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●瀬戸電(せとでん)名鉄瀬戸線 |
![]() 1905年(明治38)4月、フランスよりセルポレー式原動車3両を買入れ「瀬戸自動鉄道株式会社」が発足、しかしセルポレー式原動車は度々故障し思うようにならず翌年12月早々に見切りをつけ電車2両、貨車4両を購入し電化を敢行、前年度開通した瀬戸−矢田間に引き続き同年矢田−大曽根間も開通、社名も「瀬戸電気鉄道株式会社」と改称、東海地方では2番目の電鉄会社として新たに発足した。続けて陶磁器原料搬入、製品の搬出にと当時まだ脆弱だった陸運より堀川による水運を求め名古屋市街地を貫き堀川まで延長。堀川延長には既に市街地化していた名古屋城周辺の外堀の中を通すという奇策を考案(これには第三師団小幡ヶ原演習場と名古屋城内に有った本隊との利便を考え軍の関与が有ったとも言われる)。しかし史蹟であるが故現状の改変は許されず御門下は単線で行交うというガントレット式を用い、半径60mの急カーブ、サンチャインカーブにてお堀の中を鋭角に曲がった。 1911年(明治44)9月、延長された外濠線、大曽根−堀川間竣工、瀬戸−堀川間20.6kmが全通。これにより貨客収入は増加し「瀬戸電気鉄道株式会社」通称「瀬戸電」は基盤を固めた。 また1929年(昭和4)には小幡駅より龍泉寺街道を西に沿って、生玉−長命寺−松河戸−御野立所駅を経て龍泉寺に至る約全長2.8kmの支線「龍泉寺鉄道」が計画されたが敷設には至らず施設免許は取り消された。 1939年(昭和14)年9月、この地方の鉄道統合を進めていた名古屋鉄道(名鉄)と合併。名鉄瀬戸線となったが通称「瀬戸電」は健在でした。合併した事により名鉄各路線を走っていた電車が投入され「瀬戸電」は走る電車博物館となり、外濠線通称「お堀電車」の珍しい機構等もあり明治期に開設された小さな地方鉄道がほぼ当時の路線を継承し存続する希な例として鉄道ファンの人気を博していた。 開設当時、瀬戸−堀川間には路面電車並みの間隔で30以上の駅があり、守山区内にも8つの駅があったがその後徐々に整備され、戦時中の軍需輸送優先策により多くの駅が休止・廃止されて行った。 区内には現在「守山自衛隊前・瓢箪山・小幡・喜多山・大森・金城学院前」の5つの駅がある(廃止駅:守山口・笠寺道・小幡ヶ原)。 瀬戸電は開設当時の使命、瀬戸の陶磁器産業振興の役目を自動車に譲り、戦時下三菱重工はじめ周辺軍需産業への工員輸送の責務を終え一時低迷した。しかしその後沿線の都市化が進んだ事によりお堀内の路線を廃棄し名古屋都心へ市営地下鉄との相互乗り入れを検討するが不調に終わったが、名鉄は既に保有していた八事−赤池間の敷設権利を名古屋市に譲渡し、これと引き替えに土居下−栄町間を地下による乗り入れを実現、1978年(昭和53)3月全線1500ボルトに昇圧、同8月念願の都心「栄町」乗り入れを果たした。お堀内の路線はそれに先立ち1976年(昭和51)2月、堀川−土居下間を廃止。これにより都市型通勤・通学電車として輸送力が増大し大幅に進化、2005年(平成17)4月2日瀬戸電は開通100周年を迎えた。 ※営業路線距離:20.6km 軌間:1067mm(狭軌) 駅数:20駅(起終点駅含む) 全線複線・電化
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![]() 1921年(大正10)4月13日開業 1944年(昭和19)休止 1964年(昭和44)4月5日廃止 | |
矢田駅(名古屋市東区)を過ぎると左へと急カーブをゆっくり曲り矢田川鉄橋(愛知県近代化遺産・
守山の近代化遺産の頁参照
)を渡る、ここより守山区。 以前は瀬戸方面の陶磁器廃水で白濁していたが、現在ではかなり改善され川底が見える程となった。鉄橋を渡ると区内唯一瀬戸電の下をくぐる小さなレトロ感満載のガードが有る。 小さなガードを渡ると右に弧を描き電車は瀬戸街道に沿って東進する。このカーブ辺りに旧「守山口」駅が有った。 路肩西側にやや広い敷地があり他に遺構らしきはない。 写真左:1934年(昭和9)名古屋市街地図。 写真中:昭和初期の駅舎。前方矢田川橋梁はまだ単線で複線化工事が完了するのは1929年(昭和4)。その後も矢田川の流路変更などこの区間は工事が続く。 写真右:旧駅舎を同アングルより撮る。(現在は駐車場となっており、南に古い階段がある。町南地内) | |
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![]() 1905年(明治38)4月2日、聯隊前として開業 1941年(昭和16)二十軒家に改名、1946年(同21)守山町に、1955年(同30)守山市に、 1966年(同41)守山自衛隊前と現行名となる 1983年(昭和58)新駅舎築 普通のみ停車、通常は無人駅 | |
瀬戸電中最も多く改名した駅。駅名の変遷がそのまま守山区の歩みを物語っている。以前は守山区の中心地で近くには町役場、その後の市役所もあり映画館や進駐軍が駐留した時代には英語の看板を掲げたお店などもあり賑わっていた。 駅横の踏切を渡り瀬戸街道交差点を横切れば自衛隊駐屯地(第10師団司令部)正面ゲートへ至る。 白黒写真:昭和30年代の旧駅舎(廿軒家地内) | |
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![]() 1936年(昭和11)6月3日開業 1944年(昭和19)休止 1946年(昭和21)9月15日復活 1981年(昭和56)新駅舎築 普通のみ停車、通常は無人駅 | |
