このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




●守山点描 その1




▲殉国慰霊之碑(小幡緑地本園内)
区内(旧守山市内)995柱の英霊を鎮魂するため奉賛会により1959(昭和34)年に建てられた。また同地は園内に有った高射砲陣地の西の第二高射砲陣地跡と言われる。

▲トンボの時計塔(小幡緑地本園・芝生広場) 駐車場脇の芝生の広場にある時計塔には巨大トンボのモニュメントがあり楽しませてくれます。※1993(平成5)年3月10日、名古屋守山ライオンズクラブ結成30周年を記念し寄贈された。

▲小幡緑地本園(芝生広場) 芝生広場は休日ともなれば多くの人出があり、桜(オオシマザクラ)の季節は花見客が席を奪い合う程の人気スポット。また起伏に富んだ園内には古窯、池など点在しウォーキングなど人々の憩いの場所となっている。

▲国道19号線(瀬古地内) 名古屋と長野を結ぶ国道、上下6車線の拡幅工事、天神橋・勝川橋の架け替えも終わりましたが平日朝夕のラッシュは日常的なものとなっている。(前方天神橋方向を見る)

▲八竜緑地・新池付近(大森八竜地内) 百万年位前この地方にあった広大な東海湖の痕跡とも言われ、名古屋市内では珍しい湿地性植物が群生している。木道沿は水辺の貴重な水性動植物が見られるビオトープとなっている。※近年「東海湖」の存在は地学的に否定する意見もある。

▲小幡緑地西園(牛牧地内) 本園が芝生広場と池を配したファミリー形に対し南西に位置する同園はトラック、野球場、サッカー場、テニス場を備えた運動公園。また小幡緑地管理事務所は愛ピアおばたと言う。
小幡緑地一帯の開発は古く1940(昭和15)年内務省告示により防空緑地として整備が始まり一時の混乱期を経て1957(昭和32)年小幡緑地公園として正式開園された。(小幡緑地東園は尾張旭市に含まれる。)

▲大元帥陛下御統監之跡碑(川東山地内) 1927(昭和2)年11月、陸軍小幡が原演習場一帯で行われた大演習を昭和天皇はこの高台(御野立所)からご覧になられました。それを記念して翌3年9月守山町(当時)により建てられた。現在辺りは木々が茂り小幡方面を見ることは難しい。

▲緑ヶ丘カンツリークラブ(吉根長廻間)小幡緑地本園に隣接した都心に近いゴルフ場。1959(昭和34)年開設。18ホール、Par72、6815ヤード。

▲中央線矢田川鉄橋の地蔵尊(新守山地内) 矢田川橋りょう北、かつて自殺が度々ありその霊を弔うため近隣の人により建てられた。それ以後自殺者は絶えたと言う。今もたえることなく花が供えられている。1927年(昭和2)2月建立。

▲森孝新田の三十三観音堂と道標仏(森孝三地内) 名古屋から瀬戸へ至る山口街道(名古屋道)に面してあり、間口4m、古くは1796年(寛政8)銘もあり左の道標仏には「右せと 左のふらい 天保11年(1840年)」と刻まれている。

▲白沢学区防犯モデル道路「こうのす通り」(白沢町地内)通り魔事件を契機に道・住環境を学区民と警察が協議し1981年(昭和56)日本最初の防犯モデル道路と位置づけられ、愛知県道路整備計画に組み込まれ以後各地に同様の道路が作られる事となった。旧字名鴻巣から名付けられた。

▲大森中之島の郷蔵(ごうぐら・大森四地内) 当時は年貢米などの保管倉庫でしたが時代が下ると村共有の祭礼用馬具、帳簿類等も保管。また水害を逃れるためかさ上げされており、前面の引き戸は湿気を抜くため竹で編まれている。

▲龍泉寺街道道標(小幡中二地内)1763(宝暦13)年銘の高さ95cmの道標。道を隔てた南側の喫茶多摩脇にも龍泉寺−笠寺を示す1781(天明元)年銘の道標がある。これらは元々瀬戸街道と旧龍泉寺街道が交わる近くにあったものが近年それぞれの所に移築された物。

▲生玉稲荷神社(小幡中三地内) 
無病息災を祈念し正月明けの頃しめ縄など持ち寄り「どんどやき(左義長)」が行われ、毎月1日と15日には農産物などの朝市が開かれ賑わいを見る。創建は鎌倉時代初めと言う。

▲行者堂(森孝三地内)森孝地区では講組織が近年まであり、13〜15歳位の男子は地元の先達につれられ、大峰山(奈良県)に修行に訪れていた。これに参加し認められると少年たちは集落の男子として大人の行事に参加できるようになったという。

▲守山パーキングエリア(下志段味地内) 春日井市との境、庄内川沿いにあり東禅寺古墳群を撤去し造られた東名高速道路パーキングエリア。区内にはインターチェンジはなく現在ETC専用インタチェンジが計画されている。(平成30年度完成予定)

▲常雲寺(曹洞宗・幸心地内) 創建は古いと思われるが開基・開山などは不明。本堂南(左)庚申堂前には1933(昭和8)年、地元の方が寄進した「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿がある。幸心の地名はこの庚申堂に由来すると言われている。

▲健康ランド・スーパー銭湯(竜泉寺一地内) 健康ランド、料金体系が銭湯に近いスーパー銭湯。駐車場、各種浴槽、食事処など備えた大型銭湯は近年各地に出来たがその登場は1990年代名古屋地区が初と言われている。

▲宮地小祠(しょうし)(新守西地内) 巾一間程の小さな祠。馬頭観音・地蔵様・聖観音二体、銘に1771(明和8)年とある。以前この付近にあった物が集められたもので、地元の人々によって今もお花などが供えられている。

▲水野家、土蔵造りの水屋(瀬古東三) 地盤面より2m程高く作られた約7.5坪の水屋。外観は土蔵壁に板張り、北側に小さな窓があるだけで内部は米倉、二階は道具置場。大水のときは二階に避難する。江戸末期か明治初期のものと思われる。


▲瀬戸街道自転車レーン2015(平成27)年3月24日より矢田川橋−小幡宮前間約1820mに路肩部分を含めて1.5mの青色自転車レーンが設置された。また一部生活道路には緑色の自転車レーンも設置されている。
瀬古東三 地内
瀬古の地名は1143年(康治2)、平安時代山城醍醐寺領安食(あじき)庄(名古屋市北区、愛知県春日井市勝川、
味美一帯)の坪内(付)に「水別里(みまくり) 迫田(せこだ)里」とあり
安食庄の裏手に当たる地として記されている。

▲水野家の屋敷門一帯は旧庄屋家(水野家)の水屋造りの蔵、横井家の水屋などありまた村の天王様、曲がりくねった細道などあり古き村の景観を残している。

▲瀬古駅跡1931年(昭和6)2月11日名岐鉄道城北線の駅として開業。同年4月犬山まで延伸され大曽根線と改称した。その後名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併し名古屋鉄道(二代目・現名古屋鉄道)となる。1942年(昭和17)軍需優先のため閑散駅は廃止される事となり同駅は廃止された。


▲瀬古輪中堤跡庄内川、矢田川に挟まれた瀬古地区は絶えず水害に悩まされ、北と南にそれぞれ輪中堤が造られていた。
※写真は北堤の一部。また瀬古東一地内にも南堤の一部が現存している。
坂道 三ヵ所
守山区は南、東が丘陵地・微高地で、庄内川に沿った北、西に低地が広がり多くの坂道がある。

権助坂(市場地内) 守山城跡の高台から北へ延びる坂。住宅地に続くこの坂は急でかつ長いため上り下りに難渋をする。かつては左の崖に防空壕が穿たれていた。また城跡より北西に下る坂を藤の坂とも言ったが現在これらの名も防空壕も過去のものとなっている。


井坂の階段(市場地内)) 権助坂の東、守山白山神社(守山白山古墳)の裏手(北)にあり、かつては一帯を井坂と呼び階段下には泉が湧いていた。夏には蛍が飛び交っていたが現在は泉も枯れ生活用水と使われる事もなくなった。

