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旅行記

ここでは、旅行記を紹介します。

旅行記
No.006
中国地方 方面    

題名

「中国山地の光と影」  著・真野 修史(RPS)

中国山地の光と影

真野 修史

 

 「時刻表」の索引地図ページを開けて、JR西日本の管轄区域をしばらく眺めてみる。

  なんとローカル線の多いことか、と思う。

 中国地方の北側を一直線に貫いているのは、山陰本線であるが、路線分類上、「幹線系線区」となっているのが不思議なくらい、長大なローカル線である。もっとも、最近は京都近郊(京都−園部)が「アーバンネットワーク」に組み込まれ、「嵯峨野線」などという愛称を付けて貰ってはいるが、局地的なもので、その他の区間は暇を持て余している。「山陰本線は偉大なローカル線」ということばがある。まさにその通りだ、と思う。JR西日本管内最長の路線ながら、電化区間は、京都近郊と、米子付近のみ、複線区間にいたっては、京都付近の新線切り替え区間(嵯峨嵐山−馬堀)とその周辺のごく一部、というありさまになっている。

 少し山陰本線についての話が長くなったが、とにかく、JR西日本管轄区域は、ローカル線だらけである。ここで、少し鉄道に詳しい人ならば、「JR東日本も、東北地方に長大ローカル線をJR西日本以上の規模で抱え込んでいる」と言われるかもしれない。確かにその通りで、時刻表上では、JR西日本とJR東日本は相似のようにも見える。だが、いわゆる「ドル箱路線」の規模がまったく比較にならない。JR東日本は、2本の新幹線を擁し(10月1日の「長野行新幹線」開業にともない現行の在来線を第三セクターに移管するので、新幹線は3本になり、さらにローカル線が減る)、世界一の超過密都市、東京(首都圏)をまるまる抱え込み、その通勤輸送をほぼ独占している。一方、大阪圏は、昔から、「私鉄王国」と言われ、国鉄末期には、5大私鉄(阪急・京阪・阪神・南海・近鉄)のシェアが国鉄を圧倒し、「国鉄には絶対に乗らない」という人も、特に阪急電鉄利用者層を中心に多かった。さらに、首都圏は、「東京一極集中」と言われ、ますます拡大しているのにひきかえ、大阪圏は、「経済の地盤沈下」で、その経済力は年々低下している。たたでさえJRのシェアが低い大阪圏が低迷し、JR独占状態の首都圏がますます拡大しているのだからかなわない。JR東日本とJR西日本の格差は、ますます開きつつあるのだ。

 そのような中で、JR西日本は、冴えない厄介者を多数抱え込みながらも、稼ぎ頭の大阪都市圏を「アーバンネットワーク」と位置付け、路線ごとに愛称を付けたり、新型車両を投入したり、運賃を据え置いたり、などJR移行直後とは比べものにならないほど、輸送の充実を続けており、シェアも年々拡大しつつある。

 さて、一方の「冴えない厄介者」であるが、再び時刻表の索引地図に戻って、中国地方のページを開けると、中国山地の片田舎に、よくもここまで線路を敷きつめたものだな、と思う。青い色で表示された「地方交通線」が、ごちゃごちゃと、相当に入り組んでいるのがわかる。

 また、この地区は、全国的に見て、国鉄経営再建のもと犠牲になったローカル線が、比較的少ない。完全に廃線になったのは、倉吉線(倉吉−山守・1985年3月31日限り)、鍛冶屋線(野村(現西脇市)−鍛冶屋・1990年3月31日限り)、大社線(出雲市−大社・1990年3月31日限り)、美祢線の枝線(南大嶺−大嶺・1997年3月31日限り)、第三セクター鉄道移管が、宮津線、三木線、北条線、若桜線、岩日線。ただし、このうち、鍛冶屋線、三木線、北条線は、3線とも加古川線の支線で、中国地方の路線とは言い難い。また、この播磨地方では、高砂線(加古川−高砂・1984年11月30日限り)や播但線の姫路以南(姫路−飾磨港)なども廃止になっているほか、1980年代の「特定地方交通線」時代が始まる以前、1970年代に、極端な輸送需要の低下により廃止された路線として、篠山線(篠山口−福住・1972年2月29日限り)があげられる。こうして書き出してみると、かなり多く感じるが、北海道の26線区(このうち「特定地方交通線」以降が24線区)、九州の28線区(同23線区)に比べればはるかに少ない。

 今回は、姫新線をメインに、陰陽連絡線の雄、伯備線と、古代史跡が点在する吉備線を訪れようと思う。

 1997年7月24日、午前8時35分。大阪駅3番線から、117系12連が発車した。新快速3605M姫路行である。117系は、一時期、「新快速」運用から撤退して、福知山線や奈良線の快速で、のんびりとした毎日を過ごしていたが、阪神大震災後の輸送力増強に伴い、朝ラッシュ時の一部の新快速に復活した。この3605Mがまさにその列車だったのである。

