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其の九

右岸下流から見た現在の「恵利堰」 対岸は筑後で、カメラは筑前側に立っとる。


 「ちっごがわ」の歴史は「水との戦い」の歴史。それは今でも続いとるバッテン、特に17世紀から18世紀にかけて、流域の久留米藩・福岡藩では上手に農民やら庄屋たちばたきつけて堰ば作らせ、荒れ地に水ば引いて新田ばどんどん開発した。そうすりゃ年貢の収穫があがって藩の財政が潤うけんタイ。

 
それが「筑後川四堰」呼ばれとって、完成した順にいうと山田堰・大石堰・袋野堰・恵利堰(床島堰)

 下大庭村(いまの朝倉郡)の庄屋・古賀百工の山田堰のことは、前の号で書いた。5年の歳月ばかけて宝暦14年(1764)に完成させた堀川用水は、いまも筑後川右岸の田圃150ヘクタールば潤しとる。朝倉の三連水車がこの用水にある。

 浮羽郡内の夏梅村・清宗村・高田村・今竹村・菅村(全部いまの吉井町)ば束ねとった栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞、いわゆる「五庄屋」が、久留米藩の丹羽頼母の指導で造った大石堰は、左岸の500ヘクタールば豊な田畑に変えた。

 おんなじ浮羽郡の28村ば統括しとった大庄屋・田代弥三左衛門重栄は、長男の田代重仍とともに延宝4年(1676)袋野堰ば、自分の財産はたいて作り上げ、岩盤ばくり抜いて掘られた袋野用水は、いまも夜明けダムの下流の農地450ヘクタールば潤しとる。

 そして今回取りあげるとが、一番最後にでけた一番下流の恵利堰(えりぜき)タイ。
 いまの恵利堰は、床島堰と佐田堰もいっしょになって機能しとって、別々に呼ぶこともあるバッテン、ひっくるめて恵利堰ていうとが正しか。なし恵利堰ていうとか ?

 赤字が井堰で赤い線がその用水路。用水からさらに毛細血管のごたる水路が周辺の田畑に恵みの水ば配っとる。

 いまは久留米市に合併したバッテン、堰のある場所が両筑橋の下流約1km、
田主丸町の恵利にあるけんタイ。
 左岸の地名ば名乗っとるくせに、ここで取水した水は右岸の床島用水ば流れ、むかしの御井郡、いまの北野町・大刀洗町一帯ば灌漑しとる。

 空撮地図ば見て貰うとよう分かるけど、ここはむかし久留米藩と黒田藩の藩境で(右上の黒線)、それが堰の建設でややこしか問題ば引き起こす原因になった。
 そのことはちょっと置いといて、まず恵利堰がでけたときの話から始めろう。

 又六は、まず六右衛門にいうて古船ば集めさせ、手の空いたもんには俵ば編ませた。部落中の無縁仏の墓石も集めさせた。そうして、耳納の山から運こばせた数十万の石とともに、大石と小石に分けて、小石は俵につめて50万俵ば作らせた。

 正徳2年(1712)2月末日、3,500人の人夫ばぜーんぶ現場に狩りだし、数十隻のボロ船にこの石ば積み込んだ。
 船ば川の真ん中で転覆させてやっと堰の基礎ばつくることがでけた。あとは用意した大石と俵石ば1人々々が抱え1列になって川土手ば進み、次々川底に投げ込んだ。
 その光景ば見分しとった久留米藩国家老の有馬壹岐は「前代未聞の見物である」いうて誉めて帰ったゲナ。

 せき止められた大川の水が、掘った溝に勢いよく流れこんだ。そこまではなんとか上手くいった。
 床島から取り入れられた水は、途中で佐田川と交差してまっすぐ西の江戸村(現大刀洗町)へ流れる筈やったとバッテン、急いで掘った溝が貧弱やったもんやケン、漏水が激しかった。