駅名の由来は路線を挟んで北へ350m程の瓢箪山古墳に由来する。駅北側の瀬戸街道は賑わいを見せ銀行はじめ大型スーパー、商店など有り買い物客で賑わう。駅南側一帯は古くから住宅地として開発され一部は「文化村」とも称され、静かで瀟洒な住宅街が連なる。 白黒写真:昭和40〜50年代の駅風景(長栄地内) | |
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![]() 1905年(明治38)4月2日開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)4月5日廃止 | |
尾張を守護するため名古屋城を中心に笠寺観音(南)・甚目寺観音(北)・荒子観音(西)・龍泉寺観音(東)と四つの寺院が祀られ、そのうちの笠寺から龍泉寺へ至る街道と交差する辺りに有った。 近年まで駅舎が残っていたが現在は駅舎北側のホームのみが残っている。 (右写真の駅舎は現存せず・新城地内) | |
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![]() 1905年(明治38)4月2日開業 1999年(平成11)駅前再開発ビル「アクロス小幡」完成に伴い新駅に移行 急行停車駅 有人駅 | |
駅前再開発ビル「アクロス小幡」ができる以前、円形の寺院風木造駅舎がいかにも龍泉寺参詣客のためを想像させた。また瀬戸電気鉄道時代にはここより北へ伸びる龍泉寺街道(写真左下、駅前交差点より北に伸びる県道名古屋多治見線)沿いを西に生玉神社・長命寺・松河戸橋・御野立所跡を経て龍泉寺に至る支線、龍泉寺鉄道が計画されが計画は頓挫した。 駅前ロータリーには市バス、タクシー乗り場など備え「区の顔」的地区にとなっている。(小幡南地内) 白黒写真:円形駅舎以前、初代駅舎:1905〜1933年(明治38〜昭和8年) | |
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![]() 1905年(明治38)4月2日開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)4月5日廃止 | |
瀬戸電が瀬戸街道と交差する踏切辺りに、かつてはその痕跡と思われる空き地が踏切北西にやや土盛りを残して有ったが、 高架工事のため今では見る事ができない。 小幡ヶ原一帯には飛行場をはじめ 広大な軍演習地 がかつてあり名古屋城内第三師団よりここへ通った兵隊も多くいたという。(小幡地内) | |
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![]() 1929年(昭和22)7月1日開業 急行停車駅 有人駅 | |
古くは「北山」と呼ばれ一帯は雑木林と荒れ地であったが都市化と共に開発され字面のいい「喜多山」を当て地名としたという。 名鉄と名古屋市では2008年度(平成20)より小幡・大森金城学院駅間1.9kmの立体交差化に向け用地取得を始め工事に着手。これにより交通渋滞を起こす瀬戸街道、名古屋第二環状自動車道(国道302号)の踏切り解消と高速化を図り、既に南側の1946年(昭和21)開設、瀬戸電唯一の検車区は閉鎖(2007年<平成19>6月)され尾張旭検車区(尾張旭市向町)に移転。 北側の瀬戸電気鉄道時代の火力発電所として1910年(明治43)より使用され後変電所に改造され近代化遺産とされた赤煉瓦の建物も撤去された。完成後は高架駅となり一体の景観は大きく変わると思われる。 白黒写真:昭和20年代の駅舎。(写真左−仮駅で営業中の駅舎・喜多山地内) ●名鉄瀬戸線喜多山変電所(小幡発電所)跡頁参照 | |
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![]() 1905年(明治38)4月2日「大森」駅として開業 1992年(平成4)「大森・金城学院前」駅と改称、総合駅舎に成る 急行停車駅 有人駅 | |
古い歴史のある町大森に1993年(平成5)幼稚園から大学院までキリスト教精神に基づいた女子校金城学院の主な施設が移転、前年度駅名を現行に変えた大森一帯は様変わし、駅ビルにはグリーンシティケーブルテレビ本社も入居するおしゃれな町に変貌した。 白黒写真:昭和20年代の駅舎。(大森地内) 瀬戸電史上最大の脱線転覆事故 1948年(昭和231月5日午前10時15分頃、法輪寺裏(大森三−弁天が丘付近)辺りを正月客で満員の尾張瀬戸発堀川行き急行が通過、しかし半径160mの急カーブを回りきれず脱線転覆。36人が死亡、153人が負傷するという大惨事が起きた。 運転していたのは当時新人で当日運転予定のなかった運転手が代行運転しこの事故を引き起こした。 その後1948年(昭和23)5月、法輪寺住職江口耕雲が発起人となり事故現場近くの同地に交通安全地蔵が建立された。 | |
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1927年(昭和2)開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)廃止 現況上り線ホームのみが残っている。駅舎は1980年代までは残っていた。 (大森・金城学院前〜印場/愛知県尾張旭市霞ケ丘町南地内) ![]() ![]() |
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