、間に合わない。18時発の、「スーパーホワイトアロー21号」に乗り、旭川から「ライラック28号」で、21時23分に札幌に戻ってくる、というのも一案だが、また遅れるのも嫌なので、22時発の「はまなす」まで、札幌駅で延々と待ち続けることにした。しかし、こう簡単に言っても、あと4時間以上もある。ここが、厳冬の、吹雪の旧天北線の浜頓別あたりの駅で、暖房の利いた待合室があるならば、4時間程度など喜んで待つが、北海道の中では、一番、旅情の薄れてしまった近代的な高架駅、札幌駅である。待合室はあるにはあるが、高架下のコンコースにしかなく、テレビなど要らないものまで付いている。だが、ホームは、粉雪がちらちらと舞い、寒いし、ベンチが少ないので、テレビを見ながら、700円の「とりめし」を食べる。これは、炊き込みご飯がおいしかった。
夕食を終えても、まだ、19時前である。北海道銘菓の、「白い恋人」という菓子をお土産に買い、辺りを観察する。あの、女子高生というのは、日本全国、どこへ行っても、同じ格好で統一されている。札幌にも、ルーズソックスの波は押し寄せているようだ。
ホームに上がって、上野行き寝台特急「北斗星6号」を見送り、続いて入線してきた、上野行き臨時特急、「夢空間北斗星」を眺める。「夢空間」には、寝台料金が、一室6万7280円という、超豪華個室「エクセレントスイート」が連結されている。一体どんな人が乗っているのだろうか、と覗き込むと、普通の家族連れであった。憮然とした気持ちで、「夢空間」を見送ると、また、することが無くなった。待合室に戻り、テレビを見るが、面白くない。JR北海道編集の、「ダイヤ」という、道内だけの時刻表を買い、それを眺める。さすが道内専用というだけあって、旧国鉄廃線転換バスも、ほとんどが載っている。全国版の時刻表とは、非情なもので、かつては、「国鉄在来線」として、本文に恭しく載せていたのに、今では、付録の「会社線ページ」にはもちろん、索引地図にも、その存在すら載せていない。
22時前になり、ホームに上がり、急行「はまなす」の入線を待った。「はまなす」には、一般の指定席と同じ料金で、足を伸ばして雑魚寝も出来る、「のびのびカーペット車」も連結されているが、私は、見たことがなかったので、無難な、一般指定席「ドリームカー」を申し込んでおいた。
いざ、「はまなす」に乗る時になって、私は、激しく後悔した。「のびのびカーペット車」の設備は、簡易寝台とでも呼べる程である。眠るところは、床より一段高く、カーペットが敷いてあるだけだから、背中が少し痛いのを我慢すれば、毛布もあり、足も伸ばせるので、ゆっくり眠れるではないか。ただ、まともなカーテンが無いので、若い女性は、よした方がよいかも知れない。それに比べて、私の「ドリームカー」は、大袈裟なのは名前だけで、何というほどのことはない、ハイリクライニングシートである。新幹線0系のグリーン車並ではあるが、足を投げ出せないのがつらい。
だが、2日も徹夜が続いた疲れのせいか、よく眠れ、ふと気が付くと、「まもなく青森」という放送が始まった。慌てて顔を洗い、軽く髪の毛を直すと、まだ寒い青森駅のホームに降り立った。3月31日最終日、5時18分である。
暖房のよく利いた待合室で、パック入りの牛乳を飲みながら、今回の旅行の回想にふける。
大阪行き特急「白鳥」の発車は6時11分で、約1時間あるが、何故か、この時の1時間は早く、あっという間に6時を過ぎた。売店でサンドイッチを仕入れて、ホームに向かった。売店のサンドイッチの値段は、もろに、その土地の物価を反映しているような気がする。京都のコンビニで250円程度の、トレイのパックに入ったサンドイッチが、新大阪駅700円、東京駅500円、青森駅250円である。いくら何でも、新大阪駅の700円は高過ぎる。私は、この3駅でそれぞれサンドイッチを買ったが、青森駅のものが一番安く、そして一番おいしかった。
長い跨線橋を渡って、ホームに下りると、そこに停まっているのは、JR西日本京都総合運転所の、国鉄メーク485系。私の知る限りでは、「白鳥」には、JR東日本上沼垂運転所の、リニューアル485系が使用されていた筈なのだが、その積もりで、高い、指定席特急券を買ったのである。JR東日本は、指定席車は、ハイグレードに改造するが、自由席車は、シートモケットを張り替えるくらいのことしかしない。一方、JR西日本は、どちらも、標準的なレベルにまで改造する。こんなところにも、JR2社の考え方の違いが反映されているが、高い特急券を奮発して損した。この時は、「雷鳥」脱線事故の影響か、3月改正で、車両運用が変更になったのか、はたまた他の事情があるのかわからなかったが、家へ帰ってから調べてみると、3月改正から、車両の受け持ちが移管されたらしい。
