ここで直方藩について・・・
ここで直方についてやが、関ヶ原役の働きで筑前一国ば与えられた黒田長政は、元和9年(1623)に死んで、嫡子の忠之(ただゆき)が家督ば継いだとバッテン、この時に長政の遺言てクサ「忠之の弟長興(なかおき)に秋月5万石、同高政(たかまさ)に東蓮寺4万石ば分けろ」いうことで、ここに東蓮寺藩(とうれんじはん)いうとが成立した。
なし東蓮寺藩かていうたら、直方ていう以前、この一帯は古うからある寺の名ばとって東蓮寺村ていいよった。そやケン、東蓮寺藩てしたとやろう。
ついでバッテン、直方には地名だけが残っとって、寺は影も形もかな永満寺ていうとこもある。
三代目の長寛(なかひろ)は「寺の名前じゃおかしかろうもん」いうて、延宝3年(1675)に東蓮寺ていう藩名ば直方藩て改めた。長寛はその後、本藩の後継ぎ綱之(つなゆき)いうとが廃嫡されたもんやケン、本藩ば継がないかんごとなって、直方藩4万石ば本藩に返却して廃藩にした。
元禄元年(1688)になって、綱政(つなまさ)て改名した長寛が、本藩の四代藩主になったとき、弟長清(ながきよ)に鞍手郡の新田5万石ば分けてやり、長清ば直方に住わせたケン、再び直方藩が成立したていう経緯がある。
はじめ直方の藩邸ていうか陣屋は、殿町に残っとる双林寺のあたりに置いたていうが、5万石になって長清が直方に来たとき、いま市民体育館のある(当時は妙見山ていいよった)に館ば造った。
その跡は、多賀公園として「史跡・直方城址」の石碑が建つ。しかし、史跡てはいうもんの、住宅地や体育館の敷地になってしもうとって、多賀神社の裏、多賀公園と隣接するあたりに堀切と石垣らしき遺構がある以外、当時ば偲ぶようなもんは残っとらん。
なし城ではなく「館」やったかていえば、当時は一国一城の制度があって、むやみに城は造られんやったけんタイ。
直方駅の西口に、覚音山西徳寺ていう寺がある。
直方藩邸の裏門ば移設した山門と
貝原益軒の銘入り梵鐘がある。
この西徳寺(さいとくじ)は筑前名島城主やった小早川秀秋の家老、篠田次郎兵衛重英が開基ていわれとる。重英は関が原の合戦後出家し「西徳是照」いうてこの地に草庵ば結び、専修念仏に勤めとったら、寛永五年(1628) 三世清順の時に「西徳寺」ていう寺号ばやっと許されていう。
寺伝によれば、ここの山門は、直方藩が黒田藩に返却された享保五年(1720)以降に、直方藩邸の門ば移築したとていう。門の形態から寺の門じゃのうて、城や館の門ていうことが分かっとるケン、寺伝の信憑性は高っか。
この門がほんなことい直方藩主の館の門ば移築したもん(ここシャレ)やったら、遅くとも元禄五年(1692)頃には建造された門やケン、市内にある最も古か建造物として、また、城下町時代の数少なか遺構として貴重な文化財ていうことになる。
その山門は桁行二間、梁間一間の薬医門で、屋根は切妻造りで本瓦葺、片側に脇戸が設けられとる。
西徳寺の境内に梵鐘がある。総高123cm、口径70.4cm。江戸時代前期につくられた梵鐘らしか。
もとは、福岡藩の梵鐘で、儒学者貝原益軒の銘文がある。銘文には寛文四年(1664) 福岡藩主黒田光之の命で改鋳された梵鐘で、城内に時ば告げる「時の鐘」として使われとったて書かれとる。
上・益軒の銘がある鐘は、現役引退 ?
左・直方藩の館の門ば移築したていわれとる西徳寺山門。
ところで、なし「直方」 ?
ところで、「直方」は「のおがた」て読むとバッテン、この地名の由来にはいろんな勝手説やら、とんでもなか説がある。
そのひとつは縄文時代、この辺りは遠浅の入り江やったケン、「ノオ潟」ていう呼び方があって、これに漢字ば当てはめたとやろうていう説。
つぎは、南北朝時代に遠賀川ば挟んで、足利尊氏が東側、懐良親王が西側に対峙した時、川の西側(市の中心街側)ば天皇方・親王方ていうたもんやケン、これが皇方・王方て訛った。
いずれも遠賀川に関わる名前と思われるとやが、この名称が世に出たとは、東蓮寺藩ていいよった黒田の支藩がクサ、易経の「直方大(ちょくほうだい)なり。習わざれども利あらざるなし」からとって、直方藩に改めたことに始まっとる。
成金饅頭の話
ついでバッテン、駅ば背にして右手の明治町アーケードには、成金饅頭の元祖「大石本家」がある。明治時代中期、投機のためうずら豆ばいっぱい仕入れたところがクサ、相場が暴落したもんやケン、貨車数台分ば処分することになったとげな。
丁度その頃の筑豊は、炭鉱景気で賑おうとって、重労働でくたびれた炭鉱労働者には甘い菓子類が喜ばれとった。それでうずら豆ば使うた菓子ば作って売り出したら大当たりタイ。こうして成金饅頭が誕生したていう。
「成金」の名前については、炭鉱で一躍金持ちになった成金が多かったけんとか、地元で炭鉱王て呼ばれた貝島太助(下の写真・多賀町公園)が名付けたとか、諸説がある。
最盛期には10軒ほどの店で作られてとったバッテン、炭鉱の衰退とともにいまでは4軒まで減少しとるていう。
あっちこっちに手広く店舗展開しとった「四宮の成金饅頭」は、いっぺん倒産したとバッテン、経営者が変わって甦っとる。
創業100年ば越えるていう大石本家の成金饅頭は完全な手作り。売りよるともここだけやケン、直方まで買いに行かな食べられん。
上・まず最初に藩邸ばおいたて思われる双林寺。
下・長清が直方藩主になって来て館ば造ったとき、それまで妙見山の山頂にあった妙見社ば北に移して北の守りにしたとが、いまでも直方の鎮守・多賀神社ゲナ。
館の大きさは、一辺が約100mの四角で、中には能舞台に馬場もあったていう。
南に出たら瓦敷きの坂道。山の下には堀と池ばめぐらせて門があったゲナ。
そやケン、今でもこの一帯ば御館山(おたちやま)、線路ば股越しとる橋ば御館橋(おたちばし)ていい、体育館の下が伊田線の「南直方御殿口駅」で、そのあたり「殿町・門前町」ていう地名が残っとる。
福岡から連れてきた家臣1700人と、地元も入れて町人220戸の城下町がでけとった。町人が住んだとこは「新町」としていまも名前が残る。
左・館の跡は小高い丘で、上は多賀公園。この右手は直方市民体育館になっとる。
駅前、明治町アーケードにある成金饅頭の「大石本家」 白あんのうずら豆の食感がよか。