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 ステンショ物語 (その41)   汽車が走り出した明治の頃             
                       駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
 
筑豊本線はこっから始まった
  筑豊本線・平成筑豊鉄道伊田線      

直方駅前にあった「炭坑夫の像」はリバーサイドパークに移され、新感覚のモニュメントが並ぶ。

 それは、明治24年(1891)のこと。筑豊興業鉄道によって筑豊地区の石炭ば輸送するため、直方から若松までの路線が開設された。鉄道がでけたことで、それまで遠賀川の五平太舟でばかりやった石炭の輸送が飛躍的に向上した。

 明治32年(1899)からは、筑豊の拠点駅とするために拡張工事が行われて、筑豊炭田の各地からやってくる石炭車ばここで行き先別に、若松・八幡・戸畑て仕分けして送り出しよった。構内には13本の仕分け線が設けられ、夜は照明灯が輝いて昼夜関係なしに大忙しやったていう。

 いまの駅舎は明治43年(1910)に改築工事が完成したとバッテン、これは初代博多駅の駅舎ば移築してきたていう。

 ネオ・バロック様式の駅舎としては
九州最古で、正面の車寄せには古代ギリシャ建築、エンタシス風の三本柱が立ち、明治の歴史ば感じさせる。

 改修しながらいまも残されとるっちゃが、駅周辺の整備事業で駅の建替計画も浮上しとる。

 市民団体からは保存ば求める声があがっとるもんの今後どうなるかは分からん。

 改札口ば出ると、直方の風景ば模した枯山水の庭園がある。以前ここは線路のあったところで、駅舎側のホームから乗り降りしよったとバッテン、炭坑特有の地盤沈下で駅舎が沈んで線路より低うなったケン、使われんごとなってしもうとるとタイ。

 駅舎と各ホームは跨線橋で連絡しとる。幅5.5mの跨線橋は3mと1.5mで中仕切されとって、広かほうがJR、狭か方は駅西口への自由通路で、駅の構内ば東西に横断する陸橋の役目ばしとる。

 JR九州は島式ホーム2面4線で、ホームは基本的に1番ホームと2番ホームが博多方面、3番ホームと4番ホームが折尾・黒崎・若松方面行き。

 駅舎側のいちばん南の端が、平成筑豊鉄道伊田線に割り当てられとる。

 直方駅2006年度の1日平均乗降人員は、JRが6,484人。平成筑豊鉄道が1,830人。

 待合室は、そげん古か建てもんとは思われんぐらい明るくてスッキリしとる。
 駅にはお定まりのパン屋さん・トランドールもある。


 平成筑豊鉄道
「伊田線」直方駅

 平成元年(1989) 伊田線が平成筑豊鉄道に転換したケン、駅の南端に「ヘイチクの直方駅」が造られた。ホームはJR直方駅構内の、片面が頭端式になっとる1面2線ば使いよる。(写真上)

「ヘイチク」の直方駅にはネーミングライツで
「藤本興業studiocanada」の愛称がついとる。

 駅創設当時から、御館橋付近に直方機関庫いうとがあって、明治39年(1907)の国有化でもそのまま国に引き継がれ、直方機関区ていいよった。大正元年(1912)からは、筑豊全般ば担当するごとなって、駅構内に移転したときは、機関車43両、職員は415人もおったていう。

 昭和10年(1935)から、筑豊炭田の出炭量増加とともに、機関区の規模も増大して、機関車は最大の60両に、職員の数も終戦直後には1000人にもなっとったゲナ。

 バッテン、昭和30年からは炭坑も斜陽化。39年からは、鳥栖区のDD51型ディーゼル機関車による筑豊線運用もはじまり、直方区のSLは少のうなっていった。

 駅長がよう撮影に来よった昭和47年(1972)頃には、D51型3両、96型8両、D60型1両、D50型1両、C11型1両となり、D51がターンテーブルでまだ煙ば上げよったけど、48年10月でSLの煙はとうとう消えてしもうた。

 
上の写真は左が今の直方機関区、右は38年前の機関区。ほぼ同じとこからの撮影やケン、その違いが分かる。
 下・筑豊の車両基地として直方機関区は健在。バッテン、平成13年(2001)に電化が完成して基地に出入りするとは、電車ばっかりになってしもうた。

