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■ 鉄道紀行 ■
 1988年3月13日、青森と函館を結んでいた青函連絡船は、世界最長の青函トンネルの開通と共に、その80年の歴史に幕を閉じました。その最終便は、青森発が「八甲田丸」、そして、函館発が「羊蹄丸」でした。
>後日談 20年後の再会
>非公開部探検
>2度目の「最後の航海」

 1988年3月13日日曜日。ぼくは歴史の変わり目の目撃者となった。青函連絡船の函館発最終便である22便に乗ることができたのだ。

 4日前から並んだというNさんを先頭に、500枚しかない乗船名簿を手に入れたぼくたちは船に乗り込んだ。この日、函館発の最終便に選ばれたのは「羊蹄丸」。確か、初めて乗った青函連絡船も「羊蹄丸」だった。あの時は、初めての連絡船、初めての北海道への期待で胸を躍らせながら乗り込んだものだった。
 あれから十数回お世話になった青函連絡船も今日で終わりかと思うと、同じ船に乗り込むにしても、その時の気持ちはまるで違っていた。

 この日は無料開放された自由席グリーン船室に荷物を置くと、すぐに甲板に出た。桟橋との間にはもうすでに何本ものテープが渡されていた。
旧連絡船口前で乗船券の配布を待つ
 17時00分。
「長声一発!」
 この時、鈴木繁船長はどんな思いでこう叫んだことだろう。
 船はゆっくりと岸壁を離れた。テープが次々に切れる。「さようなら!」船の上にいる人も桟橋の人も、みんな手を振っている。ぼくも振った。いったい、誰に?

 やがて桟橋が見えなくなった。横には函館山が、何度見ても変わらない形で見えている。近くにいた船員に、
「もう連絡船の上からあの山を見ることもないんですね。」
と聞いてみた。
「そうですね。」
という言葉だけが返ってきた。この人は無理に平静さを装っているように見えた。
函館桟橋と函館山 羊蹄丸から
 船内では乗客みんなに酒が振る舞われた。その鏡割りの最中、船内案内所前の狭い場所に人がすし詰め状態になっており、あまりの熱気のためか乗客の1人が倒れてしまった。
 その人はすぐに医務室へ運ばれて行き、一時はどうなることかと思ったが、数分後、回復したとの放送があり、乗客の間から拍手が起こった。迅速な船員たちの処置と、偶然乗っていた看護婦のおかげだろう。

 グリーン船室では宴会が始まっていた。ここにいる人たちとは、函館駅で何日間か一緒に並んでいる時から打ち解けていた。話題は今日開通したばかりの青函トンネルの悪口ばかり。外はもう真っ暗だ。
トンネル一番列車「はつかり10号」
 その宴会も静まった頃、青森港の明かりが見えてきた。みんなでまた甲板に出た。左側には一足先に任務を終えた「石狩丸」、その向こうには三角形の建物「アスパム」も見える。あそこでは「蛍の光」の大合唱をやっているという話だ。
 右側に青森桟橋が見えてきた。大勢の人が出迎えている。「石狩丸」が汽笛を鳴らす。「羊蹄丸」もそれに応える。
 そして、接岸。
 鈴木船長の、「長い間ありがとうございました。」という放送。すぐには立ち去りがたかった。

 船を下りるとぼくは振り返り、心の中でこう叫んだ。
「ありがとう、そしてさようなら、青函連絡船! いつかまた会えるよね!」
初出:1988年発行 某高校鉄道研究部OB会会誌
終航前日の「羊蹄丸」 函館港にて

後日談(1) 20年後の再会
 2008年2月現在、東京都品川区にある「船の科学館」で、羊蹄丸はひっそりと余生を送っていた。他に、摩周丸は函館、八甲田丸は青森で、それぞれメモリアルシップとして展示され、内部も一般公開されている。
 2008年2月のある日、封書が1通届いた。差し出し人は「船の科学館」。思い当たる節はない。封を切ると、出てきたのはA4大の紙が1枚。そこには、こう書かれていた。
〜青函連絡船開設100周年イベント〜
「最後の上り便 鈴木船長との再会」の開催について
 2008年3月は、青函航路開設100周年と終航20周年の記念すべき年。そのイベントの1つとして、最後の上り便の鈴木船長とその乗船客との再会を企画したとのこと。1988年3月13日の最終便乗船直前、青函連絡船への思いを大学ノートに綴り、羊蹄丸事務室を通して鈴木船長に贈ったのだが、そこに書かれた住所と名前を頼りに発送された招待状だった。
 平日ではあったが、ボクは休暇を取り、参加することにした。

