このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 ステンショ物語 (その36)   汽車が走り出した明治の頃                   
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
    

戦後ここから復員列車が1,147本も出た
 大村線                  


 明治31年(1898) 早岐〜大村間に鉄道が開通した。こげな田舎の漁村に始めてでけた駅やったもんやケン、名前に困った。宮駅とか貴船駅とか候補があがったとバッテン「やっぱあ近くの南風崎港がよう知られとるバイ」いうことで、南風崎駅(はえのさき)にきまった。
明治から唄われた鉄道唱歌には
 鎮西一の軍港と その名知られて大村の 湾をしめたる佐世保には 我が鎮守府をおかれたり
 
南の風をはえと読む 南風崎すぎて川棚の つぎは彼杵(そのぎ)か松原の 松ふく風ものどかにて
 ・・・て載っとって、南風崎いう読み方が珍しかったもんやケン、有名になった。

 鉄道がでけた当時の運賃は、早岐までが4銭。佐世保までが10銭8厘。いま、早岐までが220円。佐世保までが320円。なんと5,500倍。

 駅舎はステンドグラスがついとって洒落とる。相対式ホーム2面2線の無人駅。

 駅舎側が下りの大村方面行きホーム。中央の構内踏切渡った反対側が上りの早岐行き。

 構内の早岐よりから駅舎に突き当たる形で、引き込み線が残っとるとは、こっから戦後復員列車が出よった名残かもしれん。

 左へカーブして行っとるとが引き込み線。

 駅の説明板によると、現在のハウステンボスのあたりに浦頭港という港があって敗戦のあと、中国・東南アジア方面からの復員兵・引揚者がここに上陸しよった。

 ここには佐世保引揚援護局が置かれとって、引揚者の受け入ればしよったていう歴史がある。引揚援護局閉鎖後、陸上自衛隊針尾駐屯地、針尾工業団地を経て現在のハウステンボスになったていう。

 針尾の浦頭港(うらがしら)で検疫ば受けた引き揚げ者は、いったん援護局に収容されたあと、逐次この駅から特別仕立ての列車に乗って、それぞれの故郷に帰っていった。

 その列車のことば引揚列車とか復員列車ていうた。

 昭和20年(1945)10月から昭和25年4月までの間に、ここへ引き揚げてきた人140万人、この駅から出た引揚列車が1,147本ていう。

「日本が、日本人が一番苦しんだ時代の記録」が残っとる。

左上・針尾の無線塔。大正11年(1922)に完成した高さ135m。太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」ば送信した電波塔として有名。

 針尾島の引き揚げ者が一時収容された所は、いま「浦頭引揚記念平和公園」になっとって、平成12年にはここに田端義夫が唄うた「かえり船」碑が建った。
 演歌の好きな駅長もこの歌は単なる故郷に帰る望郷の歌とばっかり思うとって、帰還兵士の復員の歌いうことは全く知らんやった。

   
「かえり船」
           作詞:清水みのる 作曲:倉若晴生
(一)
 波の背の背に 揺られて揺れて 月の潮路の かえり船
 霞む故国よ 小島の沖に 夢もわびしく よみがえる
 
(二)
 捨てた未練が 未練となって 今も昔の せつなさよ
 瞼あわせりゃ 瞼ににじむ 霧の波止場の 銅鑼の音

(三)
 熱いなみだも 故国に着けば うれし涙と 変わるだろう
 鴎ゆくなら 男のこころ せめてあの娘に つたえてよ
 


  
浦頭引揚記念平和公園
 
  殉国の碑

 苦しんだ時代ていえば、近くの小串郷に「殉国の碑」がある。

 太平洋戦争が旗色の悪うなった昭和19年(1944) 切羽詰まった海軍軍令部は特攻作戦ば考え出した。
 
神風(かみかぜ) 零戦に250k爆弾ば抱かせて敵艦に体当たりしたケン、米軍はカミカゼいうて恐れとった。
  零戦(ゼロ式戦闘機)は大刀洗平和記念館に実物が1機だけある。
  「ふる里駅」の「九州遺産」ば見てよ。 http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/isan/title.html

 
桜花(おうか)  乗員ば1人乗せて爆撃機に吊り下げ、敵艦ば発見したら切り離す。
滑空して体当たりする人間ロケット。

 
蛟龍(こうりゅう) 水中から攻撃する5人乗りの特殊潜航艇。真珠湾攻撃に使われた。

 
回天(かいてん) 神風の海中版。魚雷に操縦席ば付けた1乗りの人間魚雷。バックもでけず、
  脱出装置もなかったケ ン、乗員は乗ったら最後、死ぬしかなかった。
  バッテン、海軍はこれで戦争ば逆転して
「天ばひっくり返す」つもりの名前やつた。

 
伏龍(ふくりゅう) 潜水具ばつけ重さ5キロの「鉛のぞうり」ば履いて海底に潜み、
  長い竿の先に爆薬つけて、上を通る敵艦艇ば攻撃した。

 
震洋(しんよう) 別名アマガエル(船体が緑色をしとったため、青い棺桶てもいうた)
  全長5mのベニヤ板製、船首に250kの爆弾ばつけて、敵艦に体当たりばした。
  太平洋ば震え上がらせるつもりやつた。
  震洋は三菱長崎造船所と佐世保海軍工廠で約7000隻造られ、国内外に配備されたていう。

 いま、こうして並べてみたら、なかには馬鹿らしゅうして笑いだそうごたるもんもあるけど、当時はこれが真剣に考えられとったっちゃケン、戦争いうもんは人間ば気狂いにしてしまう。

 この特攻作戦にによる戦死者は、約5000人やった。


 ここには当時
川棚臨時魚雷艇訓練所いうとがあって、震洋と伏龍の訓練がひそかに続けられとった。訓練しよるとき通る汽車は、窓のよろい戸ば下ろさせられたていう。

 その震洋はコレヒドールと沖縄で、敵艦艇数隻ば沈めた記録はあるもんの、ほとんどは、体当たりする前に攻撃され乗員は戦死した。敵もさるもんタイ。船のまわりに丸太ば浮かべ防御したていう。

 訓練中の事故死やら、汽車へ飛び込んで自殺した人もおったらしか。
「特攻殉国の碑」には、戦死者2500人を含む3511人の名が刻まれとる。

 訓練所のあった跡の海岸から、雲の低っか大村湾ば振り返ったら、無念そうな若者の顔が浮かんで波間に消えた。

 駅に戻る。
 2005年のデータでは、1日平均乗降客は35人。これは大村線内13駅のなかで、第13位やった。

 トンネルひとつくぐったら、約1kmでもう隣のハウステンボス駅やケン、通勤時間帯ば除き、この駅で乗降する乗客はほとんどなかていうてよか。大村から来た青いシーサイドライナーが、男の客一人乗せてハウステンボス駅へ発車して行った。

場所・長崎県佐世保市南風崎町。佐世保から大村線に乗れば、日宇〜大塔〜早岐〜ハウステンボス〜南風崎。車なら長崎自動車道ば東彼杵ICで降りて、国道205号線ば西(佐世保方向)へ約12kmの左側。   取材日 2009.12.06

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください