このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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4月15日金曜日。仕事でトウモロコシの種を畑に播き終わり、「ちょうど昼だねぇ・・・。」と一息ついていたときに
石原けんじ大佐先生
より電話があった。
けんじ大佐:「ごいちゃん・・・。今度の週末やけどさあ・・・、諸塚の
“
園の露
”さんに行かん?」
「またいきなりの電話だなぁ・・・。」などと一瞬思ったのだが、“園の露”を造る『秘境』諸塚村の川崎醸造場に1度はお伺いしてみたい!と常日頃思っていたところであったので、「日曜なら。」と一応の注文をさせていただいて了承した。
いやいや、ちょっと待てよ。よく考えたら日曜日の訪問ということもあって迷惑になるのじゃ・・・ということに後から気づいてしまったのである。小心者の私は心配していたのだが、こういう時は意外とうまく行くもの。オーケーが取れてしまったのだ。川崎さん、休みにもかかわらず申し訳ございません。
明けて4月17日。宮崎県総合農試入り口のローソンにAM8時集合。私は家族同伴で8時前に到着する。大佐先生もまもなく到着され、国道10号線を北上。美々津から東郷へと西進した。
車はワインディングを適度なスピードで抜けていく。美々津川の流れはダムがいくつもあることもあって、蕩々といった感じだ。
桜も散り、若葉が萌える。ドライブ日和である。こんな趣味に走った休日の過ごし方を少し家族に申し訳なく思っていたが、穏やかな(といっても宮崎の暴力的な太陽はその牙をむき出しつつあるが)春の車窓を見ていると気分が少し和らいだ。
西郷村から諸塚村へ。山の緑がいっそう深くなったところで、山にへばりついた隘路を昇っていく。10分ほどのたのた昇っていったところに“家代庄屋屋敷跡”の石碑。大昔、川崎醸造場が蔵を構える家代集落が諸塚の中心であったことを示す痕跡であろうか。当時の家代の集落には病院も役場も何もかもがあったという。それが川沿いの国道が開通して全部下に移っていった。今では70ほどの世帯が残るのみである。
そのような集落であっても、家の前の花壇にはチューリップが咲き、石垣で囲まれた茶畑では管理作業をされているおばあちゃんがいたりした。なんというか、これだけで一昔の山村風景なのである。なんてこった・・・なのだ。
正面に消防団の車庫が見えたところで駐車。そのすぐ裏手の坂を下ったところが目指す“園の露”を造る川崎醸造場であった。 

蔵から見える山々の風景である。左奥の山の向こうが南郷村、そして右奥が椎葉、さらに熊本との県境に続く・・・。
心が飲まれるような風景を眺めていると、シジュウカラの鳴き声、そしてキツツキの「ドドドドド・・・」というドラムがどことなく聞こえてくる。
それにしても何という高さだろう・・・。
そのような大パノラマに飲まれている私たちを蔵の4代目杜氏である黒木秀子さんが出迎えてくださった。土間から座敷へ上がらせていただいて、こたつでお茶を頂戴したところに、
「(けんじさんが)お好きでしょうから、用意しておきましたよ。」
と、濃い緑色のドーム状の物体を黒木さんが運ばれてきたのだった。
『ふつだご』。つまり蓬(ふつ)団子である。諸塚の家でごく普通に造られているお菓子だ。
「この季節ですから、蓬の新しいのがあっちこっちに出てきてまして・・・。」
と黒木秀子さんは笑われるが、この中身はあんこでぎっしり。非常にシンプル。だが甘ったるくはなく、飽きることなく食べることが出来る。
そしてこれも美味かったのが、その奥にある寒干しの大根の漬け物。大根を漬け込む前に漬け汁をたぎらせるのがポイントだそうだ。ぴりりと胡椒(=鷹の爪)を効かせてある。
そうやって、モシャモシャと食べながらお話を伺うこととなったのだが、我が長男は黒木さんに抱かれて機嫌がよい。
「お茶の方は、忙しくないんですか?」
大佐先生の一言から始まったが、黒木さんは焼酎醸造の傍ら、自前の茶園で茶を生産されているのだ。焼酎を造るのは秋から春までの季節。その他は茶園の管理をされることになる。topの画像を御覧いただいても、蔵の周囲を茶畑がぐるり取り囲んでいることがおわかりいただけようか。
黒木さんの弟で同蔵の代表である川崎一志さんは集落の行事に出なければならなくて家に不在と言うことだったが、この春より後継者が蔵に入られたという嬉しい知らせを伺うことが出来た。川崎一志さんのご子息で、KFCに勤務されていたそうだが、一念発起のUターン。それこそ私たちがお邪魔した数日前から作業の方に当たられているということだ。
「力のいる作業が結構ある仕事ですから、本当に助かります。」
そのご子息が蔵に戻ってまず驚かれたのが、「代金は今度持ってくけん、焼酎くいないよ(ちょうだいよ)!!」という“掛け”という習慣だそうで、黒木さんによるとこの家代集落では未だ日常の生活風景なのだそうだ。私も一度北方町のたばこ屋でお使いに来た小さい子が「お金は今度—っ!」と言っていたのを見て驚いたことがあったが、今までKFCの店長としてコスト管理であるとかをたたき込まれた後継者氏。衝撃的な出来事であったろうと推察できる。ともわれ、この山村の小蔵にどのような風が送り込まれるのか興味が尽きないのだ。
長い歴史の中で村外不出の焼酎であった“園の露”は、村内の主なユーザーは高齢化しつつあるが、今でも村内で愛飲されている。黒木さんのお話によれば、村の若手は県内大手メーカーの焼酎に少しずつ流れている様だが、村外よりこの焼酎の評判を聞きつけて買いに来る若い村人もいるそうだ。
その後、昨年の台風の話に及んだが、下の国道沿いの店が水浸しになったそうだ。そして遂に蔵の方を見せていただくこととなる。
土間からガラス戸を開けると、すぐに造りのスペースに直結している。向かって右手のスペースが増築した部分で、ホーローのタンク等が置かれていたが、まずは仕込みのカメが並ぶ元々からある古い建物へと案内していただいた。
「あんまり古くて恥ずかしい・・・。」
と黒木さんはおっしゃるが・・・、
いえいえ、我々マニアにとってはこれが貴重すぎるのです(自爆)。
蔵の中は外が晴れていることもあって明るく、2次原料に酒粕を使用されていることもあって、その良い香りが漂っている。延岡の千徳さん、そして関東の酒蔵から吟醸粕を譲ってもらっているそうだが、保存には蔵内に置かれている銀色ぴかぴかの業務用冷凍庫を使用している(入りきらない時には日向の海産物屋の冷凍庫に入れさせてもらうそうだ)。
両方の酒粕を舐めさせていただいたが、蔵でこうまで味わい、舌触りが変わるのかと言うくらい面白かった。ちなみに、後者の方がキメが細やかでなめらか、千徳さんは米が残る分、風味の方も主張があるといった感じだ。
カメが並ぶ仕込み部屋。元来、造りは春と秋の年3回の仕込みであったのだが、近頃は沈静化しつつあるとはいえ、ブームはこの小さな蔵にもしっかり押し寄せている。“園の露”を飲みたいという人の顔が浮かび、そして自分たちの酒に(貯蔵など)もっと手を掛けたいという思いから、仕込みを1回増やし、さらにこれからもう1回の仕込みを行うところだという。もろみの状態を考えると「今度で限界と思います。」と黒木さんはおっしゃる。
ちょうど、その増やした分の仕込みを始める直前と言うことで、麹室の扉は固く閉じられていた。黒木さんが室の中の写真を見せていただいたが、通気を踏まえて整然と積み上げられた麹箱(もろぶた)の様子が分かる。
これは、2次原料(酒粕)をかけて3日目のもろみ。
見せていただくと、ブクブクと表面がたぎっている様子が分かる。発酵が進むときにはもろみ表面が盛り上がって、カメからあふれそうになるそうだ。
あふれそうになった時のために、カメのそばにこれを移す桶が用意してある。
壁の道具棚には桶や『だきだる(=暖気樽)』が置かれていた。1次仕込みで発酵がしにくい時に、保温のために、たぎった湯を入れて直接かめに入れる。
相当古い物もあったが、木製の物を使い続けるのは「急激な温度変化が起こらず、もろみに負担をかけない。」かららしい。
これが蒸留を数日後に控えたもろみである。上と比較するとキメが細やかになったようにも覚えた。
それにしても、蔵を見渡すと昭和30年代の表記が入れられているカメがゴロゴロしている。棚に前記『だきだる』の他、使い込まれた道具類がびっしり。本当に文化遺産級の蔵元である。
次に蒸留器を見せていただいたが、これは「恥ずかしいから・・・。」と撮影はならなかった。だが、焼酎博物館などで見ることが出来るレプリカそのままの道具が目の前に鎮座している様というのは、言を失う。
相当使い込まれているのだろう。樽の黒く変色した表面は蔵の風景にしっくりと収まっている。お見せできないのが残念であるが、本当、すごいの一言である。
その蒸留器の横にはコンクリートの冷却槽があって、その中を蛇管が壁面に沿ってとぐろを巻いている。
そして冷やされて液体となった“園の露”の原酒は地下のタンクへと貯められる。蒸留器には50度までの目盛りのアルコール度数計が付いていたが、初留は目盛りを振りきってしまって何度か分からないと言う。最終的に原酒は40数度の範囲におさまるそうだ。
「製品になる前に数回、この紙を使って濾過をするんですよ。」
濾過紙の説明をされる黒木さん。一つ一つの道具を丁寧すぎるほど丁寧に説明してくださった。
実際に作業をされる方の苦労を無視してしまうのは分かっているのだが、我々飲み手は今の昔ながらの焼酎造りを続けて欲しいと思ってしまう。自然体のままで行われている『古い造り』が、飲み手としてその酒に感じる魅力に繋がってくる。個人的には、このような蔵が存在することは、文化とか技術の伝承という点に於いても極めて重要に思える。
それにしても、宮崎県の懐の深さを改めて感じてしまう一日であった。
壁にかけられた『竹じょうけ』。このようなものが何気なく置かれているのである。米を運ぶために使用するこの道具も昔から使い続けているそうで、「ほら、ここ。」と黒木さんが補修の跡を指さす。
旧来の蔵の施設と増築された部分とのちょうど境目。
黒色のものが古い材になるが、このように複雑に組み合わさって屋根を支えている。
黒木秀子さん、そして今回機会を作ってくださったけんじ大佐。本当にありがとうございました。
(05.04.18)
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