 また28ヶ村以外の10ヶ村からも工事には苦役せんどいて「水ばうちにも分けてくんしゃい」ていう勝手な願いまであって、全村に行き渡らせるには水量が不足。水はなかなか水門のある江戸村まで届かんやった。

 この年も大雨が降って、床島村ば流れとる支流の桂川が氾濫した。村の田圃は水浸し。部落全員が出て川ばせき止め 流れば変えろうとしたバッテン、積んだ土嚢は流れの激しさにひとたまりもなく壊されてしまう有様。村のもんも、どげんしてよかかわからんで、頭ば抱え込んでアポーッてしとった。

 そん時、村では見たことのなか白髪の年寄りが通りかかった。
「そげなことで、川の流れが変えられるもんかい」 
 老人は独り言ばいうて川下の方さい消えていった。
「あんひとは誰の ? 」
「知らんバイ。見たことんなか」
「ほらほら そげんこたぁ どげでもよか。土嚢ば積まんの」
 伍作たちはムダと思われる作業ば、また雨に叩かれながら始めた。

 上流の三つの堰がでけて50年が経ったバッテン、その恩恵ば受けられん御井・御原両郡の農民たちは、依然として水の便が悪かとと、いったん大雨が降ったらすぐ洪水ば起こして暴れ回るチッゴガワに泣いとった。

 たまりかねた御井郡鏡村(今の北野町)の庄屋、高山六右衛門は村人の苦しみば救うため、筑後川ば堰き止めて、田に水ば引こうと決心し、八重亀村の秋山新左衛門・稲数村の中垣清右衛門・高島村の鹿毛甚左衛門とともに同郡28村庄屋の連名で「なんとかしてくれんの」いうて久留米藩に嘆願した。

 堰の計画では、恵利の瀬ばせき止め、そこから引き込んだ筑後川の水ば、西に2kmの溝ば掘って、江戸村(今の大刀洗町)から北野方面へ供給しようていう壮大なもんやった。

 藩はこの工事が無事完成したときの皮算用として、現在の田畑800町歩(800ha)に加え、新たに700町歩の新田がでける。米の増産は7000俵が見込まれるて喜んだ。

 バッテン、ケチな久留米藩は、それにかかる費用は藩が負担するっちゃのうて庄屋たちに貸すだけ。しかも人夫はすべて郡役(自前)が前提。農民ばタダで使おうていう訳タイ。

 まさに庄屋たちがいうて来るとば「待ってましたと」ばかりに、正徳2年(1712) OKば出した。

 土木技術に強か草野又六に普請奉行ば命じられて堰の建設は始まった。人夫は近くの村総出で3500人体勢やったていう。

 用水路ば掘る方は、畑仕事で慣れとるケン、順調に延ばしていった。

 ところが井堰の工事の場所は、川幅が広うて深かうえに急流で、むかしから「鬼ころし」てさえ云われとったところ。

 工事は言葉にできんほどの困難ばきわめた。普請奉行の草野又六は立場上焦りまくって連日農民の尻ば叩いて酷使する。

 バッテン、川には杭ば打って石ば入れても入れても流されて堰の基礎すらでけん。

写真は上から 両筑橋の下流約800mの左岸に残る「鬼ころし」の捨て石。平成3年の恵利堰改築の時、川の底から出土した。方々から集めた証拠にいろんな種類の石がある。

訪ねる人もなか「鬼ころし」には「水神」さんが堰ば見守るごと祀られとった。

草野の「発心公園」にある草野又六の記念碑
農民の養子やったとに、工事の功績で士分に取り立てられ、神としてまで祀られた。

 山の石は切り出してよかていう許可は藩から貰うとったバッテン、近くの山にはもう切り出す石も無うなってしもうた。

「自分は土木技術の天才」て思うとった自信も喪失してしもうて困り果て、疲れ果ててふて寝しとつた又六の枕ば蹴飛ばして、又六の母ちゃんが云うた。

「又六、おまえはそこでなんしとっとの!」
「川ばせき止める石がもう無かっタイ」
「馬鹿もん、何千人もの農民衆がおまえの下知ば待っちょるいうとに、ふて腐れとる段か」
「バッテン、水の流れが強うて石が・・・」
「又六よ、あれば見てみんの」

上・左岸から見たいまの恵利堰。昭和28年の西日本大水害以降に改築されて近代的な構造に変り、むかしの面影はまったく残っとらんていう。駅長もむかしの恵利堰は見たことがなかケン、なんとも云いようのナカ。
下左・恵利堰のすぐ上流に床島用水の取り込み口がある。杭とブイでいらんもんが入らんごとなっとった。
下右・取り込まれた水は昭和59年にでけた水門「床島用水樋管」で土手の下ば潜り、直角に曲がって西へ流れる。

 ようと考えたら善左衛門の早田村は筑後川の左岸やケン、直接床島水道の利益ば受ける訳じゃなかったとバッテン、善左衛門が中曽は自分の村の土地いうて説得したもんやケン、人質にされてしもうた訳タイ。

 そして、なんと約三か月の間長田村で監禁されて、毎日厳しう責めたてられたとゲナ。

 筑前側は無理やり詫び状ば書かせろうとしたそうやが、筑後側の利益のために善左衛門は頑張って絶対に応じんやったていう。

 このことについて久留米藩は、ほおったらかしでなぁーもせんやった。手ば出したら福岡藩とややこしゅうなるけんタイ。

左・バイパスに魚道まである恵利堰の今。向こうが上流で左手に床島用水のゲートが見える。

手前は右岸に設けられた魚道。善左衛門の早田村は対岸やった。

 又六が母の指先に目をやったら、そこには東西20kmにわたる耳納連山が、でんと居座っとるとが見えた。
「あの山が何かしたつかの?」
「まだわからんとか。おまえは今、筑後川ばせき止める石が無かて云うた。あの耳納の山はすべて石バイ。あの山ば削れば、たかが170間の川がなんの ? 」

 はたと気がついた又六、奮然と起ちあがったていう逸話が残っとる。

庄屋・高山六右衛門立ちあがる

 又六と庄屋たちは、正徳4年「なんとかせないかん」ていう改築計画ば実行に移した。水量ば確保するため堰の舟通しば閉めて、舟通しは新溝の起点から約800mのところに作り替えた。それでも足らん水量ば補うため途中の佐田川に杭ば打って水量ば上げ、この水も用水路に取り込んだ。

 そげな苦労ば重ねた挙げ句、恵利堰と2,4kmの用水路が完成し、周辺38ヶ村の畑にぜぇーんぶ灌漑用水が行き渡るごとなった。

 これで筑後川の右岸約2000haの田が潤い(現在は3000ha)、久留米藩は幕府に対して得意満々「2年間で新田1万石ば開発」て報告した。しかも藩は井堰ば守るために井堰番ば置き、鉄砲隊までも配備しとったていう。

 と、こう書けばなんごとなしに恵利堰の改築でけたごたるバッテン、こんとき福岡藩と久留米藩の間でたいへんなモメごとが起こっとる。

 水量ば増やすために又六は、まず恵利堰の船通しば閉めた。筑後川の水全部ば新しか溝に流し込むためやった。船通しは、恵利堰の新しい溝の出発点から下流へ800mのところにある中曽(中洲)ば掘ってつなぐ計画やった。

 しかし、この中曽いうとは筑後川と新溝との間にはさまれた半島形の土地で、当時竹野郡早田村の領分やったとバッテン、筑前領の長田村にも一部が食い込んどった。しかも長い間荒れたままほったらかされとったもんやケン、その境界が久留米藩のものか福岡藩のものなのかよう分からんやった。