 意外なことに、大阪で降りる人の方がもちろん多いのだが、神戸方面へ直通する通勤客らもかなり多く、大阪からは座れなかった。三ノ宮でがらっとすき、ようやく座れた。

 気が付くと、姫路であった。やたらと眠い。売店でガムと烏龍茶を買う。ガムを噛んで、眠気を追い払う。

 この「ガム効果」は絶大で、姫新線の折り返しキハ47系3連が入線してきた頃には、完全に覚醒していた。

 この車両運用がまたおもしろい。このうち、津山方の2両が、これから私が乗る予定の、10時09分発の快速津山行になる。それでは、残り1両はどうなるのか、と思えば、その次の、10時18分発の普通佐用行になるらしい。確かに、次の姫新線上り列車の姫路着が10時29分なので、少し考えればわかることではある。

 その10時09分発の津山行は、姫新線下り唯一の快速列車だからか、どこかの史跡見学に行くらしい年配客らで、この時間のローカル線にしてはなかなかの、乗車率50%前後で発車した。

 「この列車は、快速、津山行のワンマンカーです……」と、テープによる自動放送が始まる。やはり、きょうは普段より客が多いのか、「ワンマンカー」と連発している割には、車掌が乗っていて、「トゥーメンカー」である。

 姫路周辺のわずかばかりの市街地を抜けると、2両のディーゼルカーは、田園地帯を行く。

 先述の年配客らが、本竜野で降りる。だが、乗ってくる客も同じぐらいいて、ほぼワンボックスに2人、という乗車率50%を保っている。私の斜め前に座っているおばあさんは、飴をなめながら眠っている。完全に眠っているようなのだが、あれで飴の味がわかるのだろうか。
 一般に、こういうローカル線の快速は、「快速」とは名ばかりで実態は「鈍速」、速度はのろくとも、単に駅を通過しさえすれば「快速」なのか、と思わせるものが多い。ここの快速も、例にもれず、お世辞にも速いとは言えないスピードで走っている。

 播磨新宮を出ると、にわかに山の気配が漂い始める。時折、線路のすぐそばまで茂った蔓が、車体をこする。

 姫新線は、まだ、Y字型(両開き)ポイントの駅が多いのか、通過駅でも、スピードを落としてのろのろと通過する。ベンチに座って、次の普通列車を待っている人の顔が、はっきりと識別できる程で、こんな鈍速で通過するのが、馬鹿にしているようで申し訳なく感じる。ただでさえ列車本数が少ないのだから、普通とそんなに変わらない快速を走らせるくらいなら、普通列車に格下げして、フリークェンシーを向上する方がよいのではないか、とも思う。

 30分ほどノンストップで走り、11時06分、佐用着。発車は09分である。ここ佐用は、山陽本線の上郡と因美線の智頭との間を結ぶ第三セクター、智頭急行との接続駅である。智頭急行は、国鉄智頭線として建設が始まったが、国鉄再建法により、1980年に工事がストップ。その後、鳥取・岡山・兵庫の3県が主体となり、第三セクターの智頭急行を設立し、工事を再開。1994年12月3日、JRグループのダイヤ改正にあわせ、開業にこぎつけた。同時に、JR直通特急「スーパーはくと」がデビューし、大阪−鳥取間を、2時間台後半という驚異的な速さ(それまでは約4時間20分)で結び、「陸の孤島」と化していた鳥取県は、絶大な「智頭急行効果」に大感激しているという。

 停車駅ごとに高校生を拾い集め、11時59分、津山に着いた。

 津山は、姫新線、津山線、因美線が接続する一大ジャンクション駅だが、JR西日本のお膝元の駅を見慣れた目にはそれほど大きい駅ではなく、絶対的な乗客数の差を実感する。

 12時02分の中国勝山行があり、接続は極めてよいのだが、中国勝山から先の乗り継ぎがなく、津山13時15分発の新見行まで、列車は1本もないので、ここで昼食でもとろうと思い、とりあえず改札口を出てみた。やはり、この地区の中心だけあって、ちょっとした街である。

 駅舎を出てすぐ左を見ると、駅弁屋も兼ねた立ち食い食堂があったので、入ってみた。駅弁でも買って、ホームのベンチででも食べようか、とも思ったが、なにしろ暑いので、隣のおっさんが食・べている、カレーライスを注文した。厨房が目の前に見えるのだが、おばさんは、慣れた手つきで、熱湯の中からレトルトのパックをつまみ出して、ご飯にかけている。よくもそんなに堂々と、と半ば呆れていると、入れ替えに、新しいレトルトのパックを熱湯に放りこんだ。普通、レトルト食品は3分も温めれば十分なのだが、かような方式のため、私のも10分以上熱湯に浸けられていたに違いない。かつてないほど熱いカレーであった。                      だが、この店、ほかほか弁当の店程度の規模にも関わらず、従業員が3人もいる。おっさんが1人、おばさんが2人であるが、おっさんは落花生の殻をむいて、それを頬張りながら喋ってばかりいる。理科の某教師のようでもあるが、これで経営が成り立っているのだろうか、と心配になる。 レトルトのカレーに450円も払い、猛暑のホームに戻った。

 丁度、12時25分発の鳥取行急行「砂丘4号」が入線してきた。こう書くと、偶然のようにも聞こえるが、実は、「砂丘」を見たかったので、時間を調整してホームに戻ってきたのである。

 この「砂丘」は、11月29日のダイヤ改正で廃止が決まった。私は、10月に乗りにくる予定であるが、なぜそこまでするのかと言えば、タブレット(通票)を交換して走る、唯一の急行列車だから・である。タブレットというのは、信号機が自動化されていない単線区間の、いわば「通行手形」で、丸や三角や四角の穴が開いた、金属製のタブレットを持っていない列車は、その区間(閉塞)に進入できない、という運転保安システム。かつては、日本全国のローカル線はもちろん地方幹線でも見られたが、CTC(列車集中制御装置)化の進行とともに、日本全国のJR線でも数える程になった。その中で、ここ因美線津山−智頭間は、急行列車も走る唯一の区間になった。つまり、走りながら、タブレットの授受をするシーンが展開されるのだ。タブレットは、革の袋に入っており、さらに、走りながらでもキャッチできるように、袋には、環状の「つる」がついており、車両に付いているタブレットキャッチャで引っ掛けるか、補助運転士が、自分の腕を絡ませてキャッチするのだが、ここ因美線では、「腕」によるキャッチが多い。また、当然、区間ごとにタブレットは異なるので、次の区間との境界駅では、前の区間のタブレットを、ホームに立っている受器に、輪投げのように放り込む。ちなみに、以前、私の友人のK君と話していて気になったのだが、CTCとATS(自動列車停止装置)やATC(自動列車制御装置)とは、全く関係が無い。国鉄は、1960年代に、全線のATS化を完了している。これは、1962年5月3日の「三河島事故」など、数々の大事故の教訓である。

 「砂丘4号」も、もちろん、タブレット交換列車である。駅ホームに、運転士が待機しているので、私は、最初、運転士交代かな、と思った。しかし、列車が到着して、待機していた運転士が運転室に入っても、前任の運転士は出てこない。そうか、と私は気付いた。理由は、もう言わずもがなであろう。

 「砂丘4号」は、乗車率50〜60%で発車。私は、見えなくなるまで見送ってから、姫新線ホームに移った。

 12時34分、単行のキハ120系300番台ワンマンカーが入線してきた。津山止の列車だが、行先表示幕が回転し、「新見」となった。高校生らが、ドヤドヤと乗り込んでいるので、間違いあるまい。13時15分発の新見行だ。私も、暑いホームから、冷房の車内に退散して、時刻表を開いて、発車を待った。

 JR西日本ブランドのキハ120系には、3つのバリエーションがある。まず、最初(1992年)に登場したのが、普通鋼製・セミクロスシート配置の200番台。このタイプは、越美北線の6両と木次線の2両の計8両のみで、エンジン出力は250PS、側窓は上下2段式で、開閉できる。次に、1993年に登場したのが、ステンレス製・ロングシート配置の0(基本)番台。このタイプは22両が製造され、関西本線・木次線・美祢線などで活躍している。エンジン出力は330PSにパワーアップされ、窓は固定式。さらに、1994年から製造されている、300番台。これは、基本番台の車体に、200番台の座席配置を採用したタイプで、200番台を試作車、基本番台を量産先行車とすると、キハ120の量産バージョン、最も完成された形といえる。唯一、現在も増備が続けられており、今年4月1日現在で、59両の大所帯を誇り、JR西日本の非電化ローカル線のほとんどの線区に進出している。なお、どの番台とも、各線区(鉄道部)ごとのオリジナルカラーをまとっており、ローカル線のイメージアップに貢献している。ただ残念なのは、どの番台ともトイレ設備のないこと。JR西日本は、「長距離客の需要が少ないため」としているが、本音は、メンテナンス等に金がかかるからであろう。また、単行のワンマン運転が増え、「ローカル線はいつ乗っても座れる」という法則が当てはまらなくなってきている。もっとも、客などほとんどいないにも関わらず、4、5両もの旧型ディーゼルカーを延々と列ねて走らせ、どんな閑散線区でも車掌を乗務させ、運転士のほかには欠伸している車掌しか乗っていないような列車を走らせても平然としていた国鉄時代を比較の対象とすること自体がおかしいのであるが、列車で座れるのと立っているのとでは、受けるイメージは大きく異なる。この効率化推進の弊害ともいえる問題は、JR東日本の東北地方でも問題になっており、今後のローカル線はどうあるべきか、いま一度、考え直さなくてはならない時期にきている。

