



 |  | 小原峠と祠 | 小原峠付近の道 |
1 小原峠(福井県勝山市北谷町小原)
滝波川の上流、勝山市北谷町小原と石川県白山市白峰(三ッ谷)との間にある標高約1,306mの峠です。
峠名は峠下にある小原集落によります。
峠の位置はこちらです。
また、この峠は川上峠、雉子上峠、のぞき峠ともいわれたようで、川上峠は川上御前にちなみ、
雉子上峠は泰澄が白山開山のおり、道に迷い難儀していると三本足の白雉が飛来して道案内をした故事によるといいます。
のぞき峠の由来は不明ですが、一説では、この峠から白峰側に下る際、下を覗くような急坂だったからともいわれます。
「名蹟考」には「平泉寺より此峠まで六里、小原より三里と云ふ。峠より少し下りて、三谷に至る。」とあります。
三ッ谷、赤谷、市ノ瀬の3集落(現白山市白峰)は河内と呼ばれ、江戸期まで平泉寺が支配する白山権現領でした。
白峰から峠を越えて木鍬など木製品が運ばれ、勝山からは米、塩、酒などの消費物資が越えました。
しかし、近世に谷峠が開かれると加賀への通行者を奪われ衰退していきました。
大正13年(1924)白峰(牛首)と市ノ瀬との間の車道が開通すると小原峠は利用されなくなり、その役目を終えました。
加越国境の赤兎山(標高1,628m)の北の鞍部に当たり、現在は登山道に利用されています。
2 峠下集落
(1) 小原(勝山市北谷町小原)
滝波川の上流域、北を取立山(標高1,307m)、南を高倉山(標高973m)に挟まれた渓谷に位置する集落です。
当地は、かつて越前国大野郡に属し戦国期に村名が見え、天正2年(1574)平泉寺を滅亡させた一向一揆の一大勢力七山家の1つです。
一揆の一隊は、ここから尾根伝いに平泉寺の背後に回り、これを焼亡させたと伝えられています。
また、当地の人達は牛首・風嵐(白峰村)から移り住んだ平家の落人の村であるといいます。
草分けを七人衆と呼び、最盛期には90戸までになりました。
狭い谷底の斜面を利用し、高い石垣を積み建てられた家も様式が違って珍しく、木地師の子孫もいたのか鉢物や臼、まな板も作っていました。
江戸期、はじめは福井藩領、寛永元年(1624)から勝山藩領、正保元年(1644)幕府領福井藩預り地、
貞享3年(1686)幕府領直轄地、元禄5年(1692)から美濃郡上藩領になりました。
村高は正保郷帳で田方45石余、畑方45石余の計90石余とあり、宝暦5年(1755)の下郷明細帳には家数35、人数176(男111女65)、馬2とあります。
村内には浄土真宗東本願寺末で加賀石川郡松任の本誓寺を旦那とする道場が1軒あり、氏神は白山権現です。
白山麓に広く分布した出作りと呼ばれる山の斜面を利用した焼畑耕作地でもありました。
明治初年の「足羽県地理誌」によれば戸数84、人口390(男193女197)馬5、牛3、田畑5町1反余とあります。
明治22年(1889)北谷村の大字、昭和29年(1954)からは北谷町を冠称して勝山市の大字となりました。
第2次大戦後は山村豪雪地帯であることから過疎化が進み、平成元年(1989)には戸数17、人口42となりました。
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 |  | 白山麓の出作り小屋 | 焼畑耕作風景 |
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(2) 白峰(三ッ谷)(石川県白山市白峰)
手取川上流域、加越国境の尾根を水源とする東俣谷川、中俣谷川、西俣谷川が西高山(標高1,189m)の東方
で合して三ッ谷川となり、市ノ瀬から約1.5km下方で牛首川に合流しています。
この3河川の合流点付近に、かつて出作り小屋を主体とした白峰の小字三ッ谷集落が散居し、合流点対岸には小字赤岩集落が散居していました。
「出作り」とは山に囲まれ平地が極めて少ない白山麓などでは、山間部に点在する平坦地や傾斜地の緩やかな場所に農地を求めて
農耕期(5〜11月頃)は出作り小屋で暮らし、農閑期(12月〜4月頃)に村へ帰った山の民の生活様式の1つです。
当初は「季節出作り」が一般的で、一種の二重生活をしていましたが、次第に厳しい冬も出作り小屋で暮らす「永住出作り」が盛んに行われるようになりました。
こうして「出作り」は、古くから昭和の初め頃まで白山麓を中心に石川・福井・岐阜などの中部一帯に分布していました。
西俣谷川の水源にあたる小原峠は、平安期から白山中宮越前馬場平泉寺からの禅定道で、この川筋を通って市ノ瀬へ通じていました。
また東俣谷川と中俣谷川の間の尾根筋を通って大野市上打波小池に抜ける杉峠がありました。
三ッ谷には「丈六堂」というお堂があって、室町中期製作の金銅製十一面観音の懸仏と石仏が祀られ、また中世の頃は「新助小屋」という旅宿もあったといいます。
しかし、昭和36年(1961)8月の北美濃大地震で三ッ谷集落全戸が離村することになり、
昭和38年(1963)7月、仏体は白峰村(現在の白山市白峰)の八坂神社に併祀されました。
3 小原峠の歴史
(1) 白山十二宿禅定道の第六宿「伏拝み」
この峠は、前記のとおり平泉寺から白山登拝十二宿禅定道の第六宿めの「伏拝み」に当りました。
伏拝みとは「遥拝」のことで、中世修験道において山頂にいます神々に礼拝する際、地面に叩頭し三拝したことによります。
また、この付近は「雉子上(きじがみ)」ともいわれ、標高1,306mに及びますが、往古、平泉寺衆徒や修験者或いは白山講中の人達が群れをなし往来したといわれます。
この「十二宿禅定道」は、越前馬場とも呼ばれましたが、勝山の平泉寺を起点に
法音教寺山(現在の法恩寺山)に登って和佐盛平(注1)へ下り、再び小原峠を越えて三ッ谷へ下り、市ノ瀬から白山本峰を目指した登拝道をいいました。
白山への禅定道は、この外に加賀からと美濃からのものと三本あって、これを三馬場と呼びました。
この禅定道も一向一揆によって平泉寺が滅亡すると法音教寺山越えのルートに代って、
小原村からの道が利用され、これも時代が下って谷峠から牛首村へ回る道に代っていきました。
注1:和佐盛平
勝山市北谷町小原から小原峠へ向かう途中、和佐盛平という地名があり、昔は小原村からの出作りがあったところです。
また、この近くで銀が採掘されたことから、最盛期には鉱夫長屋90戸、女郎屋もあったと「越前地理指南」に書かれています。
幕末から明治初年にかけて後藤象次郎が銀山を経営したといわれ、和佐盛平には製錬の際に出た鉱糞(かなくそ)が土中から掘り出されるそうです。
かつては鉱坑の入口もあったようですが、昭和36年(1961)の北美濃大地震で潰れてしまったそうです。
当時、鉱山製錬用の木炭を焼くために多くの木を使用したため、この辺りでは大きな古木がありません。古文書によると銀山採掘は、寛文5年〜6年(1665〜1666)でないかと考えられています。
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主な参考文献
角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
角川日本地名大辞典17石川県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ 上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ 上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道 隼田嘉彦・松浦義則編著 |
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