このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
2000年(平成12年)6月28日午前1時半、上野動物園の動物達の中で一番の最高齢だった象のジャンボーが老衰の為に亡くなりました。56歳でした。
今からおよそ60年前の日本は戦争の真っ只中。1943年(昭和18年)第二次世界大戦により東京への空襲が増えてきます。もしも爆弾が動物園に投下されたら、猛獣たちが逃げてしまう。軍の命令により猛獣たちはどんどんと殺されていきます。当時人気者だった象のトンキー・ジョン・ワンディも例外ではありませんでした。軍により殺処分の命令が出ています。飼育係の人達は反対しましたが、当時の軍に逆らうことはできません。そこで、大好きだった芋に安楽死の薬を入れて与えますが、象たちはわかっているのか食べません。仕方なく餌を与えずに、餓死させることにしました。「何か芸をすればごはんがもらえる」そう思った象たちは、その衰弱した体を無理に起こし、足をあげたり、鼻をあげたり・・・しかしごはんをもらえる訳ではありません。数日後何も食べられなかった象たちは次々に死んでいきます。
終戦を迎えた日本。しかし動物園には人気者だった象たちの姿はありません。日本の子どもたちの願いが通じたのか、当時のインドの首相、ネールさんから「インディラ」という象が日本の子どもたちに贈られます。一躍動物園のスターになったインディラ。象を全国の子どもたちに見せてあげたいとの願いから、工程3500キロ、静岡から新潟、東北、北海道、伊豆大島へと全156日に及ぶ「移動動物園」でインディラたちは子どもたちに出逢いました。
この移動動物園の収益金を元に、移動動物園運営委員会が7歳だったメスの「ジャンボー」をタイから購入し、1951年(昭和26年)5月26日、上野動物園へと寄贈します。ジャンボーは翌年に移動動物園の一員として東北各地をまわり、動物園に帰ってからも、逆立ちやタイヤを鼻で持ち上げたりと、芸をしてみんなを楽しませてくれました。
私がジャンボーに出逢ったのは、1999年の寒い冬の日でした。いや、もしかすると子どもの時、親に連れられて行った動物園で逢っていたのかも知れません。しかしジャンボーを意識したのは、その日が最初でした。時間があったある日、偶然動物園の前を通り過ぎ、寄ってみるかな?と入りました。一人でゆっくりと、何十年ぶりの動物園を見ていると、あっという間に1日が終わりそうです。閉園を知らせる音楽が流れる中、最後にパンダを見ていこうと、象舎の前を通り過ぎようとした時に「象たちは屋内で休んでます」の看板を目にしました。もう少しだけ時間があるから寄ってみよう、屋内象舎へと入りました。ドアから冷たい風が入ってくる象舎ですが、一番左側の柵だけが、透明の板で囲まれていて、冷気が入らない様になっています。よく見ると、年老いた象がそこにいました。「ジャンボー」です。寒い冬の日には外に出るのかな、1日ここにいるのは辛いよな、などと思いながら、しばらくして帰りました。
2000年4月29日、ゴールデンウィーク初日でみどりの日だったその日に、私は上野へ出掛けました。当時、東京国立博物館で開催されていた「日本国宝展」でひとつだけ見たい国宝があった為と、すでにほとんど完成していたこのホームページ「さんぽ(上野動物園)」の確認の為です。博物館を早々に済まし、動物園へと行きました。動物達の名前を確認しながら歩き、そろそろ帰ろうと出口へと向かいました。あっ、ジャンボーはどこにいるんだろう?思い出した私は象舎へと急ぎます。すると屋外象舎一番右に他の若い象たちと離れて、1頭でジャンボーはいました。私は引き込まれるかのように、持っていたビデオカメラをジャンボーに向けました。柵のそばで鼻を使い、草を背中へ器用にのせます。すると若い象が柵越しにジャンボーの背中へ鼻を伸ばし、その草を今度は自分の背中へとのせてしまいます。地面を足で掘り、掘った土をこれも器用に鼻で背中にのせました。ほとんどの時間は、おしりを木に当てて、1ヵ所で静かに、足と鼻だけを動かしていましたが、気がつくと1時間近くジャンボーを撮っていて、私はずっとジャンボーのことをそばから見ていました。
