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 ステンショ物語 (その179)    汽車が走り出した明治の頃                 
                        駅はステーションがなまってくさ、ステンショていわれとった。

むかし藩主有馬のお花畑があった
  西鉄天神大牟田線                       


          大きく広く感じる2004年に出来上がった花畑駅。駅前もゆっくりしとる。

 西鉄久留米駅ば出た電車は4分で花畑駅(はなばたけえき)にもう着いとる。
 この駅と西鉄久留米駅とは約900 m、次の試験場前駅とは約600 m しか離れとらんケン、どっちもこの駅から駅舎が見える。試験場前〜花畑間の距離は西鉄天神大牟田線のなかでもっとも短かか。

 花畑駅には全列車が停車し、また、天神からの多くの急行列車がここで折り返す。

 なんで花畑か ?   むかしここに花の畑があったけんタイ。 はい、ピンポーン。
「花畑」には、むかし旧久留米藩主の有馬氏が所有しとった花畑があった。しばらくは地名じゃのうて、ただの小字やったとバッテン、のちに正式な地名になったていう。

 西鉄2000形電車は、西日本鉄道(西鉄)の天神大牟田線・太宰府線で使用されていた電車で、九州の鉄道会社として初めてローレル賞ば受賞した。

 6両編成6本36両が製造され、昭和48年(1973)に営業運転ば開始した。以後、8000形が登場するまで西鉄の看板車両として運用された。

 平成21年(2009)日中の急行はすべて3000形に統一されたため、2000型は順次廃車され、平成21年(2010)年内にはついに2000型は消滅した。

 当時、よう利用しよったもんにとっては、懐かしか形と色タイ。

 ずーっと飛んで戦後の昭和26年(1951)西鉄久留米〜試験場前間複線化。

 またずーっと飛んで平成7年(1995)に花畑駅付近の連続立体交差事業が始まり、平成16年(2004)10月西鉄久留米駅〜花畑駅〜試験場前駅間の2kmの高架が完成した。

 しかし、この工事は西鉄がしたとじゃのうて、福岡県がしとると。福岡市内の平尾駅立体化の時もそうやったバッテン、西鉄はケチで自分が使いよる線路なのに、金出したりはせん。

 西鉄いうとは、公共交通機関のくせに、住民の利便性より我が会社の利益しか考えんシケた企業で、博多のもんは好かんとバッテン、西鉄しかなかもんやケン、仕方なく乗ってやっとる人間がほとんどタイ。

 平成22年(2010)周辺の住所表記が変わり、住所が「久留米市西町1417」から「久留米市花畑一丁目23-2」に変更、花畑駅名がぴったりになった。

 駅構造は、島式ホーム2面4線で、2階部分にコンコースと改札口、ホームは3階にある。

 のりばは、1・2 番が柳川・大牟田方面、3・4 番が久留米・福岡(天神)方面

 当駅止まりの急行は大牟田方面へ向かう下り普通に接続しとる。

 高架工事着工前にあった甘木線の留置線は、高架工事によって大善寺駅に移設された。

 駅は延べ床面積が 7,084 m2もあって、  1階には食彩館にしてつストア花畑店、100円ショップmeets. にしてつストア花畑店など西鉄系の店が占めとる。

 平成24年(2012)度の1日平均乗降人員は7,250人やった。

 駅周辺は駅の高架化によって再開発された住宅地で、西口・東口にロータリーがあり、西口ロータリーにはバス停留所がちゃんと併設されとる。

↑ 西鉄久留米駅から続く高架線は立派バッテン、西鉄がしたとじゃのうて県がみんなの税金でした工事。

 市町村制が施行される以前の花畑は、三井郡西久留米村の田舎やった。1889年に西久留米村のうちの、西町にあたる部分だけが久留米市に編入され、市街地の西の端っこでやっと久留米市街地の一部となった。

 
久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩で、1620年以降幕末まで摂津の有馬氏が藩主ばしとって、21万石ば領しとった。米藩(べいはん)ともいわれとった。

 この駅は昭和7年(1932)12月に開業。駅北側の道路ば三井線(三井電気軌道 → 九州鉄道 (2代))(甘木 - 福島間)が走りよった。

       西鉄2000型電車

↑ これは高架が完成した試験場前駅のホームから未完成の津福駅の方を見たもの。高架から線路が下がっとるのがよう分かる。

 もともとこの久留米は、平安時代末期の長寛2年(1164)、肥前国の国人の草野氏が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後、戦国時代が終わるまでの約400年間、北部の山本郡は草野氏が統治し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭である柳川城主の蒲池氏が統治しとった。

 天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州平定ののち、筑後3郡7万5千石ば貰うた小早川秀包は、久留米城ば改修して居城にした。

 秀包は「羽柴久留米侍従」て呼ばれ、文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増される。しかし、関ヶ原の戦いで西軍についたもんやケン、徳川から改易させられてしもうた。

 関ヶ原の戦いののち、筑後一国32万5000石は田中吉政の所領になった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には息子の田中則政(吉信)ば置いた

 元和6年(1620)、2代藩主田中忠政が病没したもんやケン、後継ぎがおらず、田中氏は改易。
 その所領は分割され、久留米ば含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏(ありまとようじ)の所領。筑後南部は立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三池藩(1万石)が治めるごとなった。

 丹波国福知山藩8万石の大名やった有馬豊氏は、一挙に13万石の加増ば受け、久留米21万石の領主として入ってきた。大幅な加増は大坂の陣の功績ていう話しやった。

 初代藩主になった豊氏は、廃城になっとった久留米城の修築ば手がけ、城下町も整備した一方で、年貢も余計に取ったもんやケン、人気が悪く新領地の人心掌握に苦労しとる。

 寛文4年(1664)から延宝4年(1676)にかけて、筑後川の治水・水利事業ば計画し、筑後平野の灌漑ば整えようとした。これは米の増産ば目的としたとやが、逆に藩財政ば圧迫する結果となり、第4代藩主・頼元は延宝3年(1675)より藩士の知行借り上げ、天和3年(1681)には藩札の発行ばしとる。

 第5代藩主頼旨の時に豊氏の男子直系が絶えたもんやケン、親戚の旗本有馬家から則維が迎えられて第6代藩主になった。則維は、頼元以来続けられてきた財政再建のための藩政改革ば引き継ぎ、これが功を奏し何とか久留米藩の財政は好転したていう。

 江戸時代中期になると、第7代藩主・頼(よりゆき)は享保14年(1729)に16歳で家督ば継ぎ、以後54年間にわたって藩主の座にあった。

 享保17年(1732)の享保の大飢饉に際してウンカによる大被害ば受けて多数の餓死者ば出し、さらに御殿造営やら幕府の命による東海道の河川改修手伝いなどの出費ば賄うため、年貢ば増やしたもんやケン、領民から6万人規模の一揆ば起こされるなど、苦労がおおかった。

 第8代藩主・頼貴は、相撲が好きで多くの力士を召し抱えたり、犬も好きで買い集めるなど、自分の趣味にのぼせあがって、悪化しとる藩財政はほったらかしとった。

← 有馬豊氏を始めとする有馬家一族の墓がある「梅林寺」 もともと有馬家の墓は丹波国福知山にあって、瑞巌寺ていいよったとバッテン、元和6年(1620)有馬豊氏が福知山藩から久留米藩に転封されたもんやケン、今の場所に遷座、後に父有馬則頼の戒名「梅林院殿」にちなんで梅林寺て改称した。 


 天保15年(1844年)に第10代藩主となった頼永は、藩政改革ば図ろうとしたとバッテン、病に倒れ、弘化3年(1846)わずか藩主2年で夭折する。

 頼永の弟やった第11代藩主・頼咸(慶頼)のもと、久留米藩は幕末期ば迎え、藩政改革ば巡る対立で、激しか権力抗争が行われた。嘉永5年(1852)に藩内の尊王攘夷派が失脚。久留米藩の大勢は佐幕・公武合体派が占めるごとなった。

 しかし、慶応4年(1868)には大政奉還ば受ける形で尊王攘夷派が復権し、戊辰戦争が始まると新政府軍側について参戦した。

 明治4年(1871)廃藩置県により久留米藩は廃されて久留米県となり、同年11月に三潴県に編入。明治9年(1876) 福岡県の一部となった

歴代藩主
豊氏(とようじ)〜忠頼(ただより)〜頼利(よりとし)〜頼元(よりもと)〜頼旨(よりむね)〜則維(のりふさ)頼僮(よりゆき)〜頼貴(よりたか)〜頼徳(よりのり)〜頼永(よりとう)〜頼咸(よりしげ)

一方、天明3年(1783)に学問所(藩校)ば開き、教育に力ば入れた点は功績と云える。

 学問所は「修道館」て名付けられたとバッテン、寛政7年(1795)に焼失。寛政8年(1796)に再建された藩校は、新たに
「明善堂」て名付けられた。明善堂は今日の福岡県立明善高等学校につながっとる。

 江戸時代後期の第9代藩主・頼徳もまた趣味に傾倒して藩財政ば悪化させ、天保3年(1832)には亀王組による一揆ばまた発生させとる

場所・福岡県久留米市花畑一丁目・二丁目・三丁目。ここは近かケン国道3号線ば走ろう。筑後川ば渡って西鉄久留米駅の高架ばくぐり「東町」の交差点ばさらに南へ直進。約1.5kmの「諏訪野町1丁目」信号ば右折。1km弱で「花畑駅」の高架下に到着する。久留米市内からやったら「本町」の信号ば斜めに入って約1km強で駅に着く。
                                          取材日2008.10.9

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