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 ステンショ物語 (その5)     汽車が走り出した明治の頃        
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
 
カラクリ太鼓時計がお出迎え
九州新幹線             
 新幹線が来た

   駅も駅前も駅裏も変わった

 久留米駅の旧駅舎は平成22年(2010)4月2日の終電で使用ばストップし、翌日の始発電車から新駅舎の使用ば開始した。

 そして、平成23年(2011)3月12日 九州新幹線の駅が開業。新幹線ホームが3階にある高架駅になった。

 
鉄筋コンクリート3階建ての駅舎がでけたとは2010年。初代の駅からいうと5代目にあたる。

 駅舎・ホーム間のエスカレーターやら、バリアフリー仕様のトイレが設置され年寄りにも親切な駅になった。新幹線開業時にでけた駅ビル「フレスタくるめ」には、コンビニエンスストアやラーメン屋などが入居しとる。

 
駅舎には久留米の説話、名物などば描いたステンドグラスによる装飾が多く使われとる。
 また、駅舎内の床タイルは久留米絣をモチーフとした幾何学模様ば採用されとって、コンコース、在来線改札、新幹線改札に別々の柄が見れる。駅前広場の案内標識も、紺色が基調の久留米絣のデザインが取り入れられとる。

 駅弁はどうかていうと、久留米中央軒が2003年で廃業したあとば引き継いだ鳥栖駅の中央軒が、新幹線建設やらで2010年まで休止しとったバッテン、いまは改札の向かい側にキヨスクがでけたケン、ここで再開しとる。
かしわめし・高菜のたまてばこ(中央軒)・奥八女のお煮しめ弁当(花むすび)・そぼろ鰻めし・焼さば寿司・天むす弁当・手織弁当など、選りとりみどりある。

 駅前に旧駅舎時代の2005年ごろからある「からくり時計」は変わらんバッテン、新たにでけたディスプレイボードに、青木繁の「海の幸」と坂本繁二郎の「放牧三馬」が展示され、ロータリーにはブリヂストン提供の世界最大のタイヤのモニュメントが新たに置かれとる。

 このタイヤは直径が約4m、重さ約5tもあるとゲナ。ブリヂストン北九州工場(北九州市若松区)で製造され、2011年1月に設置された世界最大のタイヤで、気になる価格は「高級乗用車1台分ほど」ていう。

 以前はチッゴ平野のなかに、久留米市役所のビルだけがスッポーンと見えよったが、2010年2月に久留米駅前の「ザ・ライオンズ久留米ウェリスタワー」いうとがでけてからは、こいつだけが目立っとる。

 このビルば建てたとは東京に本社のある不動産の「大京」 地上35回で297戸のマンション。2LDKから4LDKまであり、たとえば3LDKで2千6百50万ゲナ。

 久留米の駅は開業以、東側にしか出入口がなかったバッテン、今度は西側にも出入口が設置された。

「表口」「裏口」は差別用語げなケン「西口」「東口」ていいよったけど、新幹線が開業して、いまは「水天宮口・まちなか口」ていうごとなった。

「水天宮口」はよう分かるけど、「まちなか口」はなんかピンとこん。

右・久留米駅の「裏口」じゃなかった「水天宮口」


久留米出身
画家

坂本 繁二郎

 坂本繁二郎は、明治15年に、旧久留米武藩士の次男として生まれ、小さか頃から絵の虫て呼ばれとった。10歳の時には画塾に入門すぐに繁二郎の絵は評判となり、神童て呼ばれるようになったていう。

 小学校の代用教員として図画ば教えとった20歳の時、東京の美術学校に進学しとった同じ久留米出身の青木繁が一時帰京しきた。青木の絵に驚いた繁二郎は、青木と共に上京して洋画家の小山正太郎に入門し、そっから画家への道ば歩き始めることになる。
 30歳の時に描いた「うすれ日」は出世作となり、夏目漱石にも褒められたゲナ。

 
39歳で絵の勉強にフランスヘ向かう。
 ここで有名な画家たちの作品ば浴びるごと見たとバッテン、どの作品にも満足せず、そればかりか、セザンヌ、ミレー、ピカソなど、名だたる画家達の作品ばヒチャガチャけなしとったゲナ。

 ただひとつ繁二郎が感激したとは、カミーユ・コローの作品で、それからはコローに強く影響されていった。

 フランス留学から戻った繁二郎は、八女ば終の住処と決めて、アトリエば建てる。
 そこで、出会うたのびのびと自由に生きる馬たちの姿に、繁二郎は魅了され、それ以来「馬」は生涯のモチーフ画となっていった。
 

