もともとこの久留米は、平安時代末期の長寛2年(1164)、肥前国の国人の草野氏が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後、戦国時代が終わるまでの約400年間、北部の山本郡は草野氏が統治し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭である柳川城主の蒲池氏が統治しとった。
天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州平定ののち、筑後3郡7万5千石ば貰うた小早川秀包は、久留米城ば改修して居城にした。
秀包は「羽柴久留米侍従」て呼ばれ、文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増される。しかし、関ヶ原の戦いで西軍についたもんやケン、徳川から改易させられてしもうた。
関ヶ原の戦いののち、筑後一国32万5000石は田中吉政の所領になった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には息子の田中則政(吉信)ば置いた
元和6年(1620)、2代藩主田中忠政が病没したもんやケン、後継ぎがおらず、田中氏は改易。
その所領は分割され、久留米ば含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏(ありまとようじ)の所領。筑後南部は立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三池藩(1万石)が治めるごとなった。
丹波国福知山藩8万石の大名やった有馬豊氏は、一挙に13万石の加増ば受け、久留米21万石の領主として入ってきた。大幅な加増は大坂の陣の功績ていう話しやった。
初代藩主になった豊氏は、廃城になっとった久留米城の修築ば手がけ、城下町も整備した一方で、年貢も余計に取ったもんやケン、人気が悪く新領地の人心掌握に苦労しとる。
寛文4年(1664)から延宝4年(1676)にかけて、筑後川の治水・水利事業ば計画し、筑後平野の灌漑ば整えようとした。これは米の増産ば目的としたとやが、逆に藩財政ば圧迫する結果となり、第4代藩主・頼元は延宝3年(1675)より藩士の知行借り上げ、天和3年(1681)には藩札の発行ばしとる。
第5代藩主頼旨の時に豊氏の男子直系が絶えたもんやケン、親戚の旗本有馬家から則維が迎えられて第6代藩主になった。則維は、頼元以来続けられてきた財政再建のための藩政改革ば引き継ぎ、これが功を奏し何とか久留米藩の財政は好転したていう。
江戸時代中期になると、第7代藩主・頼僮(よりゆき)は享保14年(1729)に16歳で家督ば継ぎ、以後54年間にわたって藩主の座にあった。
享保17年(1732)の享保の大飢饉に際してウンカによる大被害ば受けて多数の餓死者ば出し、さらに御殿造営やら幕府の命による東海道の河川改修手伝いなどの出費ば賄うため、年貢ば増やしたもんやケン、領民から6万人規模の一揆ば起こされるなど、苦労がおおかった。
第8代藩主・頼貴は、相撲が好きで多くの力士を召し抱えたり、犬も好きで買い集めるなど、自分の趣味にのぼせあがって、悪化しとる藩財政はほったらかしとった。
← 有馬豊氏を始めとする有馬家一族の墓がある「梅林寺」 もともと有馬家の墓は丹波国福知山にあって、瑞巌寺ていいよったとバッテン、元和6年(1620)有馬豊氏が福知山藩から久留米藩に転封されたもんやケン、今の場所に遷座、後に父有馬則頼の戒名「梅林院殿」にちなんで梅林寺て改称した。
天保15年(1844年)に第10代藩主となった頼永は、藩政改革ば図ろうとしたとバッテン、病に倒れ、弘化3年(1846)わずか藩主2年で夭折する。
頼永の弟やった第11代藩主・頼咸(慶頼)のもと、久留米藩は幕末期ば迎え、藩政改革ば巡る対立で、激しか権力抗争が行われた。嘉永5年(1852)に藩内の尊王攘夷派が失脚。久留米藩の大勢は佐幕・公武合体派が占めるごとなった。
しかし、慶応4年(1868)には大政奉還ば受ける形で尊王攘夷派が復権し、戊辰戦争が始まると新政府軍側について参戦した。
明治4年(1871)廃藩置県により久留米藩は廃されて久留米県となり、同年11月に三潴県に編入。明治9年(1876) 福岡県の一部となった
歴代藩主
豊氏(とようじ)〜忠頼(ただより)〜頼利(よりとし)〜頼元(よりもと)〜頼旨(よりむね)〜則維(のりふさ)頼僮(よりゆき)〜頼貴(よりたか)〜頼徳(よりのり)〜頼永(よりとう)〜頼咸(よりしげ)
一方、天明3年(1783)に学問所(藩校)ば開き、教育に力ば入れた点は功績と云える。
学問所は「修道館」て名付けられたとバッテン、寛政7年(1795)に焼失。寛政8年(1796)に再建された藩校は、新たに「明善堂」て名付けられた。明善堂は今日の福岡県立明善高等学校につながっとる。
江戸時代後期の第9代藩主・頼徳もまた趣味に傾倒して藩財政ば悪化させ、天保3年(1832)には亀王組による一揆ばまた発生させとる。