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| 木地山峠 | 木地山峠 |
1 木地山峠(福井県小浜市上根来・滋賀県高島市朽木麻生) 福井県小浜市上根来(かみねごり)と滋賀県高島市朽木麻生(木地山)を結んだ百里ヶ岳(標高931m)北稜に位置した標高約660mの峠です。 小浜市上根来から近江へ越える峠としては、この峠より針畑越(根来坂)が有名で、江戸期、若狭の鯖を京都へ運ぶ商人たちで賑わい、鯖街道と呼ばれました。 木地山峠は、近江側の峠下に轆轤村があって膳、盆、銚子、木鉢などを生産したので、この辺りの木地師や近在の商人が往来したのでしょう。 木地山は旧村名を轆轤(ろくろ)といい、中世以来、明治初期に至るまで長く木地業が盛んだったところです。 また、木地山は近江の木地師根元地として知られた湖東小椋谷(おぐらたに)の蛭谷(ひるだに)が、 全国の木地師支配のため実施した氏子狩(うじこがり)で、常に、その奉加帳の筆頭に巡回した所です。 現在、この峠は廃道となって久しく、百里ヶ岳への登山者が通過するだけの山道になりました。 2 麻生坂(福井県小浜市池河内・滋賀県高島市朽木麻生) 福井県小浜市池河内と滋賀県高島市朽木麻生(木地山)とを結んだ標高約700mの峠です。 「若狭郡県史」に「池ノ河内村に麻生坂あり、近江・若狭の境界とす。」とあり、 小浜市池河内から滋賀県高島市麻生(木地山)へ越えた峠で、別名「池ノ河内越」といいました。 小浜市池河内から1kmほど進んだ追分から左岸の谷道を30分ほど上ると左手に「三番滝」が見えてきます。 滝を過ぎる頃から峠道は急坂になり、峠を越えて木地山へ延びる尾根を下っていく道筋がありました。 しかし、この峠道も現在は登山者が利用するだけで、道筋のはっきりしない山道になりました。
3 峠下の集落 (1) 上根来村(福井県小浜市上根来) 若狭を流れる北川の支流、遠敷川の最上流域に位置した村で、現在の小浜市上根来にあたるところです。 「根来」という地名の由来は定かでなく、朝鮮語のネ・コーリ(あなたの古里の意)からきているという説があります。 上根来は、その上流部という意味で名付けられたのでしょうが、戦国期の記録に地名として出てきます。 遠敷谷の最奥部に位置し、耕地に恵まれなかったため、炭焼きや林業を主な生業とし、葛なども生産しました。 江戸期、遠敷郡内の上根来村として小浜藩領に属し、村高は約60石でしたが、いつの頃からか、中ノ畑と上根来(段・団)の2集落に分かれ、 中ノ畑は独立して取扱われることが多かったため、明治7年(1874)正式に上根来村から分村しました。 明治22年(1889)、上根来として遠敷村の大字となった頃は、戸数33、人口188人で、昭和26年(1951)小浜市の大字名になりました。 当村から近江へ通じる道は、木地山峠を越えて轆轤村へ至る道と針畑越(根来坂)で針畑村へ向かう二つの道がありました。 (2) 轆轤村(滋賀県高島市朽木麻生・木地山) 近江の湖西へ流れる安曇川の支流、麻生川の上流域にあった村で、西にある江若国境の 木地山峠を越えて上根来村(福井県小浜市上根来)と、麻生坂を越えて池河内村(福井県小浜市池河内)と結ばれていました。 当村の石高は、江戸初期の寛永石高帳(1624〜1643)には41石余のほか1貫322文と記され、 慶安高辻帳(1648〜1651)には田方23石余、畑方18石余のほか小物成銭1貫322文とあります。 集落名のとおり、木地師達が近江の愛知郡蛭谷村(滋賀県神崎郡永源寺町)から移住して住み着き、膳、盆、銚子などを製作して各地へ売捌いた所です。 また、領主朽木氏の命を受け、盆及び銚子を製作したので、管内至る所の橡(トチ)及び山毛欅(ケヤキ)の材木伐採が許されたといいます。 木地師の氏子狩は、天正14年(1586)ここで初めて行われ、戸主数21が記されています。 このため氏子狩には、常に帳始めとして筆頭に巡回を受けました。 しかし、最盛期には80戸ほどあった村も、天保飢饉(1834〜1837)により8戸にまで減少したといわれます。 明治7年(1874)東隣の横谷村とともに麻生村に合併し、現在は木地山と呼んでいます。
(3) 池河内村(福井県小浜市池河内) 若狭を流れる北川の支流、松永川の最上流域に位置し、大部分が山林地域です。 当村は若狭国遠敷郡内にあり、室町期から集落があったと推定されますが、平家の落武者が開いたという伝承も残っています。 江戸期は小浜藩領に属し、村高73石余、家数82、人数412とあり、いつ頃からか麻生坂を越えて近江の轆轤村へ通じていました。 広大な山林を持ち、杣役として他の村々と関係を保ち、また、萱場の出入をめぐって他の村々と取決めを交わしていました。 山村で石高が少ない割に戸数が多いのは、ほとんど林業によって生計を賄っていたからと思われます。 明治9年(1876)の田14町、高133石、畑3町3反、高12石、山林261町2反、明治22年(1889)松永村の大字、この頃の戸数69、人口344とあります。 昭和26年(1951)小浜市の大字になり、昭和30年(1955)の戸数65、人口307人でした。 |
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| 小浜市池河内から木地山峠方面へ向かう林道 | 池河内林道の終点付近 |
