このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 ステンショ物語 (その40)   汽車が走り出した明治の頃                   
                      駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
    

なぁもなか田舎バッテン、景色のヨカとが宝物
 大村線                  


 豊前国小倉の常盤橋(ときわばし)ば基点に、肥前国長崎まで57里(約224km)途中に25の宿場があった。これば長崎街道ていう。このあたりでは国道34号線に沿うて、まだ旧街道が残っとる。

 佐賀の嬉野宿から俵山峠ば越えて長崎に入り、初めの宿が彼杵(そのぎ)宿で、その次が
千綿(ちわた)宿。街道はさらに大村市の松原宿、大村宿ば経て、諫早市の永昌(えいしょう)宿、いまはもう長崎市になった矢上宿、日見(ひみ)宿ば通り日見峠ば越えて長崎に入りよった。

 ここでちょつと長崎線の話ばする。
 長崎線はもともと、鳥栖と長崎ば結ぶ路線として、九州鉄道の手によって建設された。

 九州鉄道は、明治30年(1897)に長崎から浦上〜長与ば開業。翌年には早岐〜大村〜長与間ば完成させ、鳥栖〜長崎が全通した。

 もっとも全通するまでの1年間は、早岐から長与まで、大村湾ば連絡船で繋いどったていう。
 そして長崎線は明治40年(1907)国鉄なった。

 右・改札出た途端、もうそこは大村湾。

 ところが、この旧長崎本線は、佐世保・大村ていう長崎県の主要都市ば結んどるとは良かったとバッテン、福岡からいうと遠回りでとつけむのう不便タイ。

 そやケン国鉄は、昭和5年(1930)から肥前山口〜鹿島経由諫早までの有明線いうとば造り始めて、昭和9年(1934)にでけあがったケン、鹿島経由のほうば長崎本線にして、旧の長崎線は大村線として切り離してしもうた。

 そうゆうのちのちの経緯は別にして、このあたりば鉄道が走るようになったとは、明治31年(1898)ていうことになる。

 明治5年(1872)に新橋駅〜横浜駅間でクサ、日本の鉄道がはじめて開業して1/4世紀あと、博多駅〜千歳川駅間で九州の鉄道が開業したとが明治22年(1889)12月11日やケン、これに遅れること17年やった。

 汽車は走り出したもんの、この辺には駅がなかったもんやケン、駅の誘致合戦が起こり「おれがおれが」で話がまとまらん。

 昭和3年(1928)やっと妥協策として彼杵駅(東彼杵町)と松原駅(大村市)の中間点に建設地が決まったとが千綿駅やった。

 ここに決まったとはよかバッテン、線路がギリギリ海岸線に沿うて敷かれとるもんやケン、直線区間が取れんで、ホームはカーブしたままの駅になつた。

上・海岸線ギリギリにシーサイドライナーが走り抜けていった。
下・線路といっしよにホームもカーブ。花壇もあってみんなが大事にしとる駅ていうことが分かる。

 駅名は千綿バッテン、駅は千綿宿郷の集落から少し離れとる。江戸末期には100軒以上の店があったていう千綿宿は、鉄道が開通して駅からはずれると急速に寂れてしもうたゲナ。

 駅舎は木造やけど、平成5年(1993)になってから新築された建物ていう。待合室には国鉄時代の金具が飾られるなど、レトロ調の造りになっとる。

 現在、佐世保や長崎行きなどJR大村線の普通列車上下合わせて29本が停車しよって、1日平均乗降人員は約334人。これは2005年度、大村線内13駅の中で第9位ゲナ。

 昭和3年の開業からやケン、築60年はゆうに越しとった駅舎ば建て替えるときいまどきの「弁当箱のごたる」駅舎にはせんで、残せるもんは残して建てたケン、風情があってヨカ。ここの風景にはぴったりタイ。
 昭和7年にここば歩いた種田山頭火は、行乞記に「何だか気が滅入って仕方がない、焼酎一杯ひつかけて誤魔化さうとするがなかなか誤魔化しきれない、さみしくてかなしくて仕方がなかつた」て書き、次の句ば残しとる。
寒空の鶏をたたかはせてゐる
水音の梅は満開
牛は重荷を負はされて鈴はりんりん


駅ば額縁にしてホームの向こうには大村湾。

ホームの真正面には西彼杵半島。右の出っ張りはくじゃくの大崎半島。

 駅はほんの海辺にあるケン、無人の改札ば抜けて石段ば五六段もあがったらそこはもうホーム。海の上に立っとるような錯覚にハマる。
 このあたり駅前の東側約400mに長崎自動車道が、また駅の東側ば大村線に並行するごと国道34号が通っとる。

 駅は国道からちょつと入った旧道にあって、駅前広場は整備されとるケン、毎年秋にある「九州一周駅伝」では、第1日目の「たすき」の中継所(第4中継所)として、文字通り
「駅」伝の舞台になる。


下・ホームより駅舎が下にあって、駅前広場は駅舎よりまだ下にあるていう三段構えの構造が珍しか。

 小さな駅のホームに降り立った熟年夫婦(上原謙と高峰三枝子)。2人の前には穏やかな海が広がっとった・・・。JR九州がむかし作ったフルムーン切符の宣伝ポスター。この舞台になったとが千綿(ちわた)駅やった。

 このポスターと木造駅舎、大村湾の景色の良さで有名になって
「撮り鉄」がよう撮影に来とるらしか。

 あ、そうタイ。「撮り鉄」いうとは鉄道ファン(鉄チャン)のなかで、列車の撮影ば趣味にしとるもんのこと。
 ついでに、列車ば全国乗り潰すとが「乗り鉄」、発車メロディやら車内放送ば録音するとが
「録り鉄」、ほかに「模型鉄・車両鉄・蒐集鉄・駅鉄・廃線鉄」などのマニアがおる。

 そういえば、いつか久大線の草野駅で会うた学生さんが「車両鉄」でクサ、列車の型番やら特徴ばペラペラやった。あれば勉強の方に持っていけば「東大合格間違いなし」やろうて思うた。

      
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 千綿駅前のたばこ屋のばぁちゃんが云いよんなった。「なあもなか田舎バッテン、ここの景色は何よりの贅沢かもしれんバイねぇ」

旧国鉄スタイルの駅名標。

場所・長崎県東彼杵町平似田郷。大村線で早岐から7つ目。諫早からも7つ目。車なら長崎自動車道ば東彼杵ICで降りて、国道34号線ば東(大村方向)へ約4kmで右の旧道ば入ったら200m。      取材日 2009.12.06

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください