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 ステンショ物語 (その4)       汽車が走り出した明治の頃               
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
    
幡随院長兵衛がここで生まれた
 筑肥線 (佐賀県唐津市相知町)

 その駅は集落の中にあった。

 肥前久保駅、佐賀県唐津市相知町久保にある九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線の駅タイ。単式ホームで1面1線。無人駅。

 駅舎は無人化されたあと解体され、ホームに「待合い小屋」だけが残されとった。

 J R になって駅舎の跡にトイレと待合所の「さくら館」ていう建物が建てられた。あとはスレート葺きの自転車置き場がある。

 かつては駅前の商店で切符ば販売しとったらしかバッテン、その商店もいまはなか。

 2005年の1日平均乗車人員は12人やったゲナ。

 周りには人家があるケン、秘境駅とは云われんバッテン、営業成績は秘境駅なみの寂しか駅タイ。

 大正15年。唐津市の有志が作った北九州鉄道ていう会社がクサ、博多から東唐津までば開通させたのち、これば伊万里まで繋ごうて考えた。

 初めの計画では松浦川ば渡って、すでにでけとった国鉄の唐津線の(佐賀〜唐津)唐津駅に乗り入れるつもりやったっちゃが、松浦川の河口は巾が500mもあって、ここに長か鉄橋ば架ける資金がもう会社にはなかった。

 仕方なしに、東唐津でいったんスイッチパックして鏡山の下ば回り、川の東岸ば7kmも遡って、30mに川幅の狭うなったとこに小さな橋ば架け、やっとこっと唐津線の山本駅に乗り入れたいう訳タイ。

そやケン、筑肥線とはいうもんの、唐津市の中心にある唐津駅と博多駅は直接繋がらんままやった。

 しばらく唐津線と並んで走った北九州鉄道は久保で分かれて伊万里に延びていき、昭和10年になってやっと東唐津〜伊万里間ば開通させた。

 前置きが長ごうなったバッテン、肥前久保駅は、こんとき昭和10年(1935)3月1日に開業しとると。開業したときの駅名は「幡随院駅」やった。

 なんで幡随院か、この話は後にして、やっと伊万里まで繋がった北九州鉄道は、たったの2年で国有化されて国鉄になってしもうた。国鉄になったら、さすがは国タイ、松浦川の河口に530mの鉄橋ば架けて唐津〜博多間が直接繋がった。北九州鉄道が東唐津まで作ってから半世紀後、昭和58年(1983)のことやった。

  ところでこの久保駅やが、国有化されたら「幡随院駅」じゃあ具合が悪かいうことになって、昭和12年(1937)10月1日、いまの肥前久保駅に改名させられた訳タイ。

 なんで幡随院駅か、と、なし幡随院駅じゃ具合が悪かとかについては、これから話しますタイ。

 それは、
日本の侠客の元祖とも言われとる幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)がここの生まれやったけんタイ。

 そらあ国鉄としては、ヤクザの元祖ば駅名にはしとかれんやったろう。

 幡随院長兵衛。本名は塚本伊太郎。父の塚本伊織が松浦党の一族・鶴田因幡守の家臣で、この久保の館におんなったとゲナ。

 伊太郎は元和8年(1622年)ここで生まれたケン、ここが誕生の地ていう訳。

 ところが松浦党の盟主・波多三河守が、豊臣秀吉の勘気に触れ、滅亡してしもうたもんやケン(ていうか、秀吉が三河守の嫁さんに惚れ、振られた腹いせに意趣返しばしとうとタイ)、伊織は伊太郎ば連れて江戸へ旅立った。

 ところが、伊織は下関まで行って病死。伊太郎は父の遺命に従うて、幡随院ていう寺の尚導和尚ば頼り江戸へ登った。

 幡随院(ばんずいいん)ていうとは、慶長年間(1596年〜1615年)神田駿河台に創建され、そののち浅草神吉町に移った浄土宗の寺で、失火して焼けたもんやケン、昭和15年(1940)に現在の小金井市に移転した。山号は神田山。本尊は阿弥陀如来。

 成長して長兵衛ていうごとなった伊太郎は、尚導和尚に育てられたて立派な男になったていう説と、ただ寺の裏手に住んどったケン、幡随院て呼ばれるようになった、ていう説とがある。

 口入れ屋ばしよった長兵衛は、いつの間にか町奴の頭領となっとった。その頃、江戸の町では戦がのうなった旗本奴が、町民に乱暴ばっかりしてクサ、太平楽こいとったケン、長兵衛は町民の味方になってそれと対立、胸のすくような侠気ば見せたていう。そやケン、江戸っ子の人気ば呼んでクサ、歌舞伎、講談の題材にまでとりあげられた。いうたら正義の味方、弱かもんの味方長兵衛は、江戸市中のヒーローやったとタイ。

 ところが、旗本奴の頭領、水野十郎左衛門のワナて知らずに、単身で水野邸に乗り込んで、湯殿で謀殺されてしまうた。ときに慶安3年(1657)、長兵衛まあだ36才やったゲナ。

 駅から5分も歩いて、長か階段ばあがれば、山の中腹に幡随院長兵衛公園いうとがあって、自然石の大きな碑が建っとる。

 この石碑は高さが15mもあって。棹石の高さだけでも6.3m。重さ18トン。昭和5年に完成した。

 地元に云わせると日本一の記念碑ゲナ。除幕式には、横綱の双葉山が来て幕の紐ば引きなった、ていうとも自慢のタネやった。

 接着剤もセメントも使わんで建てたゲナが、これまで地震があってもビクともせんやったて。たいしたもんバイ。

 また、クレーンもなか時代にクサ、この大きか棹石ばどげんして台座の上に乗せたとか、見上げて感心するばっかりやった。

 長兵衛の墓のほうは、東京都台東区東上野六丁目の源空寺にあるていう。

右上・丘の上の広い敷地に幡随院長兵衛公園がある。登っていく石段の両わきは桜並木があって、春は花見で賑あう。上・堂々とした幡随院長兵衛誕生地ていう石碑、書は唐津藩の血ば引く子爵の小笠原長生公。

 ところで筑肥線やが、伊万里まで繋がったとは繋がったバッテン、今でも筑肥線は路線図で唐津〜山本間はチョンギレとって、厳密に言うと、博多〜唐津が筑肥東線。
山本〜伊万里が筑肥西線。

 唐津線ば経由して連絡しとるちゃいうもんの、博多から伊万里まで直通の列車はなかケン、唐津で乗り換えなイカン。

場所・唐津市相知町 福岡都市高速道路〜前原道路〜二丈浜玉有料道路(かもめロード)で唐津へ。国道203号線に突き当たったら左折して、唐津線と併走しながら約10km南下する。山崎橋の信号で右折。すぐまた右折すれば駅に到着。
                                            取材日 2008.8.4

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