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●細野要斎 守山を見聞![]() 文化8(1811)年、尾張藩の馬術名人、細野仙之右ェ門忠明の長男として生まれ生後すぐ母を亡くし乳母に育てられた。本名忠陳、また為蔵、弟蔵とも名乗った。長男でしたが父と先妻との間に養子忠如が居り彼が家督を相続。彼の死後、天保13(1842)年32歳にして家督を相続し160石余、馬廻組大番組に列せられ仙之右ェ門を名乗る。 住まいは一時御園町に住んだが後年は城下の外れ、要斎自筆の地図に拠れば長久寺裏門より北へ片山神社(蔵王権現)境内にいたる一本西の筋(名古屋市東区芳野)に北向きに建っていたと思われる。 武芸の家系で一通りの武術をこなし各種目録を取得しているが、幼少より病弱でいじめられっ子だったよう、12歳で崎門学派の師に付き文人の一歩を踏み出す。 後、才を発揮し幕末尾張藩を代表する儒学者となり、嘉永6(1853)年42歳の時、藩校明倫堂の典籍の職を任ぜられ、病気(痔瘻)により一時辞するが明治元年藩主義宜の侍講を兼ねる督学に昇進。翌年6月一度職を去るが12月に漢学教授になるが翌3(1870)年6月持病悪化にて辞職。また25歳の時より私塾を開校、求められ各地で講義などもしていた。塾生には厳しく勤勉実直でまじめ、しかし趣味は広く詩歌を好み、古銭や商標などの蒐集癖もあった。 明治11(1878)年12月23日、68才自宅にて没する。菩提寺大光院(名古屋市中区大須、墓碑は名古屋市千種区平和公園内)。 前出、朝日文左衛門が物見遊山で歩いたの対し要斎は各地の名所旧跡を訪ね、故事来歴を聴き詳細を筆記、時には図面も添え私見を述べ現代の民俗学、文化財保護の様な活動をし、愛知県下はもとより三重、岐阜県にも足を伸ばし今や記録でしか見られない事など多くを感興漫筆に収録した。 ●細野要斎の守山区での主な足跡を「感興漫筆」より 天保15(1844)年2月17日(弘化元年)(巻二) 二人を同行し龍泉寺へ向かう途中、守山村見性寺へ寄る。見性寺参詣の人なく老僧一人鐘を鳴らし経を読むとある。「春の日や薬師は独見性寺」と一句。他漢詩など数点記す。 弘化2(1845)年3月11日(巻二) 家族、町内の人、乳母を伴い龍泉寺へ参詣。帰路守山村見性寺、法性寺(宝勝寺)、長母寺を参詣帰宅。葉桜が盛んと有る。漢詩を記す。 弘化5(1848)年9月8日(嘉永元年)(巻五) 小幡新田利海寺にて臨済録会を聴く。 嘉永2(1849)年正月18日(巻六) 午後より児一徳(長男)と龍泉寺に参詣、正月にて群集甚し。大森垣外辺りで雨。民家にて傘を借りる。人皆雨具を携えず。松洞山逢雨と題する漢詩を記す。 嘉永2(1849)年正月4月1日(巻六) 一徳を伴に守山長母寺へ。本尊御開帳が有り、堂前、門外、食物を売る店多い。山田河原を経て 瀬古村石山寺 へ。同村の衆を惑わす孀婦(寡婦)の話を聞き石山寺の寺宝を記す。 安政2(1855)年3月22日(巻十五) 他一人と守山村を訪れる。 守山城跡を見学 。宝聖寺(宝勝寺)に詣り松平清康の位牌を拝し題字について語る。見性寺へ行くが既に住僧なし、木が崎長母寺へ行く。そして秦江村龍雲寺を訪ね、大般若経櫃六巻を見る。大永寺什器物にて古色を帯びているが新しいと言う。北条九代記、山田二郎の伝記を長文にて記す。 安政4(1857)年4月3日(巻十八) 一徳を伴に木ヶ崎長母寺へ、正観音御開帳有り。守山村宝聖寺(宝勝寺)に詣り再度松平清康の位牌を拝す。小幡村へ至り牛牧村へ寄り農人彦左衛門が所持する東照宮(家康)の御筆の掛け軸を拝見、由緒書を写し図版を記す。そして龍泉寺へ至る。午後は勝川村地蔵寺へ、瀬古村秋葉祠に行き頼み扉を開け本尊を見学来歴を記す。夜山田村を経由し帰宅。 安政5(1858)年3月1日(巻二十) 一徳と共に高蔵寺薬師へ。矢田川を越 大森村法輪寺 へ寄る。法輪寺にて請うて開扉、忠臣佐藤兄弟と母の木牌を見、伝記を長文に記す。また唐櫃の経を見、書体拙なれど文治頃の物と見、箱の底に元禄の年号有るのは補修時の記載という。弁慶の書有りと聞き、見るが書体皆小異有り真物とは判ぜず。法輪寺の縁起、近世世珍録にあると言う。その後大富村大日堂へ本尊を見る、凡作に有らずと記す。志段味村、足振村を経て高蔵寺山に至る。中切村泊、翌日龍泉寺へ、茶室にて一時を過ごす。雨中遊龍泉寺題の漢詩を読む。龍泉寺泊。午前中に同寺を辞し大森村を経て行基作の観音本尊を祀る庄中村(尾張旭市)観音堂へ、しかし開扉ならず辞す。近傍の直会社へ行く。七日には群集するほどの人出だが今は過日ほどではなく節句に酒菓類を売るのみと記す。その後尾張旭良福寺へ、縁起を記す。午後長久手村、猪子石村、上野村、古出来と多くの寺院を巡り本尊や寺歴など記し三日間の小旅行を終える。 安政5(1858)年3月28日(巻二十) 一人にて午後より守山村北、 大永寺村大永寺 に詣でる。菅原道真の画幅を見詳細を記す。大永寺の縁起を記す。又同寺を再建した岡田氏の系譜を記す。 その後も龍泉寺にて安政7(1860・万延元)年9月16日から10月4日までは長逗留にて寺主のために書を講じ、その後も守山を度々訪れ、また勝川、春日井、瀬戸などの往来の度守山地内を行き交った。 要斎は感興漫筆でその好奇心を遺憾なく発揮し、象やトラの見せ物を見ては驚き、オルゴールを解説し彗星の出現を記録、神領(愛知県春日井市)で出土した銅鐸の話や伊勢神宮のお札降りの詳細を記し、アメリカ人の習慣を嘆いたりしている。また世情騒然とした幕末、京を目指し東上する軍隊の事、初めての写真撮影の顛末や彼を取り巻く尾張の知識人との交友録と筆細かに書く記している。(名古屋叢書、随筆編19〜22) ![]() 感興漫筆巻19に記載されている天保八(1837)年要斎自筆の長久寺裏宅地配置図。 赤矢印ー要斎(忠陳)自宅 上(南)長久寺ウラ門、下(北)蔵王祠境内、左(東)蔵王筋。 (名古屋市東区芳野)
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