 八女市のむかし矢部線が走りよった跡ばバルビゾンの道ていう。

 この辺の光景が、留学しとったフランスのバルビゾンと似とってケンやろうバッテン、最近はビニールハウスばっかりに景色が変わってしもうて「ビニール通り」になってしもうた。

上・久留米駅のまっ正面には「からくり時計」 その向こう35階建ての「ザ・ライオンズ久留米ウェリスタワー」はチッゴ一ののっぽビル。
下・久留米駅の「まちなか口」
左手に青木繁と坂本繁二郎の代表作がレプリカ展示されとる。

「水天宮口」へ出て5分ぐらいのとこに、久留米市出身の洋画家・坂本繁二郎の生家がある。市が平成23年3月の九州新幹線鹿児島ルート全線開業ば前に、復元して5月1日から公開しとる。市内に唯一現存する武家屋敷ゲナ。


   
八女に移り住んで初めて描いた馬の絵が駅正面に展示の「放牧三馬」ていう訳タイ。
               「ウマいこといったもんタイ」

上左・コンコースのステンドグラス13枚には市内の名所やら花がデザインされとって、旅人には楽しか。
上右・ブリヂストンいうたら久留米ば代表する企業。そのタイヤ会社が提供した直径4mのジャンボタイヤ。
下・2階コンコースのエスタレーターから見た正面の広場。

 鹿児島本線・久大線

 久留米市京町にあるJ R久留米駅(くるめえき)は、開業時ここが久留米市の中心部やった。

 バッテン、大正13年(1924)に西鉄久留米駅がでけてから、中心街が東の方さい移動したもんやケン、久留米の玄関口もなんか町の端っこに追いやられたごとなって、いまは寂れてしもうとる。

 2010年度に全線開業予定の九州新幹線が来たら、またこのあたりも頑張ってもらわないかん。

 久留米いう町は、むかしむかし国府が置かれて以来、筑後国の中心として栄えてきた。平安時代末期の長寛2年(1164)年、肥前の豪族草野永経(くさの ながつね)がクサ、いまの草野地区に入ってきて、以後約400年間、北部の山本郡は草野が支配しとった。南の三潴郡はていうと、柳川の蒲池が支配しとった。

 豊臣時代には、毛利元就の9男・毛利秀包(もうり ひでかね)が久留米城におって支配とったっちゃが、関ヶ原で西軍に加担したもんやケン改易された。

 元和7年(1621) 有馬豊氏(ありま とようじ)が関ヶ原での戦功ば認められて、丹波国福知山のたったの8万石から13万石も加増されて入ってきた(今でいうなら栄転タイ)、以後は11代の頼咸(よりしげ)まで、有馬の統治による久留米藩の中心地となったていうこと。

 江戸時代は有馬の殿様が殖産興業ば進めなったもんやケン、久留米絣・蝋など盛んに作られて、それからずーっと商業都市として発展してきた。

 結婚して妻子ともども伏見に移ったとが天保8年(1837) 頃。こん時、無尽灯いうとば発明しとる。無尽灯いうとはとげなもんかていうと、中に菜種油が入っとって、こればポンプで圧縮して、明るく灯す訳タイ。ろうそくの10倍以上の明るさで、5 時間から6 時間ずーっとついたいうケン、そらあ便利な発明やったろう。

 商人が喜んで買うたゲナ。その頃の照明はろうそくやったケン、チラチラして商売の時間が夕方で終わってしまいよったとが、これやったら夜の家ん中でも長い時間商売がでけたいう訳タイ。

 
久重はその後、天文学やら蘭学ば勉強して、53才で作んなったとが、和時計の最高傑作ていわれとる有名な万年自鳴鐘(万年時計)やった。時計のほかには、雲竜水というポンプも作っとんなる。

 当時は、諸外国が日本に対して開国ばせまり、外国船で日本の周りば騒がせとる時期やったケン、佐賀藩の鍋島直正(なおまさ)やら薩摩藩の島津齊昭(なりあきら)やらは、精錬方やらいうとば作ってクサ、新技術開発に熱心やった。要するに技術競争ばしよった訳タイ。