ほんとの恩人は丸林善左衛門

 川の水は広く筑後平野の田んぼに流れ出すようになった。これ以来280年間、一度も日照りの害ば受けずに、毎年米がいっぱい取れるようになった。農民たちは豊年ば祝い、暮らしもうんと楽になっていった。

 工事完了後、その恩恵ば受けた灌漑地域は、38か村、今で云うと北野町のほぼ全域、大刀洗町の大部分、久留米市宮ノ陣地区のほぼ全域、小郡市の一部にまで及んどる。

 
これも、五庄屋はじめ当時の農民たちの尊い犠牲のたまものとしかいいようのなか。
 この工事で、鏡村庄屋六右衛門の力が抜群やったケン、正徳三年秋、有馬藩は又六ば通じて米石ば贈ろうとしたっちゃが、六右衛門は断わって受けんやったていう。

 大正14年(1925) 関係住民は、草野又六と五庄屋(高山六右衛門・秋山新左衛門・鹿毛甚右衛門・中垣清右衛門・丸林善左衛門)ば天神様として水神と大堰神社に合わせ祀った。

 現在の恵利堰は、昭和28年の西日本大水害で壊されたもんば、昭和40年3月に国の事業として復旧したもんで、魚道まで備えた可動堰として立派に稼働(ここまたキャグ)しとる。

五庄屋祀る

大堰神社

 こうしてみると筑後川四堰は、村人のことば思う庄屋主導の利水事業で、その根底には困窮する農民を救うという思想があったて見える。丸林善左衛門のごたる命がけの行動は感動的でさえある。現在に至るまで流域の農業に多大な恩恵を与えとるとも事実。

 
バッテン、駅長には、どうも久留米藩(官僚)の農民ば利用した政略・戦略のずるがしこさがちらついてならん。

 また筑後川の恩人て云われ、神にまでなって称えられた草野又六の功績も、農民の目から見たら、自分の出世目当てに庄屋ば手先に使うて、タダで農民ば酷使した憎い奴てなる。

 その証拠に大善寺町には「木六竹八茅(カヤ)九月、 草野又六ぁ今が切っ時」ていうザレ唄が伝わっとる。こら相当に恨まれとった証拠タイ。
 いつの世もこき使われて、巻き上げられていちばん分の悪かとは一般大衆ていう相場は「不変」のごたる。

 西鉄甘木線「大堰駅」の近く小石原川の土手にある「大堰神社」 むかしは村の天満宮やったとバッテン、上に書いたごと地元の人達が四庄屋と草野又六ば神として合祀した。

 ところが後になって隠れとった善左衛門の行為が公になったもんやケン、追加していっしょに祀られた。

境内は恵利堰関係の「碑」だらけ。
その中に混じって庄屋さんたちの親族・縁者・子孫が建立寄進したもんもある。

上左・中垣清右衛門の鳥居
上右・高山六右衛門の灯篭
右・秋山新左衛門の狛犬など

 いずれも従五位(じゅごい)の階級ば国からも貰うとんなるとが分かる。

     おさよちゃんの人柱

 それから3ヶ月。どけんひどか雨が降っても、積まれた土嚢はびくともせず、田んぼが水に浸かることも無うなった。
「これもなあ みんなおさよちゃんのお陰タイ」
 村人達は伝助とお春の悲しみも忘れて、喜びあうとった。

「おーい おさよちゃんの遺体が見つかったバイ」川下からおらび声がした。
 伝助とお春ば先頭にみんなが走り出した。川下の流木におさよの俵が引っかかっとった。なかから出て来たとはおさよの冷たか遺体。
 伝助とお春はおさよの遺体にしがみついて、狂うたごと泣き出した。村のみんなも声すすり上げて泣いた。

