日豊本線・鹿児島沿線のよもやま話でもいかが ? ただし読んだからいうて何の役にも立ちまっせん。ヒマな方はどうぞ。
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日豊本線は J R 九州 の路線で一番長か
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美しかった「竜ケ水駅」が鉄砲水で流された
「桜島」は薩摩隼人の象徴
龍馬が霧島(高千穂峰)に登った
霧島神宮はニニギノミコトば祀ってある
日豊本線は九州の路線で一番長か
日豊線と日豊本線はどげん違うとか。肥薩線はなぜ肥薩本線て云わんとか。
本線ていう言葉にはもったいぶった響きがあってどうも好かん。本線がついとらんほうがローカルな人間くささがあって好きタイ。
本線ていうとは、ひとつには重要な幹線ていうことば表しとる。それに長か路線ていう意味もありそう。三つ目は歴史的に部分、部分で開通したいくつかの路線が統合され、一本の路線として繋がったということもあるごたる。
これに当てはめていくと日豊本線は、まず東九州ば縦断する重要な路線タイ。カーン。
次に日豊本線は長か。九州の路線では一番長うて、鹿児島〜小倉間462.6Km、駅の数はJR九州になった現在111駅もある。カーン、カーン。
歴史的には、まず明治28年の九州鉄道による小倉〜行橋間の開通から始まっとる。その後、豊州鉄道とか宮崎県営鉄道とか、各地でこまぎれに建設された鉄道がクサ、最終的には旧国鉄に統合されていって、昭和7年(1932)の大隅大川原〜霧島神宮間の開業で、鹿児島〜小倉間が全通し出来あがった。カンカン、カーン。
日豊本線は確かに「本線」としての条件ばイヤでも備えとる。だから本線やろう。
もちろん日豊の「日」は日向で、「豊」は豊前・豊後のことや
ろう 。ではなぜ、日豊本線であって「豊日本線」ではなかとか。暑か季節、そげなややこしかことまでは云わんことにしよう。
全線開通から30年後、北から電化の波が押し寄せてきた。1966年小倉〜新田原間、1967年新田原〜幸崎間、1974年には幸崎〜南宮崎間て進み、1979年9月25日の南宮崎〜鹿児島間で、13年かけての全線電化が完成しとるとタイ。
しかし、全国レベルからすると、日豊本線の電化は遅かほうで、そのため電化が進んだ路線からいらんごとなった蒸気機関車がここに集められた。
それが北海道とともに蒸気機関車最後の働き場所となった理由タイ。ファンにとっては、いろいろな機種の蒸気機関車ば最後まで見ることがでけた路線やったいう訳。
その蒸気機関車たちも1974年には日豊本線から姿ば消していく。蒸気機関車がおらんごとなった日豊本線は、1987年4月1日ばもっての国鉄分割民営化で、九州旅客鉄道(JR九州)に継承された。早ういえば国が赤字ば丸投げしたっタイ。
黒い煙ば吐いて、黒い蒸気機関車が走った道ば、いまはカラフルなシーガイアやらソニックが音もなく駈けていく。
写真は電化のポールが立ち、架線が目立ちだした日豊本線・北川〜市棚間ばデゴイチが行く
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美しか「竜ケ水駅」が鉄砲水に流された
日豊本線の上り列車は、鹿児島駅から磯庭園の下ば鳥越トンネルで抜けると、あとはしばらく錦江湾と桜島ば右手に見ながら走る。南国のせいか常に明るい雰囲気の路線。
駅長は鹿児島からひとつめの竜ケ水駅がなぜか好きで、この駅ば発車するC57ば撮すため、1971年からの1年間ようここに通うた。 駅のすぐ前には国道10号線ばはさんで錦江湾が光っとった。東に向いた駅は、いつも錦江湾からの朝日ば受けて、ホームに吹く風さえも光って感じられとった。駅舎もホームも実に手入れの行き届いた美しい駅やった。
平成5年8月6日。
この竜ケ水が大きな災害に逢う。
たしかにここは、駅のすぐうしろに高っか崖が迫っとった。数日前からシラス台地に降り注いだ豪雨が、その崖ば崩壊させ、土砂もろとも鉄砲水となって竜ケ水に襲いかかってきた。
土砂流は近くの家も人も巻き込んで、駅も線路も国道までも錦江湾さい押し流してしもうた。自然災害ていえばそれまでバッテン、じつに悲しか出来事やった。
写真は錦江湾の朝日に輝いとった水害前の竜ケ水駅(1971.09.28 07:25)
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「桜島」は薩摩隼人の象徴
真っ青な錦江湾に浮かぶ桜島は、なんちゅうても鹿児島の象徴タイ。記録によると、8世紀頃海底火山の噴火によって最初の島が出来たていう。以来、これまでに何百回ていう噴火ば繰り返して大きくなってきとると。
かっては「向島」て書かれとったバッテン、ご神体とする木花咲耶姫(このはなさくやひめ)から「咲夜島」と転称し、そして佳字の「桜」ば当てて桜島になった・・・ていういい伝えもある。
木花咲耶姫とは大山津見神(おおやまずみ)の娘で、
高千穂峰に天下ったていうニニギノミコト と結婚して山幸彦・海幸彦ば産んだ神話の女性タイ。神武天皇から云えばひいばぁさんにあたる。
薩摩半島阿多の出身というので、金峰町には姫にちなんだ「木花館」ていう道の駅も出来とる。
さてその桜島、大正3年の大噴火では、400mも離れとった大隅半島と陸続きになるほどの溶岩流が発生しとる。
こんとき流出した溶岩は、推定30億トンていうとてつもなかもんやったらしか。
近いところでは、昭和30年にも山頂噴火があり、その後も活発な活動が続いとるため登山は全面的に禁止されたまま。
北岳が1117mで一番高く、中岳1065m、今も活動中の南岳1040mの三峰からなっとる。
薩摩の歴史は、火山灰との苦闘の歴史て云えるくらい、生活の上では迷惑な桜島バッテン、赤く燃え上がる桜島の姿は、薩摩隼人の心となって、憂国の士ば輩出させた。
おおげさにいえば、日本の歴史に大きな影響ば与えた桜島ていえんこともなか。
駅長が撮影に行くときに限って、なぜか桜島はいつも静かで一度も噴いてはくれんやった。
写真は帖佐〜重富間から見た桜島(1971.09.28)
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龍馬が霧島(高千穂峰)に登った
隼人ば出た日豊本線の上り列車はすぐに天降川(あもりがわ)の
鉄橋ば渡る。天降川は栗野岳ば源 に、霧島の水ば集めた霧島川や石坂川ば併せて錦江湾に注ぐ2級河川。
隼人から10Km程も天降川ば遡ると新川渓谷ていう川沿いに、風情のある古くからの温泉場が並んどる。
その中のひとつに塩浸温泉(しおひたし)ていうとがあって、ここは坂本龍馬が逗留したことで有名。
朽ちかけとるバッテン、いまも龍馬が使うたていう露天風呂が残り、龍馬と同伴した恋女房お龍(おりょう)さんとの記念像もある。
詳しくはこうタイ。
慶応2年(1866)龍馬32才。
「日本国のために」て西郷隆盛ば説得して、薩長同盟ば成立させたとが、1月22日。
その翌々日、寺田屋に踏み込まれ、傷ば負いながらも寺田屋の娘お龍(26才)の機転で間一髪逃れた龍馬は、薩摩藩邸で傷の手当ばしとって、西郷や小松帯刀から治療ば兼ねての鹿児島行きば勧められる。
3月1日、おりょうも連れて鹿児島へ出発、多分薩摩藩の船であったとやろう3月10日には鹿児島に着いとる。
しばらく小松邸に滞在したふたりは鹿児島城下から霧島へと向かい、3月16日に日向山温泉泊まり、3月11日には塩浸温泉に到着し、ここで11泊する。
実質これはふたりの新婚旅行でもあったようで、地元では「日本で初めての新婚旅行」なんて宣伝に利用しとる。
渓谷で魚ば釣ったり、ピストルで鳥ば撃ったりして楽しそうに日々ば送っとったらしか。
3月28日にはおりょうさんが突然「霧島山に登りたか」ていいだしたもんやケン、霧島温泉の霧島館(今の霧島ホテル)まで行って泊まった。
翌28日は晴れ。小松が気ば利かした弁当のカステイラば持って、ふたりは高千穂峰に登る。一歩登れば二歩下がるガレ場に、わらじば何足も履き替えて「泣きそうになった」いうぐらい手こずりながらも頂上に立つ。
龍馬はともかく、おりょうさんの強さには驚いてしまう。昔の人は歩いてばかりやったケン、きっと足は強かったとやろう。
頂上でのふたりは「引き抜いたら火が噴きだしてくる」て脅かされてとった逆鉾ば、引き抜いたりして子供のごとはしゃぎまわったゲナ。
ここに書いてとる日付は旧暦やケン、山は丁度ミヤマキリシマに覆われて一番きれいか季節やったに違いなか。
どうして駅長がこげん見てきたようなことが書けるとかていうと、母ば早うに亡くした龍馬が、慕うとった姉・乙女への手紙(重要文化財)に、この霧島登山のことばいかにも楽しそうに、絵まで入れて書いたもんが残っとるけんタイ。
逆鉾ば見て「その形、確かに天狗の面な り、二人大いに笑 いたり」ていう一 文には、幕末の志士が、豊かな鹿児 島の自然のなかで 愛妻とともに童心 に帰ってはしゃぐ ひとときの様子がよく表れとる。
その日は霧島神社に泊まり、翌日30日は霧島温泉、4月1日に塩浸温泉に戻ってまた7泊、日当山温泉でさらに3泊と、傷ば癒しながらゆっくりとした旅ば楽しんどった。
4月12日に鹿児島へ戻り、西郷に別れば告げたあと鹿児島ば出航。途中長崎に寄港して月琴ば稽古させるため、おりょうさんば小曽根家に預けて京都に戻ってきとる。
こうして霧島でのつかの間の楽しか日々ば過ごした龍馬やったとバッテン、明けて慶応3年11月15日、潜伏先の京都河原町四条下ルの近江屋で、同士の中岡慎太郎と会談中、なにものかに暗殺されてしまう。
いま、地元の牧園町では、龍馬がおりょうさんと高千穂峰に登ったていう史実にあやかって「龍馬ハネムーンウォーク」ていうイベントば毎年実施しとる。
写真は(上)塩浸温泉に立つ龍馬とおりょうの新婚旅行記念碑 (中)龍馬も泣きとうなったていう高千穂峰最後のガレ場
(下)ふたりで引き抜いて遊んだ山頂の「逆鉾」ーーー勿論当時のモノではなか(撮影・2004.03.05)
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霧島神宮はニニギノミコトば祀ってある
伊耶那岐尊(いざなぎのみこと)は、天の浮橋(あまのうきはし)の上から下界ば見下ろしとんなった。下界は暗うてもやのようなものがかかり、その下の様子は見えんやった。
伊耶那岐尊が天に手ばかざすと、玉で飾られた矛が現れた。矛ばつかんだ伊耶那岐尊が、そればもやの中に降ろして下界ばさぐったら水の感触が伝わった。そこで伊耶那岐尊は少し矛ばあげた。すると矛からしたたった海水の、塩が固まってひとつの島になった。 天浮橋の上で見とった、二柱の神はこの島ば淤能碁呂島(おのころしま)て名付けて降りてみることにしなった。淤能碁呂島に降りた二柱の神は、夫婦の交わりばして、この地に自分たちで国ば造ることにした。
神話「国生み」の話タイ。
霧の中から生まれた島、霧島の誕生タイ。・・・て地元ではいいたか。
「古事記」にしても「日本書紀」でも、天皇家がこの国ば支配するうえにおいての正当性ば、都合のよかごと書かせたものやケン、実にバカバカしくていい加減なもんが多か。
むしろ地元の霧島説のほうが楽しく納得でける。
さて、地上の国が天照大神の子に譲られることになったので、天照大神は天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)ば下らせようとするとバッテン、丁度この時天之忍穂耳命に子供が生まれたもんやケン、その子迩迩芸命(ににぎのみこと)ば降臨させるることにした。
このニニギノミコト、「古事記」では天迩岐志・国迩岐志・天津日高日子番能・迩迩芸命(あめにきし・くににきし・あまつひこ・ひこほの・ににぎのみこと)と云い、「日本書紀」では天饒石・国石饒・天津彦・火瓊瓊杵尊(あめにぎし・くににぎし・あまつひこ・ほの・ににぎのみこと)と書かれとる。書き方も瓊瓊杵尊になったり、迩迩芸命になったりしてややこしか。
あらためていいますが、本当にこげなこと何の役にも立たん、まさにトレビアの泉ですバイ。
さてニニギノミコトは八尺の勾玉・鏡・草薙剣の三種の神器ば持って地上へと降りてきなった。
これがいわゆる天孫降臨。高級官僚の悪しき制度となっとる「天下り」の原点。
さて、国津神の猿田彦神(さるたひこ)ば案内人としてどこに天下ったとか。 「古事記」では竺紫日向之高千穂之久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)
「日本書紀」には日向襲之高千穂峯(ひむかのそのたかちほのたけ)てなっとるとバッテン・・・その場所確定論争は今に至るも絶えることはなか。
高千穂峰説・高千穂峡説・二上山説・笠沙の野間岳説・祖母山説などが、この天孫降臨ブランド名争奪戦ば激しくしとる。
古田武彦氏の「九州の真実」によれば、竺紫は福岡県の筑紫であり、日向は糸島との境にある日向峠一帯、高千穂は高祖山で久士布流多気(くしふるたけ)はその第2峰であるていう。また、三種の神器が出土した福岡市西区の吉武高木遺跡はニニギノミコトの墓であると。 トレビアが長くなりすぎたが、霧島神宮はこのニニギノミコトが祀られとる。
社殿は欽明天皇の540年、はじめお鉢と高千穂峰の中間、脊門丘(せとお)に造られたが、たびたびの噴火で炎上したため、山の東にあたる長尾山に移して東霧島神社ていうた。1484年に島津忠昌はこの 社ば東西両社に分けて、東社ば瀬多尾に遷座し、西社ば新しう姶良郡田口に建てた。
これがそれぞれ現在の霧島東神社・宮崎県西諸県郡高原町と霧島町の霧島神宮になっとる訳。
霧島神宮のいまの社殿は、1715年に島津藩主21代の吉貴が建立寄進したものて神宮のパンフレットに書いてあった。
明治7年、霧島神社から霧島神宮へ社号ば変えかつ官幣大社になっとる。
いま霧島は、九州新幹線が鹿児島に来て「霧島が近か」て宣伝し張り切っとんなる。それで日豊本線の霧島神宮駅も神宮風にリニューアルされた。
写真は(上)緑深く広い神域ば持つ霧島神宮の参道 (下)リニューアルされた霧島神宮駅
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