 たまたま佐賀藩七賢人の一人、佐野常民がこの佐賀藩精錬方の頭になり、京都に田中久重いうすばらしか技術者がおるとば知っとったもんやケン、ぜひ佐賀藩にこんかて誘うた。久重は京都で商売もうまいこといきよったとバッテン、佐野の強い誘いに乗せられて、佐賀藩に行く。久重このとき55才。佐賀に行って何ばしたかていうと、蒸気機関車。蒸気船の凌風丸。このスチームば作った。そのほかに有名なとは維新で活躍したアームストロング砲タイ。

 そうこうしよったら、今度は久留米からもいろいろ仕事ば頼まれて、郷里でもあるケン、両方兼務していろいろ発明ばしとる。例えば製氷機(氷を作る機械)、精米機、昇水機(水を山の上に上げるための機械)、鍵のなか錠前、改良竃。人の役に立つもんなら、なんでも無理ば聞いて形にしていったゲナ。

 明治6年(1873) 75才で上京して、明治8年(1875) 銀座8丁目に田中製造所ていう店舗兼工場ば構えた。これがなんと今の東芝の始まりていう訳タイ。

 「カラクリ太鼓時計」のショーは朝8時から夜7時まで毎正時に5分間。蒸気機関車やら弓ひき童子やらが出てきて楽しませてくれる。珍しかもんやケン、東京から出張してきたていうセールスマンもあぽーっとして見とれとんなった。

 伴奏の音楽も、久留米に縁のある中村八大「上を向いて歩こう」、松田聖子「赤いスイートピー」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、團伊玖麿「筑後川」が1時間交代で聞けるごとなっとる。
 バッテン、全部聞くためには4時間は久留米におらないかん。

 初代藩主有馬豊氏が、丹波福智山の瑞巌寺にあった父・則頼の分霊ば移して、その法号梅林院から寺号ば梅林寺にしたていう禅寺が駅のすぐ近くにある。

 久留米の駅ば出ると、駅前にある大きな「カラクリ太鼓時計」がイヤでも目に入る。普段はなんちゅうこたあなかただの時計バッテン、決められた時間が来ると(1時間おき)、文字盤がくるっと回転して中からからくり儀右衛門が出てきてのショーが始まる仕掛けになっとる。

 これは平成11年、久留米が生んだ「日本第一細工師・からくり儀右衛門」こと田中久重(たなか ひさしげ)の生誕200年ば記念して、久留米市が作ったとゲナ。

 細工師いうたらなんかいな。駅長の「もの好き、なんかいな調査」によると、発明家のこっタイ。

 田中久重は、通称「からくり儀右衛門」 のちに偉うなって近江大掾久重(おうみだいじょう ひさしげ)。寛政11年(1799)に当時21万石の城下町やった久留米通町10丁目の鼈甲細工師の長男として生まれた。

 小さか時から鼈甲細工職人の父親のそばで、いろんな鼈甲細工ばみて、ノミやら道具ば触りながら育ったもんやケン、手先が器用かったゲナ。

 その頃の子供は、8才ぐらいになったら、みんな寺小屋に通いよったっちゃが、久重は寺子屋でいじめに遭うてクサ、いっつも硯箱に蛙ば入れられたり、いたずらされてよったゲナ。そやケン、この硯箱ば何とかいたずらされんごとしたかいうことで、父親に相談して友達が触っても開かんごたあ細工ばしたらしか。これが久重にとって、からくり細工への興味ば持たせるきっかけになった、ていうエピソードが残っとる。

 21才の時には、五穀神社のお祭りで水カラクリの仕掛けば披露して大喝采。話は上方にも伝わって、興業したところが大当たりタイ。いつしか人はからくり儀右衛門て呼ぶごとなっとった。

上・久留米駅前でお出迎えのカラクリ太鼓大時計

左・駅前には噴水もあって、落ち着いた雰囲気がある。悪ういえば「サビレとる」いうこと。新幹線が来たらどうなるか楽しみ。

左上・普段は普通の時計に見えるバッテン、
右上・時間になったら音楽が鳴り出して、時計の文字盤が回転始める
右中・からくり儀右衛門が出てきて万年時計やら無尽灯・蒸気機関車の説明が始まる
左下・「弓ひき童子」やら「茶だし人形」が楽しませてくれる
右・このからくりは久留米市が市制90年ば記念して作った

場所・福岡からもういまはタダになった鳥栖筑紫野道路(県道17号線)ば南下する。佐賀への国道34号線ば越して約5kmで小森野橋を渡る。久留米医大通りを抜け、市役所西の信号から右折すれば駅に突き当たる。
      取材日 2008.6.5 / 2013.3.2

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