上・待合室の電話の横には、三つ指ついてご挨拶しよるグラマーな女カッパ。
左・庭園の石はボタ山に見立てたもの。

 平成筑豊鉄道「伊田線」の基点。
 
伊田線は明治26年(1893)に筑豊興業鉄道が敷いた。

 ここで直方藩について・・・

 ここで直方についてやが、関ヶ原役の働きで筑前一国ば与えられた黒田長政は、元和9年(1623)に死んで、嫡子の忠之(ただゆき)が家督ば継いだとバッテン、この時に長政の遺言てクサ「忠之の弟長興(なかおき)に秋月5万石、同高政(たかまさ)に東蓮寺4万石ば分けろ」いうことで、ここに東蓮寺藩(とうれんじはん)いうとが成立した。

 なし東蓮寺藩かていうたら、直方ていう以前、この一帯は古うからある寺の名ばとって東蓮寺村ていいよった。そやケン、東蓮寺藩てしたとやろう。

 ついでバッテン、直方には地名だけが残っとって、寺は影も形もかな永満寺ていうとこもある。

 三代目の長寛(なかひろ)は「寺の名前じゃおかしかろうもん」いうて、延宝3年(1675)に東蓮寺ていう藩名ば直方藩て改めた。長寛はその後、本藩の後継ぎ綱之(つなゆき)いうとが廃嫡されたもんやケン、本藩ば継がないかんごとなって、直方藩4万石ば本藩に返却して廃藩にした。

 
元禄元年(1688)になって、綱政(つなまさ)て改名した長寛が、本藩の四代藩主になったとき、弟長清(ながきよ)に鞍手郡の新田5万石ば分けてやり、長清ば直方に住わせたケン、再び直方藩が成立したていう経緯がある。

 はじめ直方の藩邸ていうか陣屋は、殿町に残っとる双林寺のあたりに置いたていうが、5万石になって長清が直方に来たとき、いま市民体育館のある(当時は妙見山ていいよった)に館ば造った。

 その跡は、多賀公園として
「史跡・直方城址」の石碑が建つ。しかし、史跡てはいうもんの、住宅地や体育館の敷地になってしもうとって、多賀神社の裏、多賀公園と隣接するあたりに堀切と石垣らしき遺構がある以外、当時ば偲ぶようなもんは残っとらん。 

 なし城ではなく「館」やったかていえば、当時は一国一城の制度があって、むやみに城は造られんやったけんタイ。

 直方駅の西口に、覚音山西徳寺ていう寺がある。
 直方藩邸の裏門ば移設した山門と
 貝原益軒の銘入り梵鐘がある。

 この西徳寺(さいとくじ)は筑前名島城主やった小早川秀秋の家老、篠田次郎兵衛重英が開基ていわれとる。重英は関が原の合戦後出家し「西徳是照」いうてこの地に草庵ば結び、専修念仏に勤めとったら、寛永五年(1628) 三世清順の時に「西徳寺」ていう寺号ばやっと許されていう。

 寺伝によれば、ここの山門は、直方藩が黒田藩に返却された享保五年(1720)以降に、直方藩邸の門ば移築したとていう。門の形態から寺の門じゃのうて、城や館の門ていうことが分かっとるケン、寺伝の信憑性は高っか。

 この門がほんなことい直方藩主の館の門ば移築したもん(ここシャレ)やったら、遅くとも元禄五年(1692)頃には建造された門やケン、市内にある最も古か建造物として、また、城下町時代の数少なか遺構として貴重な文化財ていうことになる。

 その山門は桁行二間、梁間一間の薬医門で、屋根は切妻造りで本瓦葺、片側に脇戸が設けられとる。
 
 
西徳寺の境内に梵鐘がある。総高123cm、口径70.4cm。江戸時代前期につくられた梵鐘らしか。
 もとは、福岡藩の梵鐘で、儒学者貝原益軒の銘文がある。銘文には寛文四年(1664) 福岡藩主黒田光之の命で改鋳された梵鐘で、城内に時ば告げる「時の鐘」として使われとったて書かれとる。

