



 |  | 湯尾峠から見た湯尾の町並み | 湯尾峠付近の峠道 |
1 湯尾峠(福井県南越前町湯尾・今庄)
南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にあった標高約200mの峠です。
峠名は峠下にある湯尾に由来しますが、昔は柚尾の峠とも書かれています。昔から北陸街道がこの峠を通り交通、軍事上の要地でした。
江戸期には峠の頂上に4軒の茶屋があって、にぎやかに商売を営み、また御利益の多い疱瘡神の孫嫡子御守札を配布していました。
明治20年(1887)に海岸部に敦賀と武生を結ぶ敦賀街道が開通し、また明治25年(1892)には
峠下に新道ができ、さらに明治29年(1896)には北陸鉄道(北陸本線)が開通して急激に寂れました。、
2 峠下集落
(1) 湯尾(南越前町湯尾)
日野川と田倉川の合流域に位置した集落で、日野川に注ぐ湯尾谷川の上流、ホノケ山麓にある
通称湯尾谷が温泉の湧出地で、その川下に集落が形成されたのが地名の由来といわれます。
中世、鎌倉期から戦国期は柚尾村(湯尾とも書かれた。)とあり、越前国南仲条郡に属しました。
近世、江戸期は越前国南条郡に属し福井藩領となって、駅馬20匹を有する宿場として北陸街道沿いに町並みを形成しました。
「正保郷帳」には柚野尾村と記され、村高は田方1,302石余、畑方209石余の計1,511石余とあります。
山口武兵衛家が加賀藩本陣を兼ね、北隣の山内治郎左衛門家とともに問屋業も営んでいました。
問屋は当初5軒でしたが、その後7軒となり交替制になりました。
宿場のほぼ中央を湯尾谷川が流れ、同川を挟んで上湯尾村と下湯尾村に分かれていました。
沿道には旅籠、茶屋が軒を並べ、旅人に名物の湯尾餅やとろろ汁などを売り、馬子唄が聞かれたといわれます。
宿場人足は廻り番で毎日25人あてが問屋場に詰めていました。
湯尾宿と今庄宿の間に湯尾峠があり、登り口には湯尾神社があり、また下湯尾村には日吉神社がありました。
明治初年(1868〜1877)の人力車時代が湯尾宿の最盛期といわれています。
明治11年(1878)の戸数185、人口827でしたが、その後は大火と明治20年(1887)敦賀街道の開通などにより衰退しました。
明治22年(1889)湯尾、八乙女、燧、社谷の4ヶ村が合併して湯尾村となりました。
昭和23年(1948)国鉄北陸線の湯尾駅が開業し、昭和30年(1955)南条郡の
自治体名である湯尾村、今庄村、宅良村、境村が合併して今庄町の大字となりました。
平成17年(2005)1月1日、旧今庄町、南条町、河野村が合併して南越前町となり、その大字になりました。
現在の湯尾に往時の面影はほとんど残っていませんが、湯尾峠はその雰囲気をよく残しています。
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 |  | 湯尾尾峠にある芭蕉句碑 | 今庄町街道風景 |
(2) 今庄(南越前町今庄)
今庄は日野川の上流域、鹿蒜川、田倉川が合流し、山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠の道が当地で合流する軍事、交通の要地として栄えてきました。
古代、この地域は淑羅(しくら)と呼ばれましたが、荘園づくりが盛んだった頃、
この地方に新たな荘園ができたことから「今庄」と称するようになったのが地名の由来です。
今庄は中世に宿場が形成され始め、天正3年(1575)頃、赤座吉家が新道から今庄に居館を移転後、城下町の町並みが発達しました。
しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に与した赤座吉家が追放された後、
慶長6年(1601)越前へ入国した結城秀康の街道整備によって北陸街道(北国街道)の宿駅として発展しました。
享保10年(1725)郷村帳によると駅馬24匹を備える福井庄、金津、府中に次ぐ大宿駅になっています。
福井藩の本陣は後藤覚左衛門家、加賀藩の本陣は北村新兵衛家(福井藩の脇本陣)らが勤めました。
特に後藤家は大庄屋職を勤めるとともに丸岡、鯖江など諸藩の人馬取仕切りも統轄していました。
天保年間(1830〜1843)今庄宿の戸数290余、人口1,300余であり、旅籠55、茶屋15、酒屋15、娼家2(遊女9)、縮緬屋2、馬屋14がありました。
宿場は北から古町、馬場、中町、観音町、上町の5町があり、幕末に古町の北に新町が生まれ6町となりました。
明治18年(1885)春日隧道の開通により、木ノ芽峠を越える西近江路、栃ノ木峠を越える東近江路は急にさびれ今庄宿の機能も失われました。
明治22年(1889)南条郡の自治体名として今庄村が発足しました。
明治29年(1896)敦賀・森田間に北陸鉄道が開通し、人馬の往来は絶えましたが、
一方、鉄道物資の流通や駅、機関区、保線区の設置によって再び活況を呈してきました。
敦賀・今庄間のトンネルやスイッチバック方式で今庄駅に汽車が5分以上停車するため弁当、今庄そば、柿羊かんなどの立売で賑わいました。
最盛期には国鉄関係者250余人が住む「国鉄の町今庄」といわれました。
昭和30年(1955)南条郡の自治体名の今庄村、湯尾村、宅良村、境村が合併して今庄町が成立し、その大字になりました。
合併当時の世帯数1,769、人口8,724でしたが、地勢が全体に急峻で総面積241k㎡の93%が山林であり30集落が散在していました。
近世「宿場の今庄」から近代「国鉄の今庄」として繁栄しましたが、
昭和36年(1961)北陸線の北陸トンネル開通、複線電化に伴い機関区の役割、停車列車の減少などにより国鉄の町も姿を消し、
農林業を中心に特産品の吊るし柿、今庄そばは伝統的に続きましたが、過疎化が進み、町内外へ勤務して生活を維持する人が多くなりました。
平成17年(2005)1月1日、旧今庄町、南条町、河野村が合併して南越前町となり、その大字になりました。
今も昔風の家屋が軒を連ねる町並みは、その長さ、道の形や短冊型の屋敷割がほとんど変わっておらず当時の面影を留めています。
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3 峠の歴史
(1) 燧が城と源平合戦
寿永2年(1183)木曽義仲追討に向かった平家方軍勢に対して、当時、越後国府にいた義仲は
仁科守弘はじめ諸将の軍勢を発し「鯖波の宿、柚尾坂、今城」まで至り、燧が城に拠って日野川を堰き止め、平家の軍勢を防御しました。
日野川の水は「今城、柚尾の大道を平押にこそ溢たれ」と「源平盛衰記」に記されています。
(2) 南北朝戦で峠下集落を放火
建武3年(1336)瓜生 保ら南朝方は、湯尾村を除く今庄など在家に放火して北朝方の陣構えを妨害しました。
進撃してきた北朝方の足利勢は、雪の中で泊る家もなく、焼け残った湯尾村の軒下までも利用してひしめきました。
そこへ山中に隠れ待ち続けた瓜生軍がときの声を上げて急襲し北朝方を全滅させたという物語が「太平記」に記されています。
(3) 一向一揆勢の防御陣地
天正2年(1574)織田信長の侵攻に備えた一向一揆勢は、木目峠(木ノ芽峠)を第1防御線とし、
湯尾峠を第2防御線とした陣構えをして七里三河守を配備しました。
(4) 柴田勝家の敗走と羽柴秀吉の陣地
天正11年(1583)賎ヶ岳の合戦後、敗走する柴田勝家軍を追った羽柴秀吉軍は、
「板取、今庄、いのお」付近に陣を構え、柴田軍の府中城(武生市)からの反撃にに備えました。
(5) 松尾芭蕉の峠越え
「奥の細道」には「湯尾峠を越えれば燧が城、還山に初雁をききて、十四日の夕ぐれ敦賀の津に宿を求む」とあり、
「月に名を包みかねてやいもの神」の句を残して松尾芭蕉も峠を越えました。
(6) 湯尾峠の孫嫡子の守札
「湯尾峠に孫嫡子といえる守札を出す茶屋有り。安倍の清明と云はかせ疱瘡の神に出合、此峠にて祈祷して、
此末疱瘡のやく除とて、授置けるとぞ。此守を持所の人は疱瘡を遁るると世に隠れなく云伝ける」と「帰雁記」に記されています。
峠に茶屋は4軒ありました。茶屋跡の西の小高い所に孫嫡子神社の碑がたっています。
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主な参考文献
角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ 上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道 吉川弘文館
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