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せっせこ、せっせこ、石炭ば運んだ「伊田線」




    昭和29年(1954)から直方駅前のロータリーにおって
  人気もんやったっちゃが、平成8年、駅前ロータリーの改修で、
  市民に惜しまれながら、ここ
遠賀川水辺館の庭に移設された。
  
「坑夫像・炭掘る戦士」


 筑豊の鉄道ば語るとき石炭ばのけては話にならん。炭坑がでけて石炭が出たら、すぐそこい路線がでけよったいう感じ。いま平成筑豊鉄道がJ Rから引き継いで走らせよる「伊田線」もそうタイ。
 筑豊炭田の石炭ば若松港に運ぶため、
筑豊興業鉄道が若松〜直方ば開業させたとが明治24年(1891)で、その2年後の明治26年(1893)には、もう直方から金田間さい延ばし、明治32年(1899)には田川まで延ばして全通させた。
 なし伊田線か ?  直方ば起点に田川の伊田
(いまの田川伊田駅)までやったけんタイ。人が乗るとはあんまりアテにしとらん路線やったケン、途中の駅は炭坑のある中泉・赤池・金田。たったの三つだけやった。
                                         取材日 2009.12.2

遠賀川に架かる2本の「嘉麻川橋梁」

 炭坑がでけたら路線がでけた
 鉄道がでけたお陰で、川ば五平太船(かわひらた)で運びよった石炭がクサ、ダイレクトに若松港まで出せるごとなったケン、そらあ重宝がられた。

 石炭車のセラやセムば長々とつないで、キューロクがピストン運転しよったていう。
 (セラ・セムは九州で使われた石炭車の記号。セムの1号機は 直方石炭記念館 に保存されとる)

 出炭量が増えるにつれ列車の本数も多くなり、線路の容量が不足するごとなったもんやケン、明治43年(1910)には直方〜金田間が、翌年には直方〜伊田間が複線化された。

 たった16kmの線で全部が複線いうとも珍しかバッテン、それだけピストン運転で石炭ば運びよった証拠タイ。

 ところが石炭がしまえたらコッケンコロリ。赤字こきだして第3次廃止対象特定地方交通線になり、整理されて三セクになってしもうた。

 今回は、その伊田線ば訪ねての旅に出てんまっしょう。

 路線図は赤線が今回走ったところで、青線は次回に走るところ。

 伊田線は直方から始まっとる
 
なんちゅうたっちゃ筑豊の鉄道の拠点は直方。

 明治24年(1891)に筑豊興業鉄道が直方〜若松間開業したと同時に機関庫が開設された。明治39年(1907) 鉄道国有化で国鉄の直方機関庫になったていう古か歴史ば持つ。

 いまここにおるとは電車バッテン、当時は昼夜関係なしに蒸気機関車がひしめいとって、晴れの日でも煙で空が曇っとった。

 
いまの伊田線は右端のビルの横から発着する。

 伊田線の始発は駅の端っこ
 直方駅の広か構内は、JR九州が島式ホーム2面4線ば使い、平成筑豊鉄道の伊田線は、隅っこば間借りしたごと、片面が頭端式(突き当たり)の1面2線ば使いよる。

 2006年度の1日平均乗降客は1,830人やった。

 発車待ちの「ちくまる400型なのはな号」
 

 伊田線のキロポストはここにイタ
 頭端式ホームに立つと目の前に「平成筑豊鉄道・伊田線起点」て書いた棒杭が立っとる。

 これが伊田線のゼロキロポストいうて、ここば基準に各駅までの距離と運賃が決まる。

 田川伊田まで16.2kmが、伊田線の営業キロいうことになっとるとタイ。

 ちくまる君発車しまぁす
 ダイヤは朝5時半から、夜11時前まで、1時間平均して2本。1日上下合わせて72本の列車が走っとる。

 田川伊田までの旅に「ちくまるグリーン号」が発車していく。

 間借りいうたらいかん。堂々始発駅。
 平成筑豊鉄道の直方駅は、J R 直方駅の南の端、跨線橋の下にある。

 なんの愛想もなか駅で、切符売りの窓口がひとつと、せまんか(狭い)待合室があるだけ。自販機だけがヤケに並んどる。

 
ホームにスレートの待合所がポツンとあるだけ。

 

 直方藩の館(やかた)の入口があった
 直方駅ば発車したちくまる君は、1kmと100m走っただけで南直方御殿口へ着いてしまう。

 西に市立体育館のある丘があって、ここに黒田の支藩やった直方藩の「館」があったケン、このあたりば御殿口ていうた。

 なし直方いうとか。
 黒田の殿様が館がでけたとき家来達ば集めていうた。「おのおのがた、藩名が寺の名前ではいかん。(それまでは東蓮寺藩ていいよった) なんかよか名前はなかか。おのおのがた」で「のうがた」になった。ーーこれは駅長一流のジョーク。