上・益軒の銘がある鐘は、現役引退 ?
左・直方藩の館の門ば移築したていわれとる西徳寺山門。

 ところで、なし「直方」 ?
 ところで、「直方」は「のおがた」て読むとバッテン、この地名の由来にはいろんな勝手説やら、とんでもなか説がある。

 そのひとつは縄文時代、この辺りは遠浅の入り江やったケン、「ノオ潟」ていう呼び方があって、これに漢字ば当てはめたとやろうていう説。

 つぎは、南北朝時代に遠賀川ば挟んで、足利尊氏が東側、懐良親王が西側に対峙した時、川の西側(市の中心街側)ば天皇方・親王方ていうたもんやケン、これが皇方・王方て訛った。

 いずれも遠賀川に関わる名前と思われるとやが、この名称が世に出たとは、東蓮寺藩ていいよった黒田の支藩がクサ、
易経の「直方大(ちょくほうだい)なり。習わざれども利あらざるなし」からとって、直方藩に改めたことに始まっとる。

 
 
ついでバッテン、駅ば背にして右手の明治町アーケードには、成金饅頭の元祖「大石本家」がある。明治時代中期、投機のためうずら豆ばいっぱい仕入れたところがクサ、相場が暴落したもんやケン、貨車数台分ば処分することになったとげな。

 丁度その頃の筑豊は、炭鉱景気で賑おうとって、重労働でくたびれた炭鉱労働者には甘い菓子類が喜ばれとった。それでうずら豆ば使うた菓子ば作って売り出したら大当たりタイ。こうして
成金饅頭が誕生したていう。

「成金」の名前については、炭鉱で一躍金持ちになった成金が多かったけんとか、地元で炭鉱王て呼ばれた貝島太助(下の写真・多賀町公園)が名付けたとか、諸説がある。

 最盛期には10軒ほどの店で作られてとったバッテン、炭鉱の衰退とともにいまでは4軒まで減少しとるていう。

 あっちこっちに手広く店舗展開しとった「四宮の成金饅頭」は、いっぺん倒産したとバッテン、経営者が変わって甦っとる。

 創業100年ば越えるていう大石本家の成金饅頭は完全な手作り。売りよるともここだけやケン、直方まで買いに行かな食べられん。

上・まず最初に藩邸ばおいたて思われる双林寺。
下・長清が直方藩主になって来て館ば造ったとき、それまで妙見山の山頂にあった妙見社ば北に移して北の守りにしたとが、いまでも直方の鎮守・多賀神社ゲナ。

 館の大きさは、一辺が約100mの四角で、中には能舞台に馬場もあったていう。
 南に出たら瓦敷きの坂道。山の下には堀と池ばめぐらせて門があったゲナ。

 そやケン、今でもこの一帯ば
御館山(おたちやま)、線路ば股越しとる橋ば御館橋(おたちばし)ていい、体育館の下が伊田線の「南直方御殿口駅」で、そのあたり「殿町・門前町」ていう地名が残っとる。

 福岡から連れてきた家臣1700人と、地元も入れて町人220戸の城下町がでけとった。町人が住んだとこは「新町」としていまも名前が残る。

左・館の跡は小高い丘で、上は多賀公園。この右手は直方市民体育館になっとる。

駅前、明治町アーケードにある成金饅頭の「大石本家」 白あんのうずら豆の食感がよか。
場所・福岡県直方市大字山部。九州自動車道ば八幡ICで下り、そのまま国道200号バイパスば約2km南下する。左にイオンモール直方が見えたら、その先でバイパスば出て右折県道28号線ば西へ2.5kmで、遠賀川に架かっとる日の出大橋ば渡る。直進400mで駅に突き当たる。                取材日 2010.01.26/2010.02.20
2011.09.08 取材
保存案ば市議会が否決して
とうとう直方駅がくずされてしもうたぁ
 新聞・テレビの報道で、どうも近々直方駅が解体されそうな気配がしたもんやケン、その前に撮しとこうと思うてクサ、おっとり刀で駆けつけたら、もう解体工事の始まっとった。

