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 ステンショ物語 (その43)    汽車が走り出した明治の頃                 
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。

ゼムピンのごとねじ曲げられた久大本線
 久大本線                

 古か駅舎の無人の改札ば抜けて、ホームから右ば振り向いたら、そこには由布岳が端正な姿で立っとった。

 由布岳にはこげな話が伝わっとる。
 おおむかし、イケメンの由布岳と野性的な祖母山がクサ「美しか別府の鶴見岳ば嫁にしたか」いうて争うたとゲナ。

 両方とも鶴見岳の気ば惹こうて、一生懸命にアタックしたとげなバッテン、鶴見岳は格好の良か由布岳にOKのサインば出した。

 そやケン、由布岳はいまでも鶴見岳のそばに寄り添うとるとゲナ。

 フラれた祖母山はどげんしたかていうたら、悲しみの涙で志高湖は造って、遠く、直線で50kmも離れた南の方さいトボトボと去ったていう。

 由布岳は南から見るとがいちばん。向かうて左が西峰で右が東峰。真ん中の凹んとるとこば二又(またえ)ていう。

 もっとも大湯線としては、湯布院に駅ば作る予定ではおらず、湯平から水分峠の南ば回って真っ直ぐ「野矢(のや)」さい線路ば敷くはずやった。

 ところがクサ、これば知った北由布村のもんが「こっちさい線路ば敷け」いうて村長先頭に猛運動ば起こし、とうとう湯平から北へ線路ばこき曲げてしもうた。

 地図みたら分かるバッテン、ほんなことい、ここはヘヤピンていうよりゼムクリップのごと曲げられとる。

 地元の力ていえば、そうバッテン、かなり強引に働きかけたて思われる。

 しかし、それが今になってみれば湯布院の繁栄に繋がっとるっちゃケン、世の中なんが幸するか分からんもんタイ。

 この南由布駅もその時にでけた駅で、野矢さいまっすぐ繋がっとれば無かった駅ていうことになる。

 ナシ南由布駅かていうと、当時ねじ曲げて作った駅が「北由布駅(これが今の由布院駅)」でその南に作ったけんやった。由布院駅まではたったの3.4kmしか離れとらん。


上、由布院からの下り大分行きが着いた。
下・大分行きがガソリン臭さか屁こいて発車して行った。次の湯平までは7.1km。

 駅舎は当時のが残り、そのなかに自動券売機がある。自動券売機いうても切符に磁気記録はされとらんケン、降りるとき自動改札機ば利用することは出来ん。

 ホームは相対式2面2線。もちろん昼も夜も無人駅。トロッコ列車の「TORO-Q」が走りよったケン、1番のりばに折り返し設備が設けられとったバッテン、2009年で「TORO-Q」はしまえた。
 2006年のデータで、この駅の乗車人員は、1日に平均で117人やった。


  南由布駅の筋向う200mぐらいの所に古か寺がある。
  山号ば東益山、寺号ば
西蓮寺ていい、浄土真宗本願寺派の寺ていう。

上・おばちゃんが野菜乗せた車ば押して、ゆうゆうとホームば通って行きなった。こののどかさが実によか。

上・本堂わきの藤はみごと。 下・本堂の天井絵。

 九州ば横断しとる鉄道いうたら、久大本線と豊肥本線の2本しかない。本来ならもう1本、熊本から高森〜高千穂ば通って延岡への線が造られよったとバッテン、高森トンネルば掘りよって大出水にあうたもんやケン、中止になってしもうた。

 久大本線いうたら、
留米と分ば結んどるケンやけど、初めからそげな大きな構想があった訳じゃなかった。
 大分の
大湯鉄道(だいとうてつどう)ていう会社が、大正4年(1915)から東へちょこちょこ伸ばして行きよったとば、大正11年(1922)に国鉄が買収して、湯平まで大湯線として走らせよったっタイ。
 国有化された大湯線は、さらに東へ延びて昭和8年(1933)には天ヶ瀬まで行けるごとなった。

 久留米のほうは、明治36年(1905) 吉井町と田主丸の間に
筑後馬車鉄道いうとが営業開始して、翌年には馬の代わりに石油発動車(いまでいうたらディーゼルカー)いうとば使い出して善導寺まで延ばし、明治39年(1906)には久留米駅まで乗り入れて、社名も筑後軌道になっとった。

 国鉄は久留米〜吉井間に線路ば敷いて昭和3年(1928)に開業。競合する筑後軌道は国から補償ば受けて撤退した。
 昭和9年(1934)には日田から天ヶ瀬まで延ばして大湯線と繋ぎ、大湯線ば編入したら「久」と「大」がつながって久大本線がでけたていう訳。

 そやケン、この
南由布駅(みなみゆふ)も、初めは大湯線の駅として大正14年(1925)の開業ていう古か歴史ば持っとるとタイ


  南由布駅の前ばこんどは東へ700mぐらい行くと
  国指定重要文化財(建造物)の
旧日野医院いうとがある。

一階の診察室。診療器具もちゃーんと残っとる。     玄関車寄せの飾りも当時としては超モダンやった。

 この建物は明治27年(1894)に、江戸時代から続く名門の医者やった日野医家3代目の日野要(ひのかなめ)によって建てられたものゲナ。

 洋風ば真似た本館と和風の病棟が揃うて残っとるとは、全国的にも珍しかケンいうことで、平成11年に国指定重要文化財に指定されとる訳アリの建てもんタイ。

 
日野医家いうたら、初代の邦次(くにつぐ)いう人が、文化14年(1817)にここで医者ば始めなったとのごたる。

 この建物ば造った要さんは、大分県立医学校ば卒業して、全国の病院で研究し、北里柴三郎について細菌学も勉強しなった人ていう。

 旧日野医院の建築費は、なんと当時の金で2万円。大工の日当が54銭やった頃の2万円やケン、明治時代の個人病院の建築費としては破格の費用やったらしか。

 ま、それだけ医者は昔から儲かりよったいう証拠のごたる建てもんタイ。

 昭和53年頃まで診療所として用いられ、平成4年10月から3年がかりの保存修理ばして、いまは資料館として公開されとる。

 創建は慶長11年(1606)ていうケン、400年近い歴史がある。

 本堂の横に藤棚があって、4月末から5月上旬にかけて、樹齢300年のフジが咲くのと、本堂の天井絵が有名でクサ、訪れる人が多か。仰向けに寝転んで眺められるごと、枕がちゃーんと用意されとる。

 ここのフジは樹高3m、幹周り(5本分で)280m、枝周りは13mほどもあって、見事な花すだれが下がる。由布市の記念物に指定されとるとゲナ。

 昭和48年に和尚さんがクサ、近くの山でエビネランの一群ば見つけ、境内に植えたとが始まりで、それ以来株分けしたり、
地元の人々が持ち寄ったりして増やしてきたていう。いまでは「えびねらんの寺」として有名になった。

 境内に咲くエビネランの数はおよそ2万株。花の最盛期には、エビネランの芳香が境内に流れて、その香りで境内は文字通り「浄土の楽園」ていう雰囲気になる。

 西蓮寺は南由布駅から歩いて5分。200段ばかりの石段ば登らないかんバッテン、山の中腹の杉の木に囲まれた閑静な場所にある。

 足の弱かもんは、石段横に細か車道もあるケン、本堂横までズルすれば車でも行ける。

 本館は 木造2階建、寄棟造(よせむねづくり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)で、延べ面積が240平方メートル。県内に現存する洋風建築では最も古かていわれとる。

 洋風らしか外観の玄関ポーチは、柱頭に龍の彫り物ば入れ、欄間(らんま)の輪郭ばアーチに見せる。棟木の墨書(むなぎのぼくしょ)に別府浜脇佐藤平吉とあるケン、別府の職人による設計やったごたる。

 病棟は、土塗り真壁造りの和風建物で、木造2階建一部平屋建。延べ面積 237平方メートル。
 これも病院が開業した明治32年までには建てられとったて考えられとる。

 工事期間は木材の調達を含めて約6年、従事した人員は棟木墨書に42人の名前が書いてあるていう。

場所・大分県由布市湯布院町中川。久大本線に乗って由布院の次で降りればよか。て云うと簡単バッテン、そげな無責任なことば云いよったらクラさるう。しかも南由布には特急は1本も止まらん。
 大分自動車道ば湯布院ICで降りたら右折して国道210号線ぱ約2.5km走ると、右カーブに信号がある。左折してすぐ橋ば渡り、100m
ちょいで久大本線の踏切。越せば200mで左に南由布駅。 取材日 2008.9.11/2009.12.20

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