 館があったケン、御館(おたち)山
 元禄元年(1688)黒田長清が直方藩主となって領地も5万石になったケン、妙見山ていいよったとこに館ば造った。館がでけたケン、御館山ていうごとなった。

 黒田の支藩やから、一国一城令で城は造られんやったケン、館で我慢したとやろう。

 館の跡は、いま市立体育館のある丘で「多賀公園」ていう。立派な石碑はあるバッテン、遺跡らしきもんはなぁーも残っとらんやった。
 

 御殿口のお地蔵さん
 
堀ば境に侍町と商工人の町が別れとって、侍町の入口にあったケン、御殿口のお地蔵さんて呼ばれとった。

 御殿口駅の西側一帯ば、当時は「御門前町」て呼びよったとも、ここが御殿の表門やった証。

 地域の人の信仰は今でも続いとって、掃除もよう行き届きキレイに残っとる。

 長崎街道
 
線路に沿うての道は昔の長崎街道で、いまでも古か家が残り、独特の雰囲気がある。

 駅舎はなかバッテン、ホームの待合は街道の雰囲気ば表現しょうて努力したあとが見える。

 列車ば撮そうて待っとったら、2001年12月から走り出したばっかりの「炭都物語号」が来た。

 黒ダイヤて呼ばれた石炭の黒ばベースにした車体には、かつての筑豊風景がラッピングされとった。

 車内には炭鉱労働者の生活ば描いた山本作兵衛の絵のレプリカも展示されとる。

 これで「月が出た出たぁ 月がぁ出たぁ ヨイヨイ」て唄うて走ればなお面白かろう。

「嘉麻川橋梁」はテツチャンが喜ぶ撮影スポット

福智山ばバックに嘉麻川橋梁で「なのはな号」がすれ違う

 遠賀川に架ける橋
 南直方御殿口ば出た列車は、やがて筑豊本線と別れて左へカーブ。遠賀川ば東へ渡る。

 ここに2本並んで架かっとる鉄橋が「嘉麻川橋梁」遠賀川に架かっとるとい、なし嘉麻川橋梁か ?

 下流の植木〜中間間に遠賀川橋梁いうとが先にでけとったけんタイ。
 遠賀川の上流ば嘉麻川ていう。
 

 この古かトラスの鉄橋、専門的には上路プレートガーターていう形式ゲナ。

 設計はCooper,Schneider1898。
 製作者はPatent shaft & Axletree。
 製作年は1907て上り線の銘板で読めた。

 1907年(明治40)いうたら、伊田線が複線化されたとが明治44年やケン、上り線の橋梁の方が後からでけたていうことになる。

 橋脚は上り線が全部煉瓦で、下り線には切石も使うてあった。

 「浪漫号」が来た
 たった16kmの路線が複線いうとも少なかうえに、三セクになっても複線のままで運行しよる例は全国でも珍しかとゲナ。


左・古か方の下り線鉄橋ば、ヘイチクご自慢の「浪漫号」が渡ってきた。

下・
マルーンにゴールドのラインばデザインされた「浪漫号」の外装はとてもお洒落。

あかぢ駅からは福智山山系が美しか

 赤字はイヤやケン「あかぢ」
 あかぢ駅は、平成2年(1990)に「あか駅」として開業した。 漢字で書いたら「赤」てなるとバッテン、同じ伊田線のなかに「赤駅」があるもんやケン、ひらがなで「あかじ駅」にした。

 バッテン「あかじ」じゃあ赤字ば想像するケン、2001年に「あか駅」に名前ば変えた。

 2面2線の相対式ホームが吹きざらしの無人駅で、駅舎なんて洒落たもんはなか。

 塙団右衛門が石ばどかした 
 あかぢの駅から、小さな道路ば部落の方に歩いて約300m、大きな銀杏が2、3本枝ば張っとる下に小さなお堂がふたつと、大きな石がひとつある。

 このあたりは当時の長崎街道の一部で、あるとき、たまたまここば通りかかった武士が、街道に横たわっとる巨石がクサ、往来の邪魔になって困っとるていうことば村人から聞いて・・・。

 その武士は早速、その巨石ばクサ、てんてらやぁすう(博多弁・いとも簡単に)持ち上げて地蔵堂のそばに移してから立ち去ったていう。

 あとになって、この武士が強力で名高い豊臣の武将・塙団右衛門(ばんたんえもん)やったことがわかって村人たちはビックリ。

 それから、この石ば
団右衛門石または塙石呼ぶごとなったゲナ。

 
地蔵堂の側に「小竹」のバス停がある。

 祈ったらタイソーな霊験があった
 地蔵堂のちょっと先から部落の坂ば上っていったら、太祖神社(たいそ)いう古か神社がある。

 祭神は伊弉諾・伊弉冉(イザナギ・イザナミ)