ゆうれい坂(西城一・大屋敷地内)
浄土院の墓地の西にあり、藪の中の鞍部を北に下る。昼なお薄暗く地元では今でも「ゆうれい坂」と呼んでいる。
紫雲山長栄寺
(長栄地内)

本来この地にあった本光山長栄寺(日蓮宗)は江戸時代前期に創建さた成瀬正親の母栄寿院殿の菩提所であった。しかし江戸時代中頃には移転(現名古屋市中区栄四付近)後廃寺となった。
現在の紫雲山長栄寺(真宗大谷派)は大正時代に同寺跡に開設されたもので地名にちなみ1965年(昭和40)紫雲山長栄寺となった。
現在墓地入口右側に御経塚、題目塔、開山日啓大和尚碑があるが現在の長栄寺とは関係ないもの。
※写真は本光山長栄寺開山日啓大和尚の碑。
農村振興事業碑
(瀬古二・森孝地内)

1929年(昭和4)10月、ニューヨークウォール街株価暴落に始まった世界不況は日本にも波及し昭和恐慌が始まった。農村ではおりからの豊作による米価の下落、生糸・繭価の暴落が起こり、1932年(昭和7)斎藤内閣は「農山漁村救済更生運動」を提唱し農民の結束をはかり各種農村振興策が施行された。区内でも瀬古地区で用水工事、森孝地区では道路開削など振興事業が行われた。写真は瀬古二に建てられた農村振興事業記念碑。同様のものが森孝八劔神社内にもあり、香流川には振興橋が架橋されている。

野墓(のぼ)
(竜泉寺二)

土葬が行われた時代、埋葬地と墓参の場所を分ける両墓(りょうぼ)制が各地で行われていた。埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(祭地・たてはか)などと呼んでいたが火葬が一般的となると両墓制は次第に廃れていった。
写真奥の円形の台座に棺(座棺)を置き、手前の四角い台座に線香・供物などを置き野とむらいが行われ、後同墓地に埋葬され詣り墓は寺に建てられた。
※写真は竜泉寺二の野墓、他に森孝新田、中志段味にも現存する。
安田池(中志段味)
守山区が森林公園(尾張旭市)と接する区内最深部に位置するため池。
かつては多くのため池があったが現在名古屋市内に116、区内に28あると言われる(2004年調べ)。
1980年代同池で高木典雄愛知学院大教授(当時)により「オオミカンムリゴケ」という当時世界最小のコケが発見され話題を呼んだが外来魚の侵入、宅地造成また安田池緑地が計画されるなど池の環境悪化が進行している。また同池一帯は近年まで亜炭採掘が行われ廃坑による陥没事故なども懸念される。




●守山区の「マメナシ」
約1万年前氷河期の生き残り植物と言われ、旧東海湖をとり巻く周伊勢湾要素植物、東海丘陵要素植物と呼ばれ、主に愛知県、岐阜県、三重、長野県の東海地方を中心に生育している。
環境省レッドデータブックには「絶滅危ぐIB類」、将来絶滅の危険性が高い部類に指定され、その数は近年では350本位ではないかと言われ、区内には小幡緑地、大森等の湿地帯に150本程ある。
春、桜の頃を過ぎた辺りに左写真の様な白い花を咲かせ、秋には7〜1.4mmほどの梨に似た堅い実を付ける。

守山区以外の自生地では天然記念物等に指定されている場合が多く、区内においても保護、育成がなされているが年々生育地の宅地化など環境悪化は否めなく、何らかの対策が必要と研究者は言っている。尚「マメナシ」についての詳しい情報は、Harumasa Yokoi氏の 「守山花紀行・まめなしの部屋」 にあります、ご参照ください。
※近年「東海湖」の存在及びその名に否定的な意見もある。



庄内用水頭首工(瀬古地内)  ※庄内用水元杁樋門詳細は「守山の近代化遺産」の頁を参照
写真左 庄内川本流からの取水口。ここで水が分けられるため写真右側、旧国道41号線に架かる橋を水分橋と言う。
※写真中央左が取水口。
写真右
元杁樋出口横に1948(昭和23)年掘削された直径6mの大井戸「瀬古元杁集水井(しゅうすいせい)」。
庄内川以外に水源を持たない用水の水量確保のため掘削され現在も稼働中。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください