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くじゅう朝日長者 ものがたり

この物語シリーズ、前回の「くじゅう」で、朝日長者の伝説ば残しとりましたケン、今回は、くじゅう七不思議の朝日長者伝説てい きまっしょう。
 勿論、これまでとい っしよで、なんの役にも立ちまっせん。ヒマな人だけ読んでつかあさい。

 くじゅう飯田高原の千町無田ば中心にした一帯に朝日長者伝説がある。

目次  しおひきの珠・しおみちの珠         クリックでタイトルの章へ飛んでいきます。
      
朝日長者がおったけん長者原
        
長治(ちょうじ)がなまって長者
          
瀬音ゆかしき音無川
             沈む夕陽ば呼び戻し
               不断鶴
                
男池の千鳥姫
                   餅ば的にアーチェリー
                     そして白鳥は飛び去った
                       埋め殺し
                          泣きながらナキナガ原
                          
●朝日長者めぐりマップ
             

しおひきの珠・しおみちの珠
 おおむかし、やっと大和朝廷が日本ば統一した頃の、西暦では300年あたりの話。
 近江国(滋賀県)浅井郡に浅井藤彦(あさいとうげん)ていう豪族がおった。神功皇后の新羅出兵に参加して、かれが操る干珠・満珠によって日本軍は勝つことがでけた。

 ここで干珠・満珠ば説明するために、古事記まで話ば戻さないかん。

 猟師やった山幸彦(ヒコホホデミノミコト)は、兄貴で漁師の海幸彦(ヒテリノミコト)と道具ば交換し、借りた釣り針で魚ば釣りよったところ、釣り針ば海に落としてしもうた。

 兄貴から責められ、釣り針ば探しに海に入った山幸彦は、海神ワダツミの宮殿にたどり着き、ここでワダツミの娘豊玉姫に一目惚ればされて結婚するはめになる。3年の後、山幸彦が地上に帰るとき海神が山幸彦に持たせてやったとが、なくした釣り針と干珠・満珠ていうふたつの珠やった。

 干珠は「しおひきのたま」いうて潮ば引かせる力があり、満珠は「しおみちのたま」いうて潮ば満ちさせる力ば持っとった。

 神功皇后が三韓征伐にでかける時、香椎の浜で戦勝祈願ばしなったら、住吉の神が現れ「これば使え」いうて干珠・満珠ていふたつの珠ば貸してやんなった。

 この秘宝の両珠ば受け継いで、戦場で操ったとが浅井藤彦やった訳タイ。

 どげんして使うたかて?
 新羅海軍に向こうてまず干珠ば投げる。そしたら、たちまち海が干上がってしまうケン、新羅軍は船ば捨てて歩いて攻めてくる。そこで今度は満珠ば投げたら、今度は、みるうちに潮が満ちてきて、新羅軍の兵士はみんなおぼれ死んでしもうた。
 いま考えたら馬鹿みたいな話バッテン、これで日本軍は勝った。

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朝日長者がおったけん長者原
 帰国した後、藤彦は珠ば上手に操ったその功績で玖珠郡(いまの飯田高原)ば賜り、藤彦はここ田野の地に近江から一族ば連れてきて移り住んだ。
 以来、千町無田てい われた原野ば代々にわたって開拓し続け、次第に栄えていったていう。

 藤彦から数えて17代、長治(ちょうじ)の時には、後千町、前千町ていう美田ば持つまでになり、百姓千人、牛馬千頭ば抱えとったていう。

 田野の館ば黒木御所て名付け、屋敷には川の水ば引き入れて大きな池ば造っとった。さらに西の方にある山群ば築山に見立て泉水山(せんすいやま)いうては喜んどったらしか。
 長者原の西、黒岩山と峰つづきの上泉水山と泉水山がそうやったっちゃろう。








                       長者が築山に見立てた 右から泉水山・上泉水山・黒岩山












                                  くじゅうの登山基地 長者原

 いま、くじゅうの登山基地になっとる長者原(ちょうじやばる・九州で"原"は"はら"ではなく"はる"または"ばる"ていう場合が多か)は、別府ば温泉地として開発した油屋熊八が、ここにテント村ば作り、長者ケ原て名付けたのが始まり。
 長者がすんどったケン、長者原ていうたほうが、簡単でなーるほどていう説得力があるケン、そう説明しとるガイドブックもある。
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長治(ちょうじ)がなまって長者
 館のあたり一帯は、従業員が千人も住んどったいうケン、家が立ち並んでそれはもう城下町のごたるなにぎわいやった。各地からの商人もやってきて市まで立つごとなった。

 そのころ、大野郡三重郷に真名野(まなの)ていう長者がおって、その娘の般若姫に惚れた橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ・後の用明天皇)が、都からこっそりと抜けだし、姿ば変えて長者の家に住み込んどった。

 当時の都ば関西て考えたら距離的に無理がある。筑後川流域、いまの朝倉あたりの豪族が大和朝廷の前身で、そのあたりに都があったて考えれば、日本武尊や景行天皇・神功皇后の九州に頻繁な足跡も、なんとなく納得できる。この話もそう。

 都では皇子が神隠して大騒ぎになっとった。そればたまたま所用で都ば訪れとった長治が知り、真名野長者のところにいる若者がそうじゃなかかて教えた。調べてみると本当やったもんで、欽明天皇が喜んで長治ば呼び、お礼に「朝日長者」の称号ば与えたていう。

 ・・もっとも、このての伝説は全国に掃いて捨てるほどあって、ここだけのものじゃ決してなか。

 それまでの長治は、住んどる土地の名から田野長者て呼ばれとったとバッテン、それからは朝日長者て名乗り、さらに偉そうにふるまうごとなったていう。
 「朝日長者」は、浅井長治が単に訛ったたけタイ。ていう説もある。
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瀬音ゆかしき音無川
 
そんなこんなで、長者の権勢はたいしたものになった。屋敷の近くば流れとる川がうるさかて長者が一喝すれば、川さえも長者ば恐れて瀬音ば低め、急
におとなしゅうなったていう。
 だけんこの川ば音無川(おとなしがわ)ていう。朝日長者の七不思議のひとつになっとる。

 しかし、いったん鳴りばひそめた川も、長者屋敷ば過ぎた辺りからは、また思いっきり瀬音ば鳴らしたてい うことから鳴子川(なるこがわ)になった。

 鳴子川は坊がつるば源とする筑後川の源流で、田野から震動の滝へ落ち、九酔渓ば流れ下って玖珠川に合流、筑後川となって有明海に注いどる。  
                           
写真・音無川
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沈む夕陽ば呼び戻し
 
ある年、二千町ていう広さば朝早うから千人もの男女が出て田植ば始めた。ところが、夕暮れが迫ってもまだ植え終わらん。
 そこで長者は「日が沈むとば止めろう」て考えた。

 
 長者は近くの「扇山」に駆け登り、手にしとった扇ば開いて「返せ、返せ」て太陽ばさし招いた。
すると、まさに沈もうとしよった日が、なんとそこで動きば止めた。田植は無事終了した。それば待って太陽は西の山に沈んでいったていう。
 千町無田の東には、夕日ば招き返した扇山ていう小さな丘がある。 
写真は長者が住んだ千町無田
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不断鶴

 今、朝日台から千町無田に下ったところに長者屋敷の跡て呼ばれとる場所がある。以前、ここから弥生後期の土器やら鉄器が出土した。今も長者の子孫てい う十数戸が住んどんなる。

 広か自然林の中に「年の神」ていう茅と竹で作られた祠があって大きめの丸石と小石が祀られとる。
 
 これが長者屋敷の屋敷神だていう。そして、この雑木林はいまだかって木ば切ったことがないていう。
 切ったり持ち出したりすると朝日長者のタタリば受けるて怖れられとる訳。
 
 その近くには鶴の墓の石碑が立つ。長者が飼うとった夫婦の鶴で、子ば産むと親はどこかへ去ってしまうバッテン、つねにとぎれることなくつがいの鶴が住んどったていう。だけん不断鶴(たたづる)いうて大切にされとった。

 ところが、文政6年(1823)、菅原村の猟師・権左衛門が鉄砲でこの鶴ば撃ち殺してしもうた。
 代官所の検死まであって「松の木で箱ば作り埋めた上に石塚ば置くべし、追って沙汰があるであろう」ていうことやったバッテン、その後、それこそ「な
んの音沙汰」もなかった。
 台座だけの鶴の墓ばあわれみ、昭和22年になってから、かってここに住んだことのある大分市長・三好一の揮毫による墓石が、やっと台座の上に乗せられた。

 しかし、地図ば頼りに訪ねてみたバッテン、ひっそりと淋しか限りやった。
 くじゅう朝日長者の七不思議にも数えられとる。

 鶴ば撃った猟師・権左衛門がその後どうなったとかは分からん。   
写真・上は年の神 下は不断鶴の碑
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男池の千鳥姫
 
権勢ばほしいままにしとった長者も、ある年の干害だけはどうしようもなかった。来る日もくる日も雨は降らず、草も木も枯れんばかり。後千町・前千町の美田で稲も枯れようとしとった。
 夕日ば呼び戻すほどの長者ならなんとでもできるはずバッテン、困り果てた長者は、雨乞いに行くことにした。

 男池(おいけ)は黒岳の北の麓、千町無田の東のはずれにある。何千年経た今も伏流水がこんこんと湧きだしとる。ここには竜神が住むていい伝えられとった。

 深い原生林に囲まれた池のほとりで、長者は雨ば祈った。
 「もし雨ば降らして貰えば、娘の一人ば差し上げまっしょう」

 すると長者が家に帰った途端、快晴の空がにわかに曇り、大粒の雨が降り始めた。ついには大雨となり、川には水があふれ、田も畑も山々もすっかり緑の生気ば取り戻した。その年の秋、田野の田はいつもにまして豊作の喜びにわきかえった。

 しかし、長者は竜神との約束が気になって仕方がなか。長者には三人の娘がおったバッテン、父の苦しみば知る長女の豊野姫は、入水の覚悟ば決めて父に申し出た。それば知った次女の秋野姫は「私が代わりに池に行く」て姉ば気遣うた。

 ところが、三女の千鳥姫がおらん。千鳥姫は姉二人の話ば聞いて、自分が犠牲になる覚悟ば決めた。日頃から信仰しとる観音像ば握りしめて、暗闇のなかば男池へと急いだ。
 男池のほとりに座った千鳥姫は、守り本尊の観音像ば安置して一心にお経ば唱えた。

 やがて、水面が波立ち始めたかと見ると、一匹の大蛇が水面に現れ、真っ赤な口ば開いて姫に迫った。千鳥姫危うし。
 テレビの連続物なら、ここでCMとなって、後は来週のお楽しみてなる。

 その時、観音像が黄金の輝きば発すると、なんと大蛇の口に飛び込んだ。
 たけり狂うとった大蛇は急におとなしゅうなり、姫に語りかけた。
 「私はいま観音の慈悲とあなたの孝心に打たれました。あなたはここから白水川に沿って下りなさい。幸せが待っとるはずです」

 千鳥姫は大蛇の言葉通り男池から下りて、玖珠町の久多見(くたみ・朽網)長者のもとに下女として住み込んだ。この長者は九重地方の富豪で、朽網兵衛泰親(ひようえやすちか)ていう地頭職やったていわれとる。

 よく働くし、しかも美女。長者の三男に見そめられて結婚ばする。後に朝日長者の娘て分かり、父や姉との再会もできて、この話、万事めでたしめでたしのハッピーエンドになった。 

                                     写真・男池の湧水

 
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餅ば的にアーチェリー
 このようなことはあっても、長者は日が経つにつれ、自然の恵みなどは忘れ去り、再び奢りたかぶっとった。
 そうした時、長女の豊野姫に筑後の豪族星野内蔵ば婿ば迎えることとなった。
 当然、婿もてなしの祝宴が張られる。栄華ば極める長者の、しかも跡取りの婿ば迎える宴会だけに、飲めや歌えの無礼講が十日十夜続いた。

 一族郎党から里人まで、集まる者は数知れず。舞いや踊り、さまざまな余興が果てしく続けられた。しかし、日もたつと、とうとう余興の種も尽きてしまう。その時、長者の目に、神前の鏡餅が映った。
 「あれば的にして弓ば試そう」。これには参会者もびっくり。
 「餅は神聖な物。それば的にするなどとは…」て諌めたバッテン、一度云いだしたら耳ば貸すような長者ではなか。
 鏡餅ば神前から引き下ろし、餅ば的にして長者が矢ば放つ。矢は餅の真ん中にぷすりと刺さった。

 すると、餅は一羽の白い鳥となって、大空高く飛び立った。
・・・・・さあ大変。
 「今の白い鳥は氏神である白鳥神杜の使い鳥ではなかったか」
 「神がわれわれば見捨てたのではなかか」て、一同は酔いも醒め、色青ざめておののいた。
 すっかり後悔した長者もすぐに身ば清め神杜に向こうた。長者ばはじめ人々は、七日七夜ば神杜にこもり一心不乱に祈り続けた。
 そして最後の日、神杜の境内に一枚の白い羽根がひらひらと舞い落ちた。これは神が許してくれた証拠だと、みな一安心し長者もひとまず胸ばなで下ろしたとバッテン・・・・

 このことがあって以来、前後二千町の田には稲が実らず、毎年不作が続くごとなった。
 ついに田野の地は荒野となって、農民達もみんな離れていってしもうた。今に田野ていうとはそのためて「豊後風土記」にも記されとる。
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そして白鳥は飛び去った
 
白鳥神社は浅井一族の氏神で、藤彦が軍功ば立てたともその加護があったケン、ていわれとる。その氏神に対して、長治のおごり高ぶった不敬が、没落のきっかけば作ってしまったとやろう。
 いま、田野の鎮守として北方に祀られとる白鳥神杜は、もとは長者屋敷の南に祀ってあったらしか、寛文11年に現在の北方の地に落ち着いたて伝えられとる。

 白鳥神社は、日本武尊(やまとたける)ば祭神としとる。なし白鳥と日本武尊なのか。古事記には白鳥と日本武尊についてこげな伝説がある。

 西国の熊襲ば平定して大和に帰還しなった日本武尊に、父の景行天皇は休む間もなく、東国の蝦夷ば平定するごと申しつけた。
 日本武尊は苦難の末、東国ば平定したバッテン、疲れ果てての帰途、伊吹山の神との戦いに敗れ、能褒野(のぼの・現亀山市)までたどり着いたもんの、ついに力尽きてしまう。

 能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、羽曳野に降り立った後、何処ともなく飛び去ったて伝えられとる。

 亀山市・御所市・羽曳野市には白鳥の御陵があって白鳥三御陵ていわれとる。

 九重町北方の白鳥神社には、境内の一角にほんの小さな社がある。朝日長者・浅井長治ばまつる朝日杜ていう。

                            写真・上は白鳥神社、下は朝日社
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埋め殺し
 
長者の家運は急速に傾いていった。美田ば誇った後千町前千町の田には実りもなく、長者も没落ば覚悟する。しかし、倉には代々にわたって貯めてきた金銀財宝がまだ山のごと積まれとる。これば人手に渡しとうはなか。そこで長者は財宝ば埋蔵しようて考えた。

 埋める場所として選んだとは、屋敷の東北、千町無田ば見下ろす合鴫山(ごうしぎやま1205m)。
 まず肥後から石工30人ば連れてきて、山の頂にひそかに穴ば掘らせた。石工たちはこんな山の中に大きな穴ば掘ってと不審に思ったバッテン、長者は言葉たくみに言いくるめた。