 おおむかし、部落に疫病が流行ったとき、太祖山の樟が光っとるとば見つけて、鉾やら弓ば捧げて祈ったところが霊験があったていう。

 村人達によって康応元年(1389)に神社が創建され、以後づっと大切に守り伝えられとる。

 岩見重太郎の狒々退治
 慶長4年(1599) 筑前名島城の城主・小早川隆景の家臣やった岩見重太郎がクサ、諸国修行の途中で太祖神社に参詣したところ、村人達から大狒々(ヒヒ)の話ば耳にする。

 化け物狒々が暴れんごと、毎年、娘ば人身御供に捧げよるて知った重太郎、娘の身代わりに化けて狒々ばおびきよせ見事に退治。村人の難儀ば救うたていう。

 村は退治された狒々の血で真っ赤に染まったケン
「赤地」で、流れた血が池になったケン隣村が「赤池」 

 住所は下境云うとに、藤棚とは ?
 あかぢ駅から1.2キロ。直方からは約6分。新興地の住民が要望して造られた駅で、平成2年に開業した。

 勿論、駅舎なんてなか無人の駅で、上りと下りではホームへ上がる入口が違う。

 住民の足として、2006年は1日平均で約300人が利用したていう。

 なし藤棚(ふじたな)なのかは分からん。走ってきた車両は「なのはな号」やった。












 東300mに200号バイパスが走り、陸橋くぐれば中泉駅。福智山がスッキリと見えた。

 床屋さんのある駅
 
伊田線がでけてすぐの明治30年(1897)からあった駅で、初めは石炭運搬の拠点駅のひとつで栄えとったバッテン、いまは寂れとる。

 
当時からの駅舎ばそそくって、理容店「おしゃれステーションふじた」が営業中。
 

 簡素な駅舎は多分開業当時からのもんやろう。もともとが石炭積み出しが目的の駅やケン、改札出て目の前に広がるヤードばかりがやけに目立つ。

 明治31年(1898) こっから日焼駅への貨物支線が開業し、昭和5年(1930)には大城第一駅への貨物支線が開業して石炭で賑おうとった。

 
当時、中線やら引っ込み線のあった広かった構内は、いま、雑草に覆われて見る影もなか。

 
駅の周辺も水田が広がる農村地帯になって、すでに炭鉱地帯やった面影はほとんどなし。

 ホームの古か待合に
   「浪漫号」がよう似合う

 上りの直方行きホームには、駅舎とどっちが古かろか、ていうぐらい古か待合室が残っとって、丁度レトロな車両の「浪漫号」が入線してきた。

 跨線橋もあって、いかにも「日本の駅」ていう絵にはなったとバッテン、降りる人も乗っていく人もおらんやった。

 下りの到着列車は子どもたちに人気の「ちくまるブルー号」
 2001年3月に入った新車両は派手派手で、いっぺんに駅の空気が明るうなった。

 これにも乗る人はなかったバッテン、ひとつ前の藤棚駅からはたったの700mしか離れとらんとやもん。乗っても1分タイ。

岡森堰

 彦山川のお守り役「岡森堰」
 中泉の駅から東へ300mばっかり行くと県道22号線の岡森橋西ていう信号がある。その岡森橋の上流100mにあるとが岡森堰。

 暴れもんの彦山川ば、なだめるとい感田村(がんだ)の大庄屋・渡辺善吉が郡奉行島井市太夫の助力で、明和9年(1772)に完成させた灌漑用の井関タイ。直方藩の大事業やった所。

 もう200年以上も昔の話バッテン、この堰が潤す地区は鞍手郡から北九州まで広か。

 今では昭和58年改築の近代的な井関が、彦山川ば上手にコントロールしとるごたる。

 市場駅は田圃の中にポツン
 
市場なんていうケン、降りたら市場があるとかと思うたけど、まわりにはなぁーもなか。

 
駅の近くにイマイマの新築住宅がちょこっとかたまってあるだけ。

 駅はホームのスケルトン待合室(屋根と骨組みだけ)だけで、シンプルていえばシンプルやが、博多弁で云うと「愛想もこそもなか」

 平成2年に開業した。

 夜は降りとうはなか駅。ただひとつよかとは、なぁーもなかケン、福智山の見晴らしがよかこと。

 ついでバッテン「市場」ていう名の駅は、JR加古川線・神戸電鉄粟生線にもあって、ほかにも鶴見市場・十日市場・南部市場・西武市場などがある。

 地下鉄大江戸線の築地市場は、「いちば」じゃのうて「つきじしじょう」ていう。

 そういえば、なし平成筑豊鉄道ていうとか。それはねぇ、JRから引き継いだとが平成元年やったけんタイ。愛称は「へいちく」

市場があるとかと思うたら、福智山の景色があった

  伊田線の駅
 直方〜南直方御殿口〜あかぢ〜藤棚〜中泉〜市場〜ふれあい生力〜赤池〜人見〜金田〜上金田〜糒(ほしい)〜
田川市立病院〜下伊田〜田川伊田

●赤が今回走ったところ。青は次回のお楽しみ●

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