3 峠の主な歴史 (1) 木地師が利用した峠道 木地師(注1)が木地挽きをする所を、多くは木地山と呼び、若狭の上根来村や池河内村から木地山を越え、 近江の轆轤村へ向かった峠でしたから、この名がつきましたが、「木地山峠」というのは、各地に見られます。 たとえば、加越国境の勝山市北谷町にも「木地山峠」がありますし、中国山脈の脊嶺を挟んで岡山・鳥取・島根の県境にもあります。 木地師達は、需要に応じて原木を求め、各地を移動して歩くうち、中国地方まで進出したと考えられます。 椀や盆づくりの原料になる材木が豊富であれば、腰を据えて定住する場合もあったでしょうが、 多くは10年ないし15年で原木を使い果たすと、新天地を求めて移動しました。 この移動には、木地師の先遣隊ともいえる「先山」が調査方々探し回り、適地が見つかると家族や仲間を呼び移動しました。 近江の「高島市朽木(旧朽木村)」には、昔から麻生谷と小入谷に二つの木地師集落があり、この辺で稼動した木地師を総称して麻生木地師といい、昔から重きをなしました。 (注1)木地師 木地の挽き物をつくっていた人を木地師、轆轤師といいました。13世紀の鎌倉期には、木工から分化していたといいます。 木地師の中には木材に恵まれた各地の山村に集落をつくり、椀、盆、杓子、こけしなどの日常生活用具を作った者が多かったようです。 なぜか、木地師は文徳天皇の皇子、惟喬親王(注2)を祖神とする伝承をもっており、 近江の愛知郡東小椋村(神崎郡永源寺町)の君ヶ畑と蛭谷(ひるたに)とが発祥地とされます。 鎌倉期以来の木地屋文書を持ち、職人として独特の習俗を残し、小椋、小倉姓を名のる人は、木地師に縁がある人といわれ、各地に分布しています。 木地師は轆轤師とも云われますように、挽き物の道具として、日本の古い工作道具の一つである横軸で一人挽きの手挽き轆轤を使っていました。 (注2)惟喬親王(これたかしんのう) 平安時代の承和11年(844)〜寛平9年(897)に在世した文徳天皇の第一皇子です。 当初、天皇は惟喬親王を皇太子にしようとしましたが、皇后藤原明子に惟仁親王が生れたため、 外戚の藤原良房をはばかり、嘉祥3年(850)惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にしました。 天安元年(857)14歳で元服し、四品(しぼん)を授けられて太宰帥(だざいのそち)、弾正尹(だんじょうのかみ)などを歴任しました。 貞観14年(872)病のため出家し、比叡山麓の小野に幽居したといわれています。 (2) 木地師の故郷 近江の八風街道に沿って流れる愛知川の支流、御池川沿いの小椋谷に蛭谷、君ヶ畑という二つの集落があります。 ここが江戸期、全国に展開する木地師の元締めとして重要な役割を果してきた所です。 彼等は移動性を有する職人であり、原料となる木材を求めて各地を渡り歩き、製作に従事しました。 原材料が不足すると移動するのを常としたため、諸国通行を可能とする往来手形やその裏付けとなる天皇の綸旨、武家の免状などを携帯していました。 江戸期、これらの文書(又は写し)を全国の木地師に発行し、また、技術保存に有利な同族婚姻を斡旋するなどして、 その代償に「氏子狩(うじこがり)」と称し、奉加料、烏帽子着料などを徴収していたのが蛭谷、君ヶ畑でした。 他方、平安前期、文徳天皇の皇子、惟喬親王が皇位継承の望みを断たれ逃亡し流浪、小椋谷に隠棲して 土地の人々に轆轤を用いた木地椀などの製法を教授したとの伝承を根拠に「氏子狩」は16世紀には開始されていたようです。 もとより、この地は中世、小椋荘(摂関家領)の領域だったところで、蛭谷、君ヶ畑は建築用木材の伐採、搬出を生業とする杣(そま)に属しました。 律令制のもと中央、地方の官衙や寺院に所属した諸職人が律令制の崩壊とともに、 その職能を元手に自立していくなかで、木工職人が材料を求めて、こうした杣に来着したと想像されます。 このように中世、椀、盆など生活雑器の製作技術が、この地で発展し製作職人を輩出する素地が存在したわけです。 しかし、ここが木地師発祥の地であることを周囲に認知させていくまでには、多くの政治的労力を要したと思われます。 近隣の大君ヶ畑(滋賀県多賀町)との争論は著名であり、また、各地の木地師も以仁王、安徳天皇、平家一門などと、それぞれ祖先伝承を有していたからです。 いうまでもなく惟喬親王が、この地に隠棲したことを確かめることは至難であり、歴史上、親王の隠棲理由は病であり、隠棲地も比叡山の小野とするのが通説です。 しかし、「氏子狩」が機能し、多くの木地師が小椋氏(又は大岩氏)を称していることも、また事実です。 悲運の皇子は、木地師の神として、再び歴史上の役割を与えられることになったわけです。 |
| 主な参考文献 角川日本地名大辞典18福井県 角川書店 角川日本地名大辞典25滋賀県 角川書店 日本歴史地名大系 滋賀県の地名 平凡社 鯖街道 向陽書房 越前若狭峠のルーツ 上杉喜寿著 越前若狭歴史街道 上杉喜寿著 「福井県史」通史編 1 中世 福井県 近江・若狭と湖の道 藤井譲治編 |
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