6時11分、特急「白鳥」の、大阪まで1040㎞、12時間24分の旅がスタートした。指定席車は、がらがらである。サンドイッチを食べ、手を洗おうと洗面所に行くと、水が、ちょろちょろとしか出ない。「水量調節ダイヤル」などはないから、故障か、何か詰まっているのか。これから大阪まで12時間。半日である。何回、洗面所にお世話になることだろう。
大館を過ぎて、車内販売で、800円の「鶏めし」と、お茶を買う。昼食用だから、食べるのは4、5時間も後になる。今朝は・早かったせいか、眠くなってきた。ここは一度乗った区間だから、目を閉じた。だが、熟睡は出来ず、停車駅ごとに目を覚ました。秋田に8時43分。少し、遅れている。「あきた」という駅名標が、なつかしく感じる。ここから羽越本線に入り、新発田・白新線経由で新潟を目指す。車掌、運転士が交代する。
羽後本庄に9時19分。3分遅れである。車内放送が、「列車、少々遅れております。ホームへ降りられないよう願います」と言っている。ここから、旧国鉄矢島線、由利高原鉄道鳥海山ろく線が分岐する。
酒田に10時13分。依然として3分遅れている。私の隣に、おばさんが乗ってきた。車掌との会話を傍受すると、新大阪までらしく、暗澹とした気持ちになる。
酒田−村上間は、電化されているのに、普通列車は、全て、気動車というひねくれた区間である。かつて、標準軌化工事前の田沢湖線も、電車は特急「たざわ」だけで、普通列車は、全てディーゼルカーであった。
新庄への陸羽西線が分岐する余目を通過する。
米沢へと走る米坂線の分岐駅、坂町に11時38分。ほぼ、遅れは回復している。
新発田に11時54分、定刻着。何やら聞いたことのある名前である。列車は、ここから、新潟への短絡線、白新線に入る。
新潟に12時14分着。ほぼ満席になっていたのが、どっと降り、また、どっと乗ってきた。私は、かねてから、途中駅までの指定券を買った場合、そこから先の区間の分は、発売されるのか、されないのかと疑問に思っていたが、これではっきりした。発売されるのである。その方が無駄にはならないが、乗車後に、区間延長でも申し出されたら、どうするのだろうか。
新潟は6分停車であるが、その間に、ほとんどの乗客が入れ替わった。同時に、ここで進行方向が変わるので、座席の向きを変えなければならない。何もしなければならないことはないが、周りの客が変えるから、こちらも必然的に変えざるを得なくなってくる。前後の人と相談しながら、座席を回転させる。
新潟を発車したので、大館駅の駅弁「鶏めし」を開けた。札幌駅の「とりめし」とよく似たような味で、おいしかった。
「白鳥」の旅は、あと半分になった。時速100キロ程度で快調に走る。
直江津に13時53分。運転士が、JR西日本に交代。直江津と、次の谷浜との間に、JR東日本と西日本の境界がある。
14時過ぎ、谷浜駅を通過。駅名標は、まぎれもなく、青色ベースのJR西日本のものである。なつかしさと同時に旅が終わってしまう淋しさも、こみあげてくる。
糸魚川、魚津、と停まって、15時07分、富山。富山へは、昨年12月19日、ペルー日本大使公邸人質事件発生の翌日にも来た。あの時、富山は、みぞれで寒かったが、今日はよく晴れている。2分停車で、富山をあとにする。
金沢を過ぎ、加賀温泉郷に入り、16時26分、芦原温泉。この駅の駅名標は、JR西日本タイプのものに関わらず、何故か、駅の所在地が書いてある。
北陸トンネルを抜け、17時11分、敦賀。もう、琵琶湖の北まで帰ってきた。ループ線をたどり、湖西線に入る。
気が付くと、西大津駅を通過していた。眠気が醒めないので、洗面所へ顔を洗いに行く。
18時03分、京都着。つくづく、ああ、帰ってきてしまったなあ、と思う。
大山崎付近で、阪急の高架を眺めると、また、なつかしさと、淋しさしさがこみあげてきた。阪急の特急が目に入り、ああ、やっているな、と思う。
夕闇迫る新大阪駅に滑り込む。隣のおばさんが降りる。
18時35分、通勤客らでごった返す、大阪駅4番線に入線。駅の放送の、「大阪、大阪、終点、大阪です。長らくのご乗車、お疲れさまでした・・・」というのが、ひときわ、耳によく響く。
3月29日の東京駅から、3月31日の大阪駅まで、鉄道の乗車総キロ3649.7㎞、JR全線比18.4%の旅が終わった。
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