1 護摩堂峠(福井県勝山市・石川県白山市)
勝山市北谷町谷地籍にある五所ヶ原と白山市白峰地籍にある太田との間にあった標高1,070mの峠です。
峠の位置はこちらです。
峠の名は、昔、護摩堂があったからという説もあり、峠を発して西へ流れる胡摩堂谷によるとの説もあります。
峠道は、昔、加賀側から出作りが越えた間道であったといい、越前側の五所ヶ原や東山などは木地師や出作りが定着した集落であったと伝えられています。
しかし、廃村後、通る人も絶えて久しく、今は地名を残すだけで峠道にはひっそりと御地蔵さんが安置され、往時を偲ばせてくれるだけです。
2 峠下集落
(1) 五所ヶ原・東山(勝山市北谷町谷)
かつて、本村の北谷町谷から遠く離れた北方の東山・五所ヶ原・上ヶ原・奥ノ河内といった地籍に牛首村(白峰村)からの出作り集落が散在していました。
出作り農家には、季節的出作りと永久的出作りがありましたが、福井県側の出作り農家は、永久的出作りとよばれるものでした。
明治末期に測量した五万分の一の地形図には、これらの集落名がみられます。しかし、太平洋戦争前から徐々に離村が進み、現在は地名が残っているだけです。
また、北谷町谷は、かつて勝山町と牛首村とを結ぶ牛首道の中継地として運送業が盛んな地でした。
そして北谷地区の中心地だったのですが、昭和54年(1979)国道157号が五所ヶ原付近の地滑り地を避けて北谷町小原付近を通るようになると主要交通路からはずれ、過疎化が急激に進みました。
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明治末期に測量した五万分の一の地形図(北谷地区一帯) |
(2) 太田(白山市白峰)
加越国境にある取立山(標高約1,302m)の北から南北に延びる谷を太田谷と呼んでいます。
この谷川は、大道谷堂ノ森(白山市白峰)付近で大道谷川に合流しますが、かつて、この谷筋に牛首村からの出作農家が散在し大田村と呼ばれました。
大道谷堂ノ森からこの谷をさか上り、護摩堂峠を越えて越前側の五所ヶ原に出る道がありましたが、今では廃道となって久しく道筋も定かでありません。
3 峠の歴史
(1) 山岳密教の護摩堂があった?
歴史的史料が見当たらないので推測の域を出ませんが、峠名からみて山岳密教に使われた護摩堂が気になります。
護摩を焚くというのは、密教修法の一つで火を燃やして仏に供養祈願することであり、この焚く火の中に供物を投ずれば天がこれを食して人は果福を受けられると考えられています。
密教では最高の宗教的行事とし、昔から修験道の山伏が護摩堂をつくって盛んに護摩を焚いたといわれます。
こう考えて峠から少し上った護摩堂山(標高約1,152m)頂上から、改めて白山を眺めてみますと、正面に白山が大きく、かつ高く望まれ、白山遥拝に一番適したところでなかったかと思います。
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護摩堂山から眺めた白山 | 護摩堂山から眺めた白山 |
(2) 木地師・出作り人が往来した峠
峠道に関した歴史的出来事や経緯は、この峠の西方にある谷峠と同じようなものでなかったかと思います。
上杉喜寿著「峠のルーツ」には、中世、木地師達がこの付近の山で原木を求め、椀や鉢づくりなどをして五所ヶ原が開かれたと書かれてあります。
木地師達は、木地づくりの原木が不足するとその土地に見切りをつけ、他の土地へさっさと移動しました。
そこへ春になると白山麓の牛首から「出作り」達が簡単な生活用具と播種すべき種子を持って焼畑耕作を営み、次第に活動区域を広げつつ、江戸中期には法恩寺山中腹辺りまで進出しました。
現在、五所ヶ原など周辺の出作り集落は、すべて廃村となり無人ですが、五所ヶ原に昭和40年代頃(1965〜1974)まで残っていた15,6戸は、
加賀の風俗を慣行する者が多く、菩提寺も牛首村(現白山市白峰)にあって「出作り」達の永住定着者といわれていました。
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