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 ステンショ物語 (その42)   汽車が走り出した明治の頃             
                       駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。
 
ホームが上りと下りで、とつけむのう離れとる
 日豊本線                 

 国東半島の付け根に標高147mの峠がある。いま、国道10号線の立石峠は、なだらかな坂になっとるケン、車で走ればたいして苦にはならんバッテン、むかしの立石峠は交通の難所やった。豊後の国の北の出入り口やケン、通らんわけにはいかず旅人は難儀しよったていう。

 明治43年(1910) 国がこの峠の堀割に線路ば通し、翌年大分まで開業した時には、もちろん蒸気機関車やったケン、この急勾配の峠は、日豊本線(当時は豊州本線)最大の難所やった。

 大分行きの列車は、宇佐駅で車輌の前後に補機(補助機関車)ば連結して、前引き後押しでやっとかっと越えよったていう。

 立石駅の構内が、山ん中の駅のくせにだだっ広かとは、ここで補助機関車ば外しよったけんタイ。

 そのために四つ小倉寄りの柳ヶ浦に機関区ば設けたり、宇佐駅も立石駅にも引き込み線ば増やしたりして転車台まであったていう。

 長大編成の貨物列車のときは、補機つけても登りきらんもんやケン、宇佐駅に半分ば残しといて峠ば越え、立石駅から機関車だけ残りの半分ば取りに後戻りしよったていう、いま考えたらバカのごたあ話の残っとる。


立石駅構内。左がむかしからの線路で右が複線化ででけた線路。

立石駅の長か跨線橋。右が駅舎。真ん中が上り線のホーム。左端が下り線。

 「これじゃあ能率の悪かバイ」いうことで、西屋敷〜立石間の複線化が計画され、でけたとが峠のどてっ腹ば通した「新立石トンネル」やった。
 始めてここい線路ば敷いてから50年後の、昭和41年(1966)やった。そして即、翌年には電化された。

 なし「新」の付いとるとかていえば、当初の路線にも峠のてっぺん付近に310mの立石トンネルいうとがあったけんタイ。「新」のほうはその10倍で3560mもある。

 宇佐からのほうが勾配がきつうて苦労しよったケン、新トンネルは下り線に使い、上り線も掘下げ工事ばして、傾斜ば緩うしたケン、今では電化されたこともあって、立石峠越えは「なぁーんちゃナカ」区間になっとる。

上・下り線ホームの先端は、国道の下ばくぐってトンネルに入るため下がっとる。下・シーガイヤ通過。

上・上りのホームを特急シーガイヤが走り抜けた。
下・下り線の島式ホームは3番(右)だけ使用。

 ホームは島式2面2線やけど、下り線のほうはトンネルの関係で先端がカーブし、上り線とは50mも離れたとこにある。長か跨線橋で繋がってはおるバッテン、下り列車に乗る年寄りは、余裕持って来とかな、階段上ったり降りたり、長ぁか跨線橋ば渡るとに時間がかかって乗り遅れてしまう怖れがある。

 このことが、九州でホームとホームが一番離れとる駅として
「駅テツ(駅マニアの鉄道ファン)」の間では変に有名かとゲナ。

 開業時(明治43年)の駅舎は、昭和40年(1965)に建て替えられとって、いまは鉄骨コンクリート造り。賑あうとった頃は、駅長室や事務室、乗務員詰所もある大きな駅やったけど、現在では無人駅。

 一日の平均利用者は2006年で41人やったゲナ。

上・いまの1番ホームと駅舎の間にもう1本線路の跡。
下・待合室は地元の保育園やら小学校の子ども達が描いた絵で埋まっとる。

上・真っ暗な山の中の駅やケン、蛍光灯入りの駅名標。
下・駅舎の横には、大きか銀杏の木の下に木製のテーブルと椅子の洒落た休憩デッキがある。

 日本一古か
 「沈み橋」
龍頭橋

 立石駅の次の駅・中山香から800mばかり八坂川ば遡ったところに、日本最古の石造沈下橋(沈み橋)ていわれとる龍頭橋(りゅうずばし)が残っとる。明治45年(1912)にでけたもんゲナ。

 橋長61.5m、橋幅3.0m。径間が11もあるこの沈下橋は、2007年に社団法人土木学会によって、日本最古と評価され、土木学会選奨土木遺産に認定された。

 もともと、日本最古の沈下橋は昭和10年(1935) 四万十川に架けられた一斗俵橋ていわれとったバッテン、近年の調査で大分県内に沈下橋がいっぱい(180も)残っとって、中には明治や大正時代に架けられたもんもあるらしかことが分かってきた。

 それでよう調査してみたところが、明治9年(1876) 八坂川に架けられた永世橋(ながせばし)いうとが日本最古の沈下橋て分かったとタイ。

 この橋は龍頭橋よりも下流に架かっとったっちゃが、せっかく、いちばん古かて分かった途端、2004年の台風21号の大雨による増水で流がされてしもうた。

 そやケンいまでは、明治45年(1912)にでけたこの龍頭橋が、現存する日本最古の石造り沈下橋てされとるとタイ。

 学術的には「沈下橋」バッテン、九州のもんは「沈み橋」いてう。

 大雨で川が増水したときは、水の中に沈んで耐え、水が引いたら「なんごともなかった」ようにまた役目ば果たす。

 他所では、潜り橋・冠水橋・潜水橋・潜没橋・潜流橋ても云いよるバッテン、言葉のひびきとしては「沈み橋」がいちばんヨカ。

 大分県に沈み橋が多か理由としては、
1、財政難でちゃんとした橋ば造りきらんやった。
2、優秀な豊後石工がおった。
3、阿蘇大噴火による火砕流堆積物のため、河床と農地との高低差が少なく、沈み橋ば造る条件が整うとった。
・・・こなどが考えられる。

上・橋の側にあった記念碑
左・駅長の軽自動車で渡ってみたバッテン、しっかりしたもんやった。幅も中型トラックやったら通れるくらいあった。
 

 また、大分県内には、大正13年(1924)安岐川に架けられた高原橋(国東市安岐町)、大正14年(1925)山国川支流の屋形川に架けられた神迎橋(中津市本耶馬渓町)が残っとって、これらは龍頭橋に次いで、日本で2番目、3番目に古か沈み橋ていわれとる。

 と、ここまでは土木学会ば信用して、見に行ったとバッテン、写真撮しよって通りがかった土地のジイさんに「これは日本一古か明治の橋げなですなあ」て聞いたら、「いんにゃ こらあ戦後に村人が総出で造った橋タイ。オレも加勢したけん間違いはなか」て云いなった。

 学者の調査ば信用するか。地元の証言ば取るか。いま頭の中はゴチャゴチャになっとる。

場所・大分県杵築市山香町大字立石字乙丸。福岡から大分自動車道ば日出JCTで左折して、速見から日出バイパスば10km弱「日出出口」まで走る。国道10号線に出たら左折して約20km北上する。途中ハーモニーランド、赤松峠ば越す。竜ケ尾の信号で左折して日豊本線の踏切ば越したら道なりに600mで右側。駅前は広かケン、大威張りで駐車でける。
                      取材日 2010.02.04


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