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日本高速電気鉄道沿革
第1次世界大戦当時、1人の相場師が軍需景気で巨満の富を得ました。彼の名は成田金兵衛、通称「成金」、彼はその資産を、鉄道建設に注ぐことを考え、手始めに小田原急行を買い占め、傘下におさめました。
金兵衛は、鉄道に関しての壮大な夢を抱いておりました。それは、東京から下関、釜山経由北京までの国際急行列車を自前で運行することでした。夢を実現するために金兵衛は次々に中小鉄道会社を買収して行きました。静岡電鉄、遠州鉄道二俣線、愛知電鉄、伊勢電鉄、阪神電鉄、山陽電鉄、両備鉄道等、しかしながら、当時の鉄道省は、私鉄に対しては風当たりが厳しく、金兵衛の壮図を妨害すべくあらゆる手段で買収を妨害したのです。
そこで金兵衛は鉄道省に対向できる強力な後援者を捜しました。それが軍部だったのです。金兵衛は、帝国陸海軍省に対し、切り札を出し支援を呼びかけました。当時、陸軍省は、大型戦車の開発を考えておりましたが、ネックになったのは、鉄道省の車両限界でした。戦車の輸送は鉄道によらざるを得ないのですが、当時の鉄道省の車両限界は、英国を除き欧米諸外国より小さく大型の戦車の輸送は不可能でした。そこで金兵衛は、大型戦車の輸送が出来る米国並の車両限界の鉄道を敷設することを陸軍省に申し入れ支援を求めました。もちろん直ちにそのような鉄道を敷設することは不可能なため、自ら買収した、地方鉄道を機軸に、まず新宿から下関まで、鉄道省並の狭軌で開通させ、その後順次標準軌で、米国並の大型車両限界の鉄道に変換するという案を提出しました。さらに、海軍省にも働きかけ、軍事輸送を最優先するという条件で、支援を要請しました。
これに対し陸海軍省は全面的に支援を約束し、鉄道省に対し強硬に申し入れ、当時、すでに国有化されていた、関西線、赤穂線、岩徳線、呉線、小野田線、宇部線等を譲渡させるとともに、未開通部分については、陸軍鉄道連隊の演習という名目で、突貫工事を行い、ついに昭和6年新宿、下関間に日本高速電気鉄道を全通させたのです。新規開通分の路線は、トンネル、橋梁共にアメリカ並みの建築限界で建造されました。その後金兵衛は直ちに鉄道の標準軌化に着手し、準備工事を開始しましたが、青天の霹靂のごとく、鉄道省の標準軌超特急構想が浮上したため、高速化も併せて着手しました。大型戦車を鉄道輸送したいという陸軍省の強い要請により、陸軍省鉄道連隊支援の元、昭和10年突貫工事で全線標準軌化、車両限界の大型化、建築限界修正が完了、同時に下関−大連間を35時間で結ぶ民間連絡船航路を開設、戦時には空母転用の目的で海軍省の援助の元に2万5千トン35ノットの快速船東亜丸ほか6隻を建造、新宿〜大連間を私鉄のみで接続する路線が完成し、鉄道省とスピードを競いました。大連からは南満州鉄道に乗り入れ、特急「東亜」は新宿〜新京間を、連絡船を介しながらも乗り換えなしで直通することとなりました。大関連絡船は、標準軌、大型車両を搭載できる大形2層車両甲板を有し、戦時には直ちに格納庫に転用できる設計になっていました。
さらに、高速化を進めるため、拠点となる都市を短絡する特急路線の用地買収にかかったところで、日本は泥沼の日中戦争に突入し、戦時色が濃くなりました。陸軍省は、関東以北にも標準軌の軍事輸送手段を確保するよう金兵衛に過酷な要求を行いました。このため金兵衛は手始めに東武鉄道伊勢崎線及び日光線を買収し、東北進出の足がかりとしました。
昭和16年12月ついに未曾有の第2次世界大戦が始まり、日本高速電気鉄道も軍事輸送最優先で業務を行いましたが、この戦争には勝てないと判断した金兵衛は、軍事輸送に従事する傍ら、軍の援助を受けながら敗戦後に備え、沿線の土地の買収に着手しました。大関連絡船は、6隻とも開戦後直ちに空母に転用され、高い高速性から各海戦で貴重な戦力として正規空母と変わらない活躍を見せましたが、彼我の劣勢は覆うべくもなく6隻とも撃沈されました。空母転用後の連絡線は、車両甲板の無い、1万5千トンの高速客船2隻によって運航を続けましたが、特急「東亜」の満州直通運転は、わずか6年で打ち切られました。金兵衛が見通したとおり日本は武運つたなく敗戦の憂き目に遭いました。2隻の連絡船は幸い戦災にも会わず、生き延びましたが、敗戦により航路を失った後は引き揚げ船として復員兵士の帰還に貢献しました。復員事業終了後は、大形であるが故に国内では転用できる航路が無く、係留されていましたが、朝鮮戦争がはじまると直ちに米軍に徴用され、兵員輸送に携わりました。その後、日本郵船にチャーターされ20年あまり、北米航路で活躍しましたが、航空航路の拡充には勝てず北米航路から引退、廃船になりました。
終戦後直ちに金兵衛は占領軍司令部に赴き、占領軍輸送を最優先することを条件に援助を申し入れました。その結果、占領軍の庇護の元、また標準軌であり、車両限界が米国並であることから、占領軍に徴用され、且つ庇護を受け順調に業務を実施することが可能になりました。特に、東京では空襲により焼け野原となったことを幸いに、一気に新宿から銀座まで、路線を延長するとともに、銀座浅草間も接続しました。さらに農地解放のおかげで、沿線の土地買収が以前より順調に進み、さらに朝鮮戦争での思惑買い及び占領軍の軍事輸送が当たり、さらに巨額の資金を蓄えた後、沿線を中心に左右10kmの土地をすべて買収したうえ、沿線概ね100kmごとに半径20kmの用地を買収し、全く新しい発想による新規市街地開発に着手しました。
また旧東武鉄道を含む北部地区の標準軌化にも着手し、昭和26年浅草〜新藤原間の標準軌化を完成しました。同時に東京名古屋大阪地区の完全複々線化に引き続き、東京沼津間の3複線化も相次いで完成させました。その後着工線の野岩線を買収、国鉄会津線の払い下げを受け昭和48年会津若松までの標準軌延長が完成しました。その完成を見届けるように金兵衛は90年の生涯を閉じました。
金兵衛の遺志を継ぎ長男金太郎、次男金治郎は力を合わせて日本高速電気鉄道の路線拡張に勤めその後、会津若松から仙台まで、さらに未着工線を接続し太平洋岸を青森まで延長したのが、昭和55年でした。昭和60年には、壱岐対馬韓国済州島を経て釜山に至る国際海底トンネルを計画、平成5年に開通し、ついに金兵衛の遺志通り念願のアジア大陸と鉄路でつなぐ大鉄道網が完成したのです。
現在は最高時速350Km/hの東京〜北京を結ぶ日韓中国際特急列車を始め開発した沿線各都市からの最高時速200Km/hの通勤列車まで幅広く運行するJRを凌駕した大鉄道会社として君臨しています。
次男金治郎は鉄道事業だけでは経営が行き詰まると航空事業に意欲を燃やし、金兵衛が黙々と購入した広大な土地に関東地区、中部地区、関西地区に、自前で4000m滑走路を4本持つ飛行場を造成し一気に航空事業に打って出、新日本航空(New Nippon Wing)を設立しました。さらに、滑走路を1本増設し、自衛隊に貸与した上で、航空管制や、地上救難は航空自衛隊に委任する等、父親譲りの軍民協力体制の名目の元、ちゃっかり経費を節減する抜け目無さを持っていました。とはいえ何しろ純民間の国際空港を3つも持っているのですから、日本を起点とする航空網において常ににイニシャティブを持つようになり、全世界の乗り入れ権を持つ強力な航空会社に成長し、ついに父金兵衛の壮図を越えるワールドワイドな事業に成長したのです。
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