そのむかし、中国に修行しに行った大応国師ていう僧が、帰国の途中に雪の深かか山ん中で、狼に追われよった一匹のうさぎば助けなつたゲナ。
国師の一行は助けたうさぎば連れて船に乗り、玄界灘にさしかかんなったところが、暴風雨に巻き込まれて難破寸前。
国師も「もうこれまでバイ。あきらめまっしょう」いうて、念仏唱えだしなったところが、抱いとんなったうさぎがクサ、突然荒れ狂う海の中に飛び込んだていうやなかね。
そして、たまがったことに、あれだけ牙ばむいとった海が、ピタッと凪いでしもうたげなタイ。
ほっとした国師が空ば見上げなつたら、あのうさぎが金色に輝きながら、そらに舞い上がって国師にバイバイしたかと思うたら、ふてえがってえ、龍王の姿になって雲ん中へ消て行ったていう。
おかげで国師たちは、無事に姪浜に帰り着いたていう。
その話ばもとに、高さ8mのステンレスの波の中に金色のうさぎが跳ねとった。
ま、そうゆう訳で駅も区役所も姪浜の発展ば願うてクサ、頭絞っとんなっちゃケン、この話も覚えといちゃらんね。
もともと姪浜いう地名は、神功皇后が新羅遠征から帰ってきたとき、まず上陸しなったとが、この浜で、船から浜にあがるとき、水ん中い転け落ちなって、着とんなった「袙(あこめ・下着)」ば濡らしてしまいなったとゲナ。
それば浜で干したケン「あこめの浜」ていいよったとが、いつのまにかなまって「姪浜」になったていわれとる。
鎌倉時代には、元寇(文永・弘安の役)防塁が海岸沿いに築造され、弘安〜正安年間には警固番役が置かれて防塁ば守るため、鷲尾山には鎮西探題が城まで築いとったていう。
江戸時代になると唐津街道沿いは宿場町として栄え、福岡藩2代藩主黒田忠之が、寛永11年(1634)に京都の愛宕神社から愛宕権現ば勧請したケン、これがいまの愛宕神社と愛宕山タイ。
明治22年(1889)の町村制施行で早良郡姪浜村が置かれ、明治26年(1893)には姪浜町になった。
大正3年(1914)から採掘が始まった姪浜炭鉱(早良炭鉱)は年20万トンば出炭しよって、最盛期には約8000人の炭鉱労働者が姪浜近辺に居住しとったことがある。
駅は島式ホーム2面4線の高架駅。
1番線がJR筑肥線からの直通列車で、地下鉄空港線へ乗り入れ。
2・3番線は当駅始発の地下鉄空港線と箱崎線。
4番線がJR筑肥線の筑前前原・西唐津行き。
なお2・3番線は、下山門にある地下鉄姪浜車両基地へつながっとる。
駅のシンボルマークは駅の近くにある小戸ヨットハーバーにちなんだヨットが使われとる。
右・ホームの端から西ば見たところ。4本の線路がすべて切り替え可能となっとって、そのうちの2本は下山門にある姪浜車両基地へ繋がっとる。
下・地下鉄の駅には全部エレベーターがついとるケン、年寄りでも利用しやすうなった。
これがなからな中洲川端やらはホームから地上まで120段もの階段ば踏まないかん。