 ついに大きな穴が完成した。さっそく祝いばして長者は石工たちに自ら酒ばふるまう。ところが、杯ば口にした石工たちはたちまち血ば吐いて倒れた。口封じのための毒殺やったとタイ。
 死体は別に掘られとった穴に埋められた。

 しばらくたったある夜、長者の館から人と牛馬の列が人目ば避けるごと山に向うた。財宝ば運ぶ人足はみんな他国者ばかり。高い報酬ば目当てに集まった者たちやった。

 夜が明ける頃やっと財宝ば穴に入れる作業は終わった。同時に穴の入口は閉ざされ、土がかけられた。目印として赤い花が咲くウツギの枝が逆さまに植えられた。

 仕事が終わって大河原まで降りてきたとき、長者はここでも石工にしたのと同じように毒ば仕込んだふるまい酒ば出し、倒れた人たちば引きずって地獄の熱湯に投げ入た。牛馬までが地獄に落とされたていう。

 大河原地獄は多くの人と牛馬ば投げ込まれて怒った。やがて異変が起こり、一夜のうちに熱湯は湯坪の大岳地獄に移動してしもうた。これが今、九州電力の大岳地熱発電所になっとる。

 大河原地獄は後千町前千町の生産の中心として、温かい水ば広い田畑に灌漑するための源やった。地獄が去り、温泉が出らんごとなると、高冷地の水田そのものとなり、稲は実らず、さしもの美田も荒れ果てて雑草の生い茂る場所になってしもうた。
 まさに千町無田となった。

 長者原から庄内町へ抜ける県道621号線、田野から200mほど入った農家の庭に湧水がある。「念仏水」て呼ばれとる。いつも池の底から水が湧きだしとる。

 金銀財宝ば隠すために使うた人足ば、長者が皆殺しにして埋めたとがこのあたりていわれとるバッテン、この湧きだしてくる清らかな水ばみつめとると、そげな血なまぐさか話ばイメージすることはできん。
 池のそばで南無阿弥陀仏て唱え、足踏みばするとブツブツて泡が音ば出すけん「念仏水」てい う。写真ば撮っとる間じゅう、美しい湧水はブツブツ言い続けとった。
目次へ                     写真はブツブツと水が湧きだしとる念仏水 


泣きながらナキナガ原
 そのうちに長者が死んでしもうた。残された者たちは何とかしようとしたバッテン、その元手となるはずの資金は埋められ、隠し場所は死んだ長者しか知らん。
 疫病が流行り長者夫人も死んだ。奉公人も去り、豪壮な館も崩れ落ちんばかり。そこに残されたのは長女の豊野姫と、次女の秋野姫だけとなってしもうた。

 もうこの地には住まれん。二人は心優しい妹、千鳥の嫁ぎ先の玖珠・多久見長者ば頼ることにした。後ろ髪ば引かれる思いで、田野ばあとにして二人は高原ば西に向かう。奥郷川ば渡り、夕暮れの草原ば涙にくれてさまよう。
 二人は悲しさのあまり泣きだした。泣きながら歩いたけんこの草原ばナキナガ原ていう。

 















写真・豊野姫と秋野姫が泣きながら歩いたていうナキナガ原と湧蓋山

 日暮れ近く、高原の西の端、宝泉寺温泉ば見下ろす峠にやっとたどりついたとき、二人は疲労でほとんど動けん状態になっとった。付近の柴ば切って小屋ば造り、ここで一夜ば過ごすことにしたバッテン、翌朝二人が小屋から立つことはなかった。

 くじゅう飯田高原ば舞台にした、朝日長者の伝説はついにここで悲劇的な幕ば降ろすことになる。
 地蔵原から宝泉寺温泉へ抜ける県道380号線の、ここば柴館峠(しばやかたとうげ)て呼ぶ。

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朝日長者めぐりマップ

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