3 峠の歴史
(1) 源平合戦で両軍が進んだ峠道
平安末期、源平合戦が始まると、越前の地も戦闘の舞台になりました。
治承4年(1180)4月、後白河法皇の皇子以仁王の出した平家追討の令旨に呼応し、伊豆で源頼朝が、信濃で源(木曽)義仲が挙兵しました。
義仲が北陸道を進撃すると越前以東の諸国の武士は、その陣営に参加しましたが、その中に越前の斉藤一族もいました。
こうして北陸は義仲の掌握下に入り、義仲勢は越前に燧城(南越前町今庄)を築きました。
この城は日野川西岸の藤倉山東端に位置し、周りを高山が囲んで眼下に日野川と鹿蒜川が流れる要害の地でした。
ここに平泉寺長吏斉明・稲津新介ら6,000余騎が籠り、両川の合流点に大木を倒し柵をかけ、大石を重ねて川をせき止め、湖のようにして防護しました。
これに対して寿永2年(1183)4月、平惟盛は10万の大軍を率い義仲追討に向かいました。このうち東近江路を進んだ別働隊は、片山・飯浦、塩津、杉箸、
能美峠(当時、杉箸から椿坂峠に出る道を能美越といい、椿坂峠を能美峠と呼んでいた)、栃ノ木峠を経て鹿蒜山で西近江路を進んできた本隊と合流しました。
しかし、鹿蒜山まで進んだ平家軍は湖のようになった川を渡河できず進撃することもできませんでした。
ところが、義仲側に味方した平泉寺長吏斉明が密かに平家方に内通し、柵を切れば水は落ちると知らせたため、
平惟盛はそれに従い燧城に攻入り、城を落として一気に加賀まで勝ち進みました。
その後、平惟盛が率いる平家軍本隊7万騎は加賀と越中の境に位置する倶利伽羅山を越中へと進み、
搦手として平通盛・知盛が3万騎を率いて能登の志雄山(志保山)へ向かいました。
これに対し越後から越中に出てきた義仲は、4万騎を6隊に分け、平家軍本隊を倶利伽羅峠で夜中に奇襲し、谷へ落として撃滅することに成功しました。
倶利伽羅峠で敗れた平家軍は、命辛々、散り散りになって加賀、越前の各地へと敗走し、
この峠道を通って都へ逃げた兵もいたでしょうが、加越国境や美濃国境の山中に隠れた兵も多数いたことと思います。
これを追う義仲軍も今庄から、この峠道を越えて中河内、能美山、柳ヶ瀬、高月へと出たといいます。
(2) 南北朝戦で新田義貞軍が進んだ峠道
延元元年(1336)10月上旬、恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞は、比叡山をあとに進路を北陸道(西近江路・七里半越)にとって敦賀へと向かいました。
ところが、斯波(足利)高経の軍勢に近江・越前国境を固められ、北陸道(七里半越)の進路を断たれました。
新田義貞軍は、やむなく東に迂回し、当時、間道であった険しい山越えの栃ノ木峠から木ノ芽峠に出て、北から敦賀の金ヶ崎城に入ることにしました。
この年は、例年になく寒冷な年で、風まじりに雪の降る厳しい初冬の山越えは義貞軍を苦しめ、凍死する者が続出したといわれます。
また、従軍した河野通治らは義貞軍の本隊と逸れたところを河口荘の悪党に襲撃され討死し、
千葉貞胤も斯波高経に降参するなど義貞軍にとって疲労困憊した進軍でした。
こうして、やっとの思いで10月13日、栃ノ木峠から木ノ芽峠を越えて敦賀に到着することができたといわれます。
(3) 朝倉教景が軍勢を率いて進んだ峠道
戦国期、京極氏に代わって江北を支配した浅井氏は、三代50年にわたって小谷城を居城にして勢力を誇示しました。
この小谷城(滋賀県東浅井郡湖北町、浅井町)の正確な築城年代は不詳ですが、一説に永正13年(1516)頃といわれます。
この頃、浅井亮政は京極氏の実権を握り、江北地方の支配者として戦国大名の地位を固めつつありました。
しかし、江南で勢力を伸ばしていた戦国大名六角氏の度重なる侵攻に悩まされました。
このため越前朝倉氏と同盟関係を結び、これを背景に領国を保持していました。
こうして浅井氏と朝倉氏との関係は深く小谷城の築城にも朝倉氏が技術援助して城を築いたといわれるように両者は密接な関係にありました。
永正14年(1517)9月、六角氏の侵攻を受けた浅井氏は、直ちに越前朝倉氏に援軍を要請しました。
これに応えて同年9月27日、朝倉教景は8,000騎を率いて栃ノ木峠から椿坂峠を経て柳ヶ瀬に着陣し、浅井氏に加勢しました。
(4) 越前一向一揆勢が柵を設け防御陣を敷いた峠道
天正3年(1575)8月、越前一向一揆勢は織田信長勢の越前侵入を防ぐため、
板取(虎杖)に城を構えて下間和泉が守備する一方、栃ノ木峠に柵を設けて防御陣を敷きました。
しかし、信長旗下の佐久間信盛、不破河内守らの率いる1万の大軍が柵を押しつぶして峠を駆け抜け、板取城(虎杖城)を潰しました。
(5) 北ノ庄城主柴田勝家が大改修した峠道
天正3年(1575)9月下旬、越前・加賀一向一揆を平定した織田信長は、論功行賞を行い、
越前8郡49万石を柴田勝家に、大野郡のうち3分の2を金森長近に、3分の1を原政茂に、
府中の周囲2郡を不破光治・佐々成政・前田利家に、敦賀郡を武藤舜秀に任せ、勝家を北ノ庄において北国の総轄を命じました。
勝家は北ノ庄を整備する一方、天正6年(1578)北庄から信長の安土城へ参勤するため最短距離の栃ノ木峠を越える間道を大改修しました。
とくに栃ノ木峠から南椿坂に至る間道は、当時、人馬の交通が困難であったため道幅3間(約5.5m)、縁3尺ずつ、
両側の側溝3尺ずつ、土場6尺ずつ、都合道路敷7間(約12.4m)の道に改修したので、大いに交通が便利になったといいます。
 | 賎ヶ嶽合戦の両陣営配置図 |
(6) 賎ヶ嶽合戦・柴田勝家が敗走した峠道
天正10年(1582)6月、本能寺の変によって織田信長が自害すると柴田勝家と羽柴秀吉の対立が表面化しました。
翌11年(1583)3月、北陸の雪解けを待ちかねたように柴田勝家軍の佐久間盛政・安政、
柴田勝安、前田利家、不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現が北ノ庄を進発しました。
やがて勝家も北ノ庄をたって近江伊香郡柳ヶ瀬に本陣を構えました。
すでに2月中旬より秀吉の大軍が、勝家と結んで伊勢の長島・桑名などの城に籠城する滝川一益の攻撃を開始していたからです。
勝家軍総勢2万8,000人に対して、秀吉軍は、かねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢2万5,000人を
余呉湖周辺に配置していましたが、勝家が出兵したことを聞くと秀吉は、滝川攻撃を織田信雄に任せ、3月17日近江へ戻りました。
この後、若狭口などで小競り合いがありましたが、両軍睨み合いのまま日が過ぎていきました。
一度は秀吉に降伏した岐阜城の織田信孝が兵を挙げたため、秀吉は4月16日、自ら兵を率いて美濃へ向かいました。
これを察知した佐久間盛政は秀吉方の部将中川清秀の守備する大岩山まで密かに侵入し奇襲攻撃を敢行する作戦
を勝家に進言し、勝家は大岩山攻略の後は直ちに兵を返すことを条件にこれを許可しました。
4月20日未明、佐久間盛政・安政など8,000人の軍勢は、敵に察知されることなく大岩山を攻撃し守将中川清秀を討ち取りました。
さらに賎ヶ嶽を守備していた桑山重晴も降伏させるまでに追い詰め、勝家軍の奇襲は成功したかに見えました。
この戦の優勢な推移に佐久間盛政は勝家との約束を無視し大岩山で一夜明かすことにしたのです。
大岩山に駐留したのは、美濃へ出兵した秀吉軍が、まだ引き返しては来ないだろうと判断したものです。
4月20日昼過ぎに大岩山攻撃を知った秀吉は、美濃大垣城より52kmの道程を、わずか5時間で引き返してきました。
当時では信じ難いような機動力を発揮し、翌4月21日午前2時頃から2万人の軍勢を率いて佐久間盛政追撃戦に移りました。
佐久間盛政は、なんとか権現坂まで撤退しましたが、後世、賎ヶ嶽の七本槍として知られる
秀吉軍の猛兵の追撃を受けた柴田勝安(三左衛門)軍も大きな打撃を受け盛政軍に合流しようとしていました。
しかし、昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光も戦場から遁走を始めました。
これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長軍と戦っていた勝家本隊も兵が減少し、秀吉軍と決戦を挑むことができない状態になりました。
そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代わりとして奮戦している間に勝家は栃ノ木峠を越えて北ノ庄へと落ち延びました。
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