 駅舎の前面はズラーッと工事用のパネルで隠されとって、パネルの上と透き間からやっとこっと正面玄関の屋根だけが見えた。

 初代の博多駅ば移築した、ていう値打ちのある土木遺産ばクサ、なし? いとも簡単に崩して捨てるとかいね。直方市民のあいだからも反対の声があがっとって、移築保存も検討されたとやろうバッテン、しの説明によれば
「初代の博多駅やったかどうかは関係なしに、建築史的に価値のあるものいうことは分かっとります。バッテン、本屋の柱やら天井裏にはシロアリがいっぱい発生しとって、このままでの保存は困難やケン、解体処分にします。ただし、当初の姿ばそのままよう残しとる玄関部分は、保存状態もよかケン、移設保存ば検討します」ていうことらしか。

 旧駅本屋はネオ・バロック様式の駅舎としては九州最古のもんで、正面の車寄せには古代ギリシャ建築で用いられるエンタシス風の柱が立っとった。

 旧駅に隣接して出けあがっとる新直方駅ば使いやうするため、早う壊して駅前広場ば完成させたかとやろう。
 新駅の若っか駅員さんに「跡はどげんなるとぉ」て聞いたら、「バスターミナルと駐車場のでけるらしかですよ」ていいなった。

 「旧駅は日の出橋から大通りの真正面にあったっちゃケン、旧駅ば崩したとなら新駅ば真ん中さいズルズルッてズラしていけばよかといねえ」て云うたら、このオヤジ馬鹿かいなていう顔しとった。
上・右 何処にどげんして保存されるとか分からんバッテン、値打ちもんの玄関部分だけても残されるごとなったケン、よかったて思うとかないかん。
下・1番ホームからみた解体中の旧駅舎(左)と新駅舎(正面)

 新しか直方駅は2011年4月29日に完成した。

 駅舎は橋上駅舎になっとって、約900平方メートルある駅舎の1階には7店舗が入居。改札口など駅機能すべて2階にある。

 駅の外観は悪ういうたら瓦葺風「渋柿色の納骨堂」ていう感じ。地味でチャチなもんにしか見えん。

 JR九州いうたら、最近は車両だけじゃ無うてなんもかんも水戸岡鋭治さんにデザインば頼みよんなるバッテン、ハッキリいうて直方駅にはガッカリ。

「ふる里駅」の駅長やったら、旧駅舎の正面玄関ば利用して、古かバッテン、モダンな駅舎ば作ってやるとやった。

 新しかだけあって旧駅舎にはなかったエレベーターとエスカレーターが設置され、バリアフリーに対応しとる。

 旧駅舎の時にはJRと平成筑豊鉄道の駅が離れとって不便やったバッテン、新駅は平成筑豊鉄道の駅寄りに作られたケン、乗り換えが便利になっとる。

 以前ならあった東側の跨線橋は移設工事中で、西側には駅の線路ば全部跨いでいく新しか跨線橋がでけとった。

 西口の跨線橋から見た旧直方駅と新直方駅。旧直方駅の大きさがよう分かる。右の屋根は1番ホーム。


 直方市は直方駅土地区画整理事業として、駅周辺の大規模な区画整理ばしていく予定らしか。

 ついでバッテン、旧駅前ロータリーに1997年からあった「太陽と月と川と」ていうモニュメントは、駅前整備事業のために10メートルほど離れた交差点さい移転する予定。なお、かつて設置されとった「炭坑夫の像」は、遠賀川河川敷の「遠賀川水辺館」に追いやられとんなる。

上・新直方駅は橋上駅舎。
左・駅前は狭く駐車はせいぜい6台まで。奥に見えとる三角が旧駅舎の屋根で、右の黄色い壁は交番。やがてどちらも撤去されて広くなるやろう。

下・橋上駅の通路と改札口と階段。
下の下・西口の跨線橋、直方駅構内の線路全部ば跨いどる。

場所・福岡県直方市大字山部。九州自動車道ば八幡ICで下り、そのまま国道200号バイパスば約2km南下する。左にイオンモール直方が見えたら、その先でバイパスば出て右折県道28号線ば西へ2.5kmで、遠賀川に架かっとる日の出大橋ば渡る。直進400mで駅に突き当たる。       取材日 2010.01.26/2010.02.20/2011.09.08

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