 2008年3月7日午前10時30分。羊蹄丸入り口に設けられた受け付けへ行くと、
「急いで下さい。間もなく写真撮影が始まりますから。」
と言う。案内されて操舵室へ。
 足を1歩踏み入れて驚いた。報道関係者がいっぱい! そんな中、鈴木船長と、既に到着していた当時の乗船客12名が言われるままに並び、報道陣のシャッターを受ける。
 さらに、鈴木船長と、当時「4日前から並んだというNさん」とが、例の大学ノートと乗船証明書を交換し合う場面の撮影に移ったあたりで、ボクが事前に予想していたイベントと違うと気付いた。鈴木船長と当時の乗船客が静かに語り合う、そんな場面を想像してたんだけど…。
 何はともあれ、当時はお顔を見ることもできなかった鈴木船長と会えたわけだし、良しとするか。

 イベントは、船舶用語解説、そして、鈴木船長と当時の乗組員による模擬操船へ。
 設定は、函館港を出航、青森港に接岸するまで。鈴木船長は操舵室前方に立ち、各船員に指示を出す。制御装置前に立った操舵担当と機関担当が、指示を復唱して、舵を切ったり、速度を調整したりする(もちろん、船は動かない)。船首と船尾(「オモテ」と「トモ」というらしい)にも船員が配置されていることが、たびたび入る無線報告でわかった。

 無事青森港に接岸した後は、飾り毛布の実演。
 青函連絡船には寝台室があったのだが、備え付けの毛布で折られた四季折々の飾りが、寝台利用の乗船客を出迎えていたという。「日の出」、「筍」などの折り技が、当時そのままに再現された。折り上げたのは、当時、船室係をされていたという方。今の職業はJR東日本京浜東北線・横浜線の電車運転士。
 これにて、報道陣を交えてのイベントは全て終了。ボクを含む当時の乗船客は、船内の別室へと案内された。

 多くが10代・20代だった当時の乗船客たちは、みなそれなりに歳をとっていた。鈴木船長はその場にいらっしゃらなかったが、この日の参加者12名には、鈴木船長の直筆署名入り乗船証明書が贈呈された。立派な額縁入り。
 鈴木船長の署名には見覚えがあった。20年前、羊蹄丸乗船時に乗船客に配布された乗船証明書に、同じ筆跡が記されていた。
 みんなのいちばんの興味は、鈴木船長に贈った大学ノートに、自分たちが何を書いたのか?ということ。いったん鈴木船長にお渡ししたものを、船の科学館の職員にお願いしてお借りし、タイムカプセルを開けるような気持ちで、みんなで回し読み。
 多くの人が思い出を記している中、Nさんから数えて9番目に、今と変わらないボクの筆跡で、こう書かれていた。
 連絡船はこうあるべきだ、と思います。
 まず、2隻ほどを改造し、内装を超豪華にします。もちろん、定員も減らします。これを、函館・青森間だけでなく、北海道と本州の各地を結ぶようにするのです。
 いつかこんな連絡船が復活することを祈っています。今までありがとうございました。
 確かに住所と名前まで書いてある。過去の思い出を語るだけにしたくないという変わり者的な気持ちで書いたことを思い出した。ま、あまり建設的な提案じゃないな。青森と函館の間を走ってこその青函連絡船だからね。
 いま提案するとしたら、高速化と、安全性を確保したうえでの客車航送だろうか。青函トンネルに何かあった場合の代替手段ともなると思う。

 その後、船の科学館前のレストランへ移動、当時の思い出を大いに語ることとなった。
 みんなが当時のことを鮮明に記憶していることに驚いた。
  • 乗船券を求めて並んでいる時に、JRから味噌汁の差し入れがあった
  • 函館出航時に「津軽海峡・冬景色」が流れて一緒に歌った
  • 青森入港時、アスパムの辺りに並んだ車がこっちに向かってライトを点滅させてた
 言われても思い出せない。ちょっと悔しい。

 結局、鈴木船長と直接話せる機会がなかったのが心残り。いろいろお聞きしたかった。でも、当時の乗船客とは、今後も連絡を取り合うことになった。それが今回のいちばんの収穫か。

 今後も、青函連絡船を大いに語り継いでいきたい。それが、歴史の変わり目の目撃者としての義務だから。
係留展示中の羊蹄丸
模擬操船風景
飾り毛布実演
鈴木船長あての寄せ書き
乗船当時の証明書(上)と20周年の証明書

後日談(2) 非公開部探検
  • レポートは こちら をご覧ください。
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後日談(3) 2度目の最後の航海
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