平地にあるケン、ホームからぐるり360度見渡せる。こげな場所もいまごろ珍しか。まあそれだけまわりにクサ「なーもなか」て、いうこと。
北西2kmには、おおむかし景行天皇が九州ば平定するため来なったとき、行宮(あんぐう・仮の御所)ば置いとんなったていう御所ケ岳が見える。天皇がおんなったケン、御所ケ岳タイ。
北2kmには南北朝の時代に、新田義貞の子の義基(よしもと)が本拠にしとった馬ケ岳も見えとる。
その「三四郎」はクサ、夏目漱石の長編小説で明治41年(1908)の「朝日新聞」に、9月1日から12月29日まで連載され、人気のよかったもんやケン、翌年5月に春陽堂から出版されたとゲナ。
熊本の高等学校(第五高等学校)ば卒業して、大学に入学するために上京した小川三四郎いうとが主人公タイ。
東京へ出てきたもんの、東京は三四郎の常識とは全く違う世界やった。いろんな人間と出会い、三四郎は自分が三つの世界に囲まれとることに気づいていく設定になっとる。一つ目は母が暮らしとる故郷熊本。二つ目は学問の世界。三つ目は華やかな東京の街。
三四郎は美禰子ていう女に恋し、彼女がおる三つ目の世界に心ばひかれるとバッテン、美禰子は曖昧な態度ば続けるばっかりで、ついには兄の友人と結婚してしまう。・・・ようするに三四郎は振られたわけタイ。
漱石は、田舎から出てきた小川三四郎が、都会人との交流で成長していくさまば描くことで、平凡な田舎者ば通じて、当時の日本ば批評したかったとやろう。小説のなかで三四郎と美禰子が出会うた東京大学の心字池は、作品の影響ば受けて「三四郎池」て呼ばれるごとなったとゲナ。
この駅は、旧国鉄の田川線が平成筑豊鉄道になった時、平成5年(1993)3月18日に新しゅうでけた。
ところでなしこげな駅名になっとるとかていうと、夏目漱石の小説「三四郎」で、主人公・三四郎の出身地が京都郡ていう設定になっとって、三四郎のモデルていう小宮豊隆(こみやとよたか)が犀川町の出身やけんゲナ。
「ようまあ、そげなことば見つけてきてこじつけたもんタイ」て、感心する。
あんまり小説やら読んどらん駅長は、三四郎いうたらてっきり姿三四郎て思うとって、なんの関係があるとやろうか、て、興味があったとバッテン、夏目漱石の三四郎て分かって肩すかしばくろうた。
上・駅の北西に見える御所ケ岳は247m
右・列車は平均1時間に1.5本。昼の列車にはおばちゃん1人と中学生2人が乗った
右下・待合い小屋の背中が駅名の看板
三四郎のモデルになった小宮豊隆(こみやとよたか)は、明治17年(1884)年3月7日、福岡県京都(みやこ)郡犀川村の生まれ。明治35年に豊津中学ば卒業して、第一高等学校から東大に進学した秀才やったゲナ。
夏目漱石と知りあうて、漱石の自宅によう出入りしよったらしか。ドイツ文学ば専攻して、東北大学ドイツ文学講座の初代教授として赴任したていう人タイ。
彼の出身校は、いま豊津高校いうて福岡県立の中高一貫高校になっとる。校内に「三四郎の森」と小宮豊隆の記念碑があって、彼はここの校歌も作詞しとると。
いっぽうの美禰子は、漱石の弟子やった森田草平と心中未遂事件ば起こしたていう婦人運動家の、平塚雷鳥(ひらつか らいちょう)がモデルやったとゲナ。
富田常雄の「姿三四郎」と勘違いするとは駅長だけじゃなかとみえて、「姿三四郎の作者は夏目漱石」て、間違うとる慌てもんも多からしか。
犀川(さいかわじゃのうてさいがわてにごる)いうとは、町ば流れとる今川の別名で、江戸前期正保(1644〜47)の古地図に、この川の名が出てきとるとゲナ。そしてこのあたり一帯ば犀川谷ていいよったらしか。
明治22年、町村制施行で東犀川・西犀川・南犀川いうみっつの村が誕生して、昭和18年の町制施行で犀川町になり、平成の大合併で勝山町・豊津町といっしょに「みやこ町」になった。
なし、犀川ていうとかていえば、むかしこの川の流域で、塞の神が信仰されとって村の渡し場には必ず塞神が祀られとった。塞が犀になった。て、いう説がある。
塞の神いうとは、疫病・災害ば持ってくる悪神・悪霊ば、集落の中に入らんごと防ぐていわれとる道祖神のこと。
その犀川が、なし今川になったとかは分からん。