3 峠の歴史
(1) 古代、律令制下の駅家(淑羅駅〜阿味駅)を結んだ峠道?
日野川の中流域、蓮光坊山(標高374m)の東麓に鯖波(南越前町)は位置し、古くは済羅(さわあみ)と呼ばれ、
南北朝期(1331〜1392)に「済羅」から「鯖並」となり、江戸期(1596〜1867)に「鯖波」という地名になりました。
この鯖波は古くから軍事、戦略、交通上の要地として重視されましたが、
それは官道北陸道、若狭脇往来、牧谷越(朝倉街道)が当地で合流していたからです。
一説に律令制下の官道北陸道は、鹿蒜駅(かえるえき)から淑羅駅を経て阿味駅(あじまえき)へ向かったという説があります。
古代北陸道は鹿蒜駅(南越前町南今庄付近に比定)から今庄・湯尾峠を越えて淑羅駅(しくらえき)に至りました。
この淑羅は「シラギ」「シラク」と読み、昔、日野川は淑羅川と呼ばれたようですし、
今庄には新羅神社があって日野川上流は渡来人(新羅人)と係わりの深かった地域と言われます。
この日野川に近接した集落が「鯖波」であり、鯖波は古代「淑羅川の村」と呼ばれたのではないか、
だから鯖波に置かれた駅を淑羅駅と名付けたという学者の解釈です。
他方、「延喜式」の写本に「淑羅」は「済羅」と書き、サハアミと読んで鯖波に比定するという説もあります。
また、鯖波には官道北陸道のほか、古来、杉津浦(敦賀市)、比田浦(敦賀市)から山中峠(敦賀市・南越前町)の北斜面を伝って、
或いは河野浦(南越前町)から河野川を遡って菅谷(南越前町)を経由し、ホノケ山の北斜面を上って菅谷峠(標高572m)を越え、
奥野々(南越前町)から鯖波へ出る若狭脇往来という道、それと日野川(新河原の渡し)を渡り、
牧谷(南越前町)から日野山の東方鞍部にある牧谷峠(標高488m)を越え、味真野(越前市味真野地区)に到る牧谷越の道がありました。
味真野郷に阿味駅(あじまえき)があった説を採りますと、このルートは官道北陸道から
丹生駅を経由せず、淑羅駅から阿味駅へ直接向かう近道であったと考えられます。
味真野周辺は継体伝承の多い地域で、白鳳期(671〜685)の建立といわれる野々宮廃寺もあり、かなりの権力をもった豪族が存在したと考えられます。
また、中臣宅守(なかとみのやかもり)(注1)が流された地であり、武生に国府が置かれる以前から味真野は、
この地方の中心的位置にあったことは間違いなく、一駅を置く必要があったのではないでしょうか。
注1:中臣宅守(生没年不詳)
中臣東人の七男、万葉歌人で右大臣になった中臣清麻呂は伯父になる。都の役人だったが、天平10年(738)越前国味真野へ配流となる。
罪状は万葉集巻十五目録によれば蔵部の女嬬狭野芽娘子(さののちがみおとめ)との結婚が原因とされる。
天平13年(741)9月、前年の恭仁京遷都に伴う大赦で流人すべてが赦免され、この時、宅守も帰京を許されたと思われる。
天平宝字7年(763)1月、従六位上から従五位下に昇叙されたが、翌年、恵美押勝の乱に連座し除名されたという。万葉集巻十五に40首の歌を載せる。
越前市余川町にある越前の里味真野苑入口の記念石碑や広場中央の比翼の岡の石碑に二人の相聞歌が刻まれている。
狭野弟上娘子の歌「味真野に宿れる君が帰り来む 時の迎へを何時とか待たむ」
狭野弟上娘子の歌「君が行く道の長手を繰り畳ね 焼き滅さむ天の火もがも」
中臣宅守の歌「塵泥(ちりひじ)の数にもあらぬ我故に 想ひわぶらむ妹がかなしさ」
 |  | 味真野神社(鞍谷御所址) | 鞍谷御所土塁跡 |
(2) 中世、牧谷越への朝倉街道(軍用道)
文明3年(1471)5月、朝倉孝景(敏景)は越前守護職として一乗谷に館を構えました。
この頃、越前支配のため兵員や兵糧を速やかに移動できるよう各地に軍用道、いわゆる朝倉街道を整備、改修していました。
その一つ牧谷越えは、鯖波(南越前町)より新河原の渡しで日野川を渡り、黒山(標高174m)を回り
牧谷峠を越えて萱谷(越前市)、五分市(越前市)、粟田部(越前市)を経て一乗谷(福井市)を結ぶ軍用道でした。
この軍用道は、一乗谷から東郷(福井市)、成願寺の渡しで足羽川を渡り、河水(福井市)、坂下(福井市)を経て
小畑坂を越え下吉野(永平寺町)、松岡(永平寺町)を通って鳴鹿の渡しで九頭竜川を渡り丸岡(坂井市)へ通じる道でもありました。
こうして越前のほぼ中央を南北に通る官道北陸道に並行して軍用道を整備し、
一朝有事の際、機動力を使った軍勢を迅速果敢に各地へ移動できるようにしていました。
そして道筋の要所要所に一族、家臣を配置して国内支配体制を固めていましたが、
この峠下の味真野郷池泉(越前市)には鞍谷氏を置き、池田道(県道菅生武生線)へも目を光らせました。
鞍谷氏は足利将軍家の連枝で、応仁の乱(1467〜1477)の原因にもなった斯波義廉の子息である
斯波義俊が越前に迎えられ、朝倉氏名目上の守護として当初、一乗谷に居住しましたが、文明18年(1486)頃、この地に居館を構えたといわれます。
子孫は代々鞍谷氏を名乗り、朝倉氏と婚姻関係を結びながら、右兵衛嗣俊(うひょえのすけつぐとし)、掃部頭嗣時(かもんのかみつぐとき)、
鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶたいふつぐとも)と三代続き、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係を結んでいったようです。
その館址が現在、味真野神社(越前市池泉)の境内に、往時の土塁を残したまま「鞍谷御所址」として伝わっています。
(3) 五箇へ「木灰」を運んだ峠道
灰坂峠で詳しく紹介しましたが、大桐(南越前町)、菅谷(南越前町)では中世から「木灰」を生産し、
一部は染物用として北陸道から府中(越前市)へ運び、一部は製紙用に使うため牧谷峠を越えて五箇の大滝や岡本方面(越前市)へ運びました。
木灰が有する「灰汁」を利用して染物や紙を漂白したもので、上質の紙漉きに木灰は必需品でした。
 |  | 日野山を遠望する | 日野を山遠望する |
(4) 日野山信仰の登山道
日野山(標高795m)は越前市と南越前町にまたがる、養老2年(718)泰澄によって開山された越前五山の一つに数えられる山です。
越前五山とは白山、越知山、文殊山、蔵王山、日野山の五山を指します。
味真野名勝志には「日野山を小健山(おだけやま)とも雛ヶ岳(ひながだけ)ともいう、味真野皇子の御子、安閑・宣化二帝、
当国に誕生し給う故、即位の後、この両帝ならびに継体天皇を、この山に崇ひ奉る。これを日野山三所権現という。
然るにいつ頃からか文殊、観音、不動の両部を合祀し、7月23日より25日まで例祭を執行、国内の群集参拝す。」とあります。
日野山登山口の一つに古くから牧谷口、萱谷口があり、双方とも牧谷峠を経て頂上への道が開けていたようです。
この登山も平成年間に入り、7月下旬の土曜日夜半からに変更されたようです。
(5) 真宗出雲寺派本山毫攝寺(ごうしょうじ)への参詣道
毎年、親鸞聖人命日の8月27日〜28日、五分市本山の毫攝寺(注2)で盛大な大寄り(盂蘭盆会後会)が夜通し行われます。
この日、檀家の人は勿論、近郊近在から大勢の人達が参詣し、境内では夜通しの盆踊りが輪をつくり、多数の露天商が店を出して老若男女で賑わいます。
この大寄りに昭和30年(1955)頃までは今庄町・南条町に住む大勢の人達が牧谷峠を越えて参詣したといわれます。
現在、峠下の両側に林道が通っていますが、峠付近は廃道になり峠を越えることはできません。
注2:毫攝寺(越前市清水頭町2-9)
当寺は真宗出雲寺派の本山で、天福元年(1233)宗祖親鸞聖人が京都上加茂、下加茂の間にある出雲路に一宇を草創されて以来、
第5世善幸上人の御世、歴応元年(1338)に越前国水落の辺り山元の庄(鯖江市神明町)に移転されました。
ここに第11世善秀上人の御世に至るまで在住しましたが、同上人には御法嗣がないため京都柳原大納言から嗣子を迎え第12世善照上人として法灯を継がれました。
慶長年間(1596〜1614)善照上人の御世に現在地、味真野地区清水頭に移転し、漸次、諸堂の再建成り、徳益広く伝わり宗勢栄え、法灯連綿として今日に伝承されています。
なお、当寺は光明天皇、後柏原天皇及び後陽成天皇から勅願所の綸旨を賜っているほか昭憲皇太后の縁もあり、明治天皇の御料物が蔵されているなど由緒ある寺院です。
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