 13時15分、下校の高校生らに立ち客も出し、定刻に発車。「この列車は、新見行ワンマンカーです。…」と、テープによる自動放送が始まる。
 一駅ごとに高校生を吐き出していき、美作追分を出る頃には、1両のワンマンカーはがらがらになった。

 14時05分、中国勝山着。小・中学生らがどっと乗ってきて、車内は再び満席になる。
 勝山は、この地域の中心をなす町なので、駅員ぐらいいるかと、改札口付近に目をやると、窓口らしきものには、ぴしゃっとブラインドが下りている。いまでは、中国勝山ほどの駅まで無人駅になってしまうのかと、目からうろこが落ちる思いで、もう二度と開かないであろう窓口を眺めた。 まさにうるさい小・中学生らは、一駅か二駅で次々に降りていき、再び閑散となったディーゼルカーは、最後の峠越えにかかった。エンジン音も軽やかに、深い緑を抜けると、左前方から伯備線が合流し、14時51分、終点、新見着。

 新見駅は、駅員こそいたが、私の予想より、はるかに小さな駅であった。
 15時35分発の伯備線・岡山行普通電車に乗る。久しぶりの「電車」であった。

 伯備線は、高梁川の渓谷(少し言い過ぎか)に沿って走るので、景色はよい。
 備中高梁から、大学生らしい集団が乗ってきて、車内が騒がしくなる。これを書いているのは、9月14日なのであるが、「中3研修旅行」の時の、乗り合わせた一般乗客の気持ちが実感できる。 私の前に座っている男性二人が、何やら指差して話しているので、何か見えるのかと、そちらに視線を向けると、「容姿端麗」な若い女性が座っていた。

 16時30分、総社。約1時間後、この駅にもう一度来る予定である。どういうことかは、この後の展開をお楽しみに。もっとも、何も見ずに頭の中だけでJRの線路図が描けるくらいの人ならば、大体の想像はつくであろう。総社駅の近くには、有名な宝福寺がある。こう書いてもぴんとこない人がほとんどであろうが、「雪舟の鼠の絵」といえばわかるであろう。そう、あの言い伝えが残るのが、ここ宝福寺なのである。

 倉敷から山陽本線に合流し、16時55分、終点、岡山着。吉備線ホームへと向かう。       吉備線は、岡山−総社間をまっすぐに結ぶ路線である。いま通ってきた、山陽本線経由の方は、三角形の二辺を通る恰好になるので、遠回りなのだが、吉備線が非電化・単線で、おまけに走るのが、古びた国鉄型ディーゼルカーばかりなので、遠回りだが電化・複線の山陽本線経由の2倍近くもの時間を要する。

 キハ47系3連が入線してきた。オリジナルのキハ47はセミクロスシートだが、この車両はロングシートに改造されている。さらに、バス用クーラで、簡易冷房改造されている。日本中どこへ行っても、やはり「おばさん」は図々しく、あっという間に席が塞がってしまった。

 仕方がないので、一番前の、運転室の後ろの小窓に陣取る。国鉄型の車両は、客室には冷房がついていても、運転室にはついていないケースが多い。このキハ47は、客室も非冷房で登場したのでもちろんそうなのだが、扇風機がフル稼働している。その扇風機がまた面白い。客室にも扇風機はあり、「JR西日本」とロゴが入っているのだが、運転室のそれには、「JNR」のロゴが入っている。“Japanese National Railway”の略で、すなわち、「日本国有鉄道」である。

 17時19分、2分ほど遅れて、旧型エンジンが唸り声をあげた。すぐ右にカーブして山陽本線と分かれ、草むした線路を行く。なぜか、吉備線の線路は雑草が多い。まさか、保線係がさぼっている訳ではあるまいが、何か理由があるのだろうか。

 ディーゼルカーは、小さく横揺れしながら、民家の裏庭を抜け、田畑のあぜ道をごとごと走る。まだこんなに国鉄臭い路線もあったのか、などと思いながら、前方を注視する。

 いつもの阪急京都線の40分間は、やたら暇で退屈なのに、この時の32分間は本当に短く、気が付くと、もう総社であった。

 18時06分、いま来た道を引き返し、18時43分、岡山。
 岡山から先は、この夏3度目なので、いい加減飽きてきているが、家に帰らない訳にはいかないので、山陽本線上り・姫路行普通電車に乗る。

 姫路から223系新快速電車に尼崎まで乗る。アーバンネットワークエリアの駅の大きさと明るさに、これほどまで目を見張ったのは初めてであった。

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