 ふと気がついたら、村人の後ろに例の白髪老人が立っとる。
 老人は母親からおさよの遺体ば抱きとって、「おお、おさよ。おまやぁ村中ば救うた賢か子タイ。こげなよか子ば神さまが見捨てる筈はなか」
 老人はおさよの屍ば撫でながら呟いた。すると、どうしたことかい、おさよの頬に赤味がさした。しっかり閉じられとった瞼がかすかに動いた。

「おさよが生きとるバイ!」
村人たちはみんなが飛び上がって喜んだ。
「父ちゃん、母ちゃん。あたし、生きとったとねぇ」
 おさよは低っか声で叫ぶと、そのままお春の胸にしがみついた。

「あっ 爺さんがおらんじゃんの」
 伝助はお礼ば云おうと、あたりば見回したバッテン、そこに白髪老人の姿は見えず、またも風のごと消えて無うなっとった。そしてそれ以降、二度とこの村で見ることはなかった。

 これは恵利堰ができる正徳2(1712)年以前の話やが、ほんの最近までこの地方では、横しまの肩当ば嫌う風習が残っとったていう。


 また、この手の話はワンパターンで、あっちこっちにある。
 川は違うバッテン、しょっちゅう暴れる矢部川支流の星野川ば鎮めるための「山ノ井堰」いうとば造るとい、庄屋が自ら人柱に立ったていう伝説があって、この主役の中島内蔵助ていう庄屋は、駅長の家内のご先祖さんにあたる。
 八女市山内の山ノ井公園には立派な内蔵助の碑があって、いまでも毎年感謝祭がもようされとるし、地元八女の劇団による「みずいろの風」ていう演劇にもなった。

 積んでも積んでも土嚢はまた水の勢いに負けて流されてしまう。

「人間の力じゃ到底自然には勝てん。こげん時は神様に頼らなタイ」いつの間に戻ってきたとか白髪老人は博多弁で独り言ば続けた。
「よこ縞の肩当てばしとる着物の娘ば、生きたまま川に投げ込めばよかと」ぶすっと云うて老人はまたさっさと、今度は川上のほうさい消えていった。

「こらあよかことば聞いた。伝助んとこのおさよちゃんがよこ縞の肩当てバイ」
「おさよちゃんに人柱ば頼むしかなかじゃんの」

 10歳になったばかりのおさよば人柱にすることが、あっという間に決まってしもうた。

 村人の頼みば聞いたおさよの父・伝助と女房のお春。当然のことながら
「そぎゃん無茶なことでくるもんかい」泣き狂うて断る。その押し問答ば聞いとったおさよ

「ウチが人柱に立とう。そうせな村ん人がみんな困るっちゃろう。断ったら父ちゃんも母ちゃんも村にはおられんじやんの。あたしが川に入りまっしょ」

 伝助とお春、そして村のもんも大声で泣いとるなか、おさよは白無垢の着物に着替えて、人柱ば入れる俵に入っていった。村の若もんから担がれた俵が濁流のなかに投げ込まれた。

 神となった普請奉行・草野又六

 しかしもともとが苦しんどる農民ば救うための工事ていうことが分かって、善左衛門は解放され、又六は総人夫一日に2,000人ば投入して、堰も完成。両岸の農民が対等の収穫ば挙げられるごとなった。

 バッテン、損こいたとは善左衛門タイ。拷問で重傷ば負わされたもんやケン、体が不自由になり、死期ば早めたていう。

又六たちは先に工事したが勝ちいうて、大急ぎで完成させようとした。
 長田村の住民は、又六の計画ば聞いてビックリ。恵利堰の船通しばふさいでしもうたら、長田村の土地は水びたしになり、畑ば耕すどころじゃなか。それどころか洪水の時はものすごい被害ば受けるいうて騒ぎ出した。
   
 しかし又六が強引に工事ば進めだしたもんやケン「中曽は筑前領じゃ」いうて工事の妨害行為ばしだした。
 ある日、人夫の中に筑前のもんが数十人がまぎれ込んどって、突然、石ば投げはじめた。

 又六たちも石ば投げ返したっちゃが、そのどさくさに、早田村(いまの田主丸町)の庄屋・丸林善左衛門が連れ去られてしもうた。

                   
久留米市草野の発心公園そばに
                   祀られとる草野又六の墓。
 

    むかし福岡藩下座郡(いまの朝倉市)の川は、全部藩境(黒い線)ば越えて久留米藩に流れ込んどった。
      この川尻ば堰で押さえられれば、下座郡は水浸しになるいうとが地図で分かっちゃんしゃい。

 恵利堰で取水されたチッゴガワの水は、床島用水ば通って西へ流れ、いまの大刀洗町・大堰神社(おおぜき)の先で南北の支流に分かれ、大刀洗・北野一帯ば潤した。赤っか線がそうタイ。

 これは近代的な工法で改築ば重ねた現在の状態バッテン、でけた当時も用水の経路はいまと同じやった。取水口から大堰神社まで、黄色の丸が四つ並んどるとは、右から桂川・佐田川・二又川・小石原川と用水路の立体交差しとるところ。道路の立体交差なら片いっぼうの道ば上げればよかバッテン、水の立体交差は片っぽうば掘り下げてサイホンの原理で川の下ば潜らせなならん。

 松岡家三代(九郎次・九平・九一郎)は、江戸後期から明治初期にかけ、利害の対立する藩の境ば越えて川の下にトンネルば掘り、水路ば横断させる大工事ばした庄屋一家で、水害に苦しんどった朝倉市南西部(蜷城・福田地区)の恩人て云われとる。

 筑前国「下座郡(いまの朝倉市)」と筑後国久留米藩の境は、筑後川の北側にあり、桂川とその支流長田川・佐田川・二又川・小石原川は、国境ば越えて筑後川に流れ込む。
 
 恵利堰と床島用水のでけたことで、筑後の三井・御原郡約1500haの灌漑には成功したバッテン、川尻ば塞がれた筑前の下座郡は、水が滞って稲作・畑作に大変な被害がでた。

 裏作の麦も大豆も菜種も育たず、いったん大雨で洪水になると、いつまでたっても水が引かんごとなった。

 湿田では牛馬で耕すことも、稲の刈り干しもでけん。村人は蓮根しか作られんごとなり、福岡藩も年貢ば免除したりして対応したとバッテン、国境越えた湿抜き工事まではしきらんやった。


国境ば越えて
排水工事に功績のあった松岡家三代

    大堰小学校の校歌には

  筑後の川を堰止めて 水道の水満々と
  黄金波打つ田園に 三千町歩の稔りあり

  朝日夕陽に照りはゆる 床島の堰しのびつつ
  進取の気性やしないつ いざや学ばんもろともに

  思えば遠き五庄屋の 功も高し耳納山
  万古ゆるがぬ心もて いざや努めんもろともに

「桂川・二又川」の二大排水工事によって、下座郡南部と三井郡東部の百数十年にわたる湿害の苦しみはほぼ解消し、肥沃な耕地に豊かな農作物が育つ環境がでけた。
 文政9年(1826)に現地ば視察した福岡藩10代藩主・黒田斉清(くろだ なりきよ)は、この工事ば成し遂げた九郎次ば士分に入てやろうとしたとバッテン、九郎次は固辞して受けんやった。代りに苗字帯刀ば許されたていう。

 松岡九平は九郎次の子で、父の後ば継いで長田村の庄屋になった。人柄は質朴で村民のために尽くし、地域の水利ば守った。筑後久留米藩領の床島で佐田川の底ば西に横断する「第二暗渠」に砂石が詰まって水が吐けんごとなったとき、両国ばなんべんも行ったり来たりして地道な交渉ば続け、文久元年(1861) 排水溝修理の工事ば完成させた。11代藩主・黒田長溥(ながひろ)はその労ば賞して俸米ば与えたていう。

 松岡九一郎は娘婿として松岡家に入り、九平の後ば継いで長田村の庄屋になった。この人も「長田川」の維持と改修に力ば注いだ。特に、佐田川ば潜る「第二暗渠」改修のとき、父・九平が水吐けが良うなると考え、長い暗渠にしたところ数年で砂が詰まり、後悔しよったことから、明治の改修で短く幅の広い暗渠にするていう改修工事ば実現した。

 この工事も事前交渉が簡単にはいかんやった。なしかいうたら、明治4年(1871)の廃藩置県で福岡藩は「福岡県」に、相手の三井郡は「三潴県」になったため、調整に手こずった。また、長田川堤防に筑後川への水抜きの自動開閉水門ば設け、排水ば強化したりもした。

 明治8年(1875)、県から松岡家三代の功績ば表彰され、明治15年(1882)には、長田村民が下長田の堤防に、松岡三代の功績と工事の事跡ば記念して大きな石碑「鑿渠碑(さっきょひ)」ば建てた。

 この碑は今も、新しゅう作られた「床島用水」の魚道やら「新桂川水門」ば見守るごと建っとる。

上下とも新桂川水門。上は河口側から。下は上流から撮影。取水口から取り込まれた床島用水は、まずこのあたりで桂川の下をくぐっていく。

 その頃 松岡九郎次(安貞)は下座郡長田村の庄屋やった。 
 江戸時代は、集落ごとに庄屋ていわれた村役人が藩から任命されて、年貢の取り立て、村人の生活の管理、藩命の伝達、藩への調査報告など村の行政ば仕切っとった。警察権まで持っとって家には座敷牢まであったていう。

 松岡九郎次は、寛政12年(1800年)に長田村の庄屋に任命され、筑後川の水問題の交渉役「三庄屋」でもあった。
 恵利堰・床島用水がでけて100年ば経過しても、長田村ばはじめ下座郡蜷城・福田から筑後三井郡本郷・千原一帯数十カ村の湿地状況は変わらず、毎年水害が起こり、作物もでけん状態が続いとった。

 
九郎次は、上座郡菱野村(朝倉町)の庄屋・大内弥平義延とも協力して「この長年にわたる湿害(しつがい)ばなんとか解消しまっしょうや(ここギャグ)」て福岡藩に進言し湿抜き工事の許可ばとった。

 国境・藩境も越えて、同じ被害にあうとる村々の庄屋となんべんも話し合い、交渉の末に久留米藩側の同意も取り付けた。それは、福岡藩が久留米藩領も含めて排水溝工事ばして湿害ば除くケン、護岸のために作った上座郡原鶴の竹林と下座郡長田の柳乱杭ばとってしまうていうもんやった。こうして工事は始まった。

 文政8年(1825)の2月から10月にかけて、桂川右岸の下長田に鉄製水門付き「第一暗渠」ば作って西さい水路ば引き、久留米藩領床島村で佐田川の下に「第二暗渠」ば掘ってくぐった後、西流する床島用水に「第三暗渠」で潜って筑後川本流へ水ば流し込むていう、全長約2キロメートルの大排水路ば完成させた。

 また下座郡福田村と三井郡大堰村の約200haの湿害ば除くため、小石原川の支流「二又川」ば、床島用水の下さい暗渠で潜らせて下流に流し、西原村で小石原川に合流させる「湿抜」工事もした。

 
いまのごとショベルカーもダンプもなか時代に、全体で約5kmになんなんとする人力だけの大工事やった。これらの事業は、明治・大正・昭和の改修ば経て、平成になってようやく完成したもんもあるほどの大事業やった。

 今は二又川が逆に床島用水の下ば潜っとる大堰小学校の傍の「二又川改修記念碑」に工事の記録が残っとるバッテン、これば読もうちゃやおいかん。

上左・二又川の下ばくぐり抜ける床島用水路     上右・むかしは二又川のほうが潜っとった。
下・二又川ば直角にくぐった床島用水はさらに西へ流れ、次は大堰で小石原川ばくぐる。左手に見えとる校舎が大堰小学校。

 鑿渠碑に彫られとる文字はもう古うて見えんごとなっとるバッテン、千字におよぶ漢文と漢詩(上)で、松岡三代の業績が称えられとる。

 物好き駅長が朝倉市に問い合わせたら文化課から丁寧な資料ば送ってもろうた。それば博多弁で書いたとが前の文章タイ。

「鑿渠碑」の字は有栖川宮家の9代熾仁(たるひと)親王のご親筆ていう。

 鑿渠碑から桂川ば少し遡って、北へ分かれた用水路ば500mばかり行った八重津の集落の田圃の中に松岡家の墓地がある。
 松岡家の墓所には、自然石の墓石が三つ並んで立つ。たぶん一番大きかとが松岡九郎次やろうと思うたけど文字が溶けとって確認は出来んやった。

松岡家の墓地だけが一般の墓より一段高いところにある。         松岡九郎次の墓は大きく太い。


神社の真下ば
床島用水が
くぐる

 恵利堰で取り入れられたチッゴガワの水は、朝倉ば南北に流れとる桂川・佐田川・二又川と暗渠で交叉して、ひたすら西へ流れ、江戸前(いまの三井郡大刀洗町冨多)で小石原川に突き当たる。

 江戸前ていうたら、江戸時代の東京湾に「江戸前島」いうとがあって、そこで採れた魚のことばいうた言葉やケン、ここばなし江戸前て云うとかは分からん。

 ここで小石原川の下ば床島用水はくぐって(博多弁ならこぐって)いっとうとバッテン、むかしの人が苦労してつくんなった暗渠じゃ水量が足らんごとなった。

 いまあるとは平成になって大改造した近代的なもんタイ。これで川の下ば川が「こぐっていく」

左上・東から。左下・西から見た床島用水「江戸前暗渠」

上・左岸(東側の土手)から見た小石原川。左の白い建物と向こう岸の白か建物の間、自然石の並んどる下ば床島用水が「こぐっとる」
向こう岸の真ん中に見えとるとが「大堰神社」

 小石原川ばこぐった水路は、南北の二水道にわかれ、それぞれの水門ば経て南水道「大城・金島方面」に、北水道は中川ば経て「北野・味坂方面」に走り流れとった。

 
水門ば閉じたら水路の水はことごとく小石原川に落ち込み、その運用は誠に自由自在やったていう。現在、改修工事によって以前の南北水道は南の一水路まとめられ、むかしの姿は失われた。その中で、わずかに保存された北水路にその面影が残るだけになってしもうた。

 大堰神社は平成3年に台風被害ば受けたことと、水路の改良工事で神社の真下ば掘られることになったもんやケン、国営の工事に協力するためいったん解体して、工事終了後に建て替えられた。

上の左右・大堰公園にある北水門と北水路の跡。下の左右・同じく南水門と南水路。昔ここで分かれとった南北の水路も、いまは南だけに統一されて運用されとる。

 大堰公園は神社のすぐ前、用水路の改修整備に併せて平成11年に、広さ約1000坪の児童公園として完成した。

南水道には「享保十二年」ていう銘のある水門の石材が残してあった。

 今回は「恵利堰」と「鯉取りまぁーしゃん」ば書こう思うてクサ、前号で予告もしとったとバッテン、恵利堰ば取材してきて編集しだしたら、とてもとてもここの歴史に圧倒され、整理の下手さも加勢してこげん長うなってしもうた。
 ごめんバッテン、「鯉取りまぁーしゃん」なあ田主丸の河童といっしょに次の号に回します。
                                 取材期間 2011.10.18/2011.12.13

   次回のは、本流に入っての5回目 「田主丸の鯉とりまーしゃん」 です。続けて見れますバイ。

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