6月29日の朝、起きて新聞を広げた瞬間、私の目に「上野動物園のゾウ天国に」の文字が飛び込んできました。一瞬にして「ジャンボー」だと気がつきます。上野に来て約半世紀、最後は眠るように力尽きたそうです。
ジャンボーおつかれさま。そしてありがとう。
![]() | ![]() | ![]() |
|
2000年(平成12年)7月8日午後4時25分、上野動物園で生まれたジャイアントパンダのトントンがガンによる腹膜炎の為に亡くなりました。14歳でした。
1972年(昭和47年)10月28日、日中国交正常化の親善大使として日本にはじめて中国からジャイアントパンダがやってきました。ランラン(メス・4歳)とカンカン(オス・2歳)です。野生だった2頭は一躍動物園の人気者となりましたが、1979年(昭和54年)9月4日にランランが妊娠中毒症の為に亡くなってしまいます。ひとりぼっちになったカンカンのお嫁さんとして、1980年(昭和55年)1月29日に中国からホァンホァンがやってきました。しかしランランの死から10ヶ月後の6月30日にカンカンも亡くなってしまいます。ひとりぼっちのホァンホァンに、お婿さんとして中国からフェイフェイがやってきました。
ランランのお腹の中には1頭の赤ちゃんが育っていました。しかし出産の1ヶ月前にランランは亡くなってしまいます。パンダの赤ちゃんが見てみたい。全国の子どもたちの応援がパンダに届き、ホァンホァンとフェイフェイの間に、1985年(昭和60年)6月27日赤ちゃんが産まれます。チュチュと名付けられますが、産まれて2日後の6月29日に亡くなってしまいました。しかしその翌年の1986年(昭和61年)6月1日には突然変異で世界ではじめて尾の黒いパンダ、トントンが無事に産まれ、その2年後の1988年(昭和63年)6月23日にユウユウが無事に産まれました。1992年(平成4年)11月5日に中国・北京の動物園で産まれたリンリンがやってきたので、同13日にユウユウは北京の動物園へ行きます。その後、トントンたちのお父さんフェイフェイは1994年(平成6年)12月14日、お母さんのホァンホァンは1997年(平成9年)9月21日に亡くなってしまい、上野動物園では、トントンとリンリンが仲良く生活していました。
1999年の寒い冬の日、上野動物園へ行った時、リンリンは運動場で楽しそうに遊んでいましたが、トントンは室内のタイヤの上に丸くなって眠っていました。次に出掛けた2000年4月29日、パンダ舎には黒山の人だかりができています。やっと見れたパンダ舎では、トントンもリンリンも楽しそうに遊んでいました。トントンは笹をくわえて歩いたり、閉園時間が間もなかったので室内への入口へ行っては癖の首まわし(写真)を繰り返していました。
![]() | ![]() | ![]() | ![]() |
|
トントンの部屋の前はいつまでもたくさんの人であふれていました。その時にやっと撮れた写真です。ランランカンカン来園以来のパンダブームを巻き起こしたトントン。とっても人気者だったトントンがいなくなってしまったのは残念ですが、今ごろ高い高いお空の上でホァンホァンお母さんとフェイフェイお父さん、そしてチュチュお兄ちゃんと楽しく遊んでいる事でしょう。
![]() | ![]() | ![]() |
|
上野動物園では、悲しいさようならが続いてしまいましたが、さよならばかりではありません。嬉しいこんにちはの出来事もたくさん起きています。
千葉市動物園からズーストック計画の為に上野動物園に来園したニシローランドゴリラのモモコちゃんが2000年(平成12年)7月3日に無事赤ちゃんを産みました。只今育児の真っ最中です。
4月29日に動物園に行った時、タンチョウが卵を温めていました。その後無事にふ化したそうです。この他にもたくさんの赤ちゃんたちが今年も産まれました。
戻る |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |