このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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はきはきと、聞いているこちら側もテンションが上がる口調で寿福絹子さんが“お宝”な話を発せられている。そのどれもどれもが面白く、そして興味深い。
大佐先生:「寿福家の出身は鹿児島の方なのですよね?」
こばやしさん:「わたしもそう聞いたことがありますけど。それにしても寿福
さんのお名前って、めでたいなぁ・・・。」
寿福さん:「そうったい。鹿児島の国分市に蛭子(ひるこ)神社っていうお社
があるっちゃけど、寿福家はもともとそこの宮司さんやったらし
か。日本の古い神話にイザナギノミコトとイザナミノミコトって話
があると思うけど、私もこの神社に何度か行ったことがある
と。」
こばやしさん:「話は変わりますけれど、元々はなんて言う銘柄を造ってい
たのですか?」
寿福さん:「大昔は“寿”って銘柄ば造っとったごとあります。それこそ、私
が小さか頃には、『寿福さんの所の焼酎といえば“寿焼酎”た
いね。”っていうぐらいやったと。その後、寿に泉って書いた
“寿泉”って銘柄(これは事務所内に飾ってある)になって、
昭和46、7年頃やったやろうか。私のお祖父さんが人吉城の
石垣から名前を取って“武者返し”って名前に変えたとよね。
(銘柄の変遷については、
こちら
にも詳しいので参照を)」
大佐先生:「戦後、球磨地方では芋焼酎を造った時代があったらしいです
けれど、やはり寿福さんの所も・・・。」
寿福さん:「それはこの地方全てといって良いくらい。日本酒は酒米ば使う
でしょうが。酒米っていうものは人が食すのに適さないけど、
焼酎は違う。破米(脱穀、精米の過程で割れた米だと思うが)
を使うからもろに原料が入らん事なったとよね。時勢が時勢
やけん、人が食うことが優先やろ。今の人はあまりサツマイモ
なんて食べないけど、当時はとにかくひもじかったけんね。芋
が蒸し上がると真っ先に飛んでいって握りよったね。横で杜氏
さんが嫌そうな顔ばしよったとよ(笑)。」
こばやしさん:「それで、(違う原料を使うことによる)銘柄の差別化はした
のですか?」
寿福さん:「うんや。原料が違かろうが、うちの焼酎は“寿焼酎”やったね。
どこもいっしょやと思うよ。」
と、このような具合であったが、そこに威勢の良いおっちゃんがやって来た。寿福さんが「お世話になります。いつもの事、上に上げてもらえます?」と答えると、「分かりました。」とおっちゃんが蔵の外へ出ていった。
寿福さん:「ちょうど良い頃合いやけん、昼ご飯にしましょうか。だけん、
ちょっとこっちへついてこんね。」
そうおっしゃりながら我々をある部屋へと案内してくださった。そう。かの有名な『絹子さんの奥座敷』である。 
カメがたくさん並べられた部屋を抜け、頭がつっかえそうな勝手口を抜けるとその棟はあった。
靴を脱ぎ、階段を上がっていく。その階段のすぐ袂に、かつての主力銘柄“寿焼酎”の琺瑯看板がディスプレイされていた。
その部屋に入るやいなや、私は目が点になったのだが、ちゃぶ台の上に用意されていたのは『うなぎ』なのである。しかも、創業90年を数える老舗中の老舗“上村うなぎ屋”である!!!!!!もう、台の上のそれを見ただけでも興奮物。
寿福さんは、「人吉に来たならこれば食べんと。ん?よか、よか。遠慮ばせんで食べんね。」と笑われている。そしてお茶を入れに階下へと降りて行かれた(すみません。感謝してもしきれません)。
大佐先生は、車の駐車場所が悪く、これを停め直すために遅れて奥座敷に上がられてきた。先にうなぎを頂戴していた我々の姿を見て、席についてうなぎに手を付けたのだが・・・。
ここでその興奮を更に高めてくれるイヴェントがあった。
寿福さんがお茶を持ってとん、とん、とん・・・と階段を上がってくる。それを見計らってこばやしさんが言われた。
こばやしさん:「大佐が寿福さんの分に箸を付けちゃったよ。止めようと
思ったんだけどさぁ。」
寿福さん:「あら。本当に困った人やねぇ。(笑)」
それを聞いた大佐先生は「ぎょっ!!」と箸を持ったその手を止められた。不安そうな顔で周囲に助けを求めていらっしゃる・・・。面白いので助けません(爆)。
寿福さん:「よかよか。私の分の昼ご飯は別にちゃぁんと用意して
あるけん。」
さすがにかわいそうになったのでしょうねぇ・・・。寿福さんのその言葉を聞きまして、大佐先生。再度うなぎにアタックです。
それにしても、山一つなのだが、味わいは宮崎のものと大きく異なる。タレに因るところが大きいのだろうが、上品で甘い。炭火で皮を香ばしく焼き上げるのは共通していると言え、地域性が感じられて面白い。ごちそうさまでした。

それにしてもこの奥座敷の風情はとても良かった。蔵の裏手を流れる胸川を望むことができる側には葡萄の蔦が渡され、薄緑の大きな歯と緑から紫色へと色を変えつつある葡萄の房が風に揺れていた。そこからかすかに聞こえてくる人吉市の雑踏とアブラゼミの声。
寿福さん:「この川は胸川といって、昔はこの付近は交通の要衝でね、
問屋がずらーっとならんどったとよ。昔は川の際まで
蔵の敷地があったとやけど、昭和40年代の河川改修の
時に敷地をあげたとよね。」
川を見ながら寿福さんがこばやしさんと話されている。本当に静かな時間だった。ぼーっとしていたくもあるが、すぐ横で寿福さんの貴重な話が続いているので聞き逃すわけにはいかない。どれどれどれ・・・。
大佐先生が昔、一勝地にかつてあった大平酒造(大佐先生によると、減圧焼酎へと球磨焼酎が流れていく中で寿福酒造場と共に最後まで常圧にこだわった蔵らしい。
こちら
を参照ください)のことに触れたのだが、そこから減圧蒸留の話へと移った。
寿福さん:「初めて工業用の減圧蒸留器を焼酎の蒸留に応用したのが
昭和50年くらいやったと思う。筑後の方の清酒蔵がつぶれた
時にそこの減圧蒸留をうちに『いらんね?』って持ってきた
ことがあったとよ。その時、対応した私の祖父は古か考えの
人やったけん、『そげなけったいな物はいらん!!』って
断ってそれっきりたい。」
その後、減圧蒸留器は他の(球磨地方の)会社に行ってしまって、盆地に減圧蒸留の嵐が吹き荒れたという。このような話はなかなか聞くことができないが、人と人の何らかの巡り合わせが昔からあって、それが今へと続いている。ほけーっ・・・と考えていたが、寿福さんが言葉を続ける。
寿福さん:「私のところで造る量は400石程度たい。今思えば、
河川改修がなければさっき話した減圧蒸留器ば入れとった
かもしれんね。今は置く場所がなかけん(笑)。でも、本当に
今みたいに手作りでやって来て良かったと思うよ。
こういう人がおったけど、ある日うちの造った焼酎を人から
勧められて買っていった人がおったとやけど、後になって
『正直に言うと、初めは飲み終わったら元々飲んでいた銘柄
に戻そうと思っていました。でも飲み続けているうちにこの
焼酎の味から逃れられなくなって・・・。』って言ってくれてね。
こういう声を聞くと頑張ろうって気になると。」
そうおっしゃった時に、卓の縁につかまり立ちをしていた長男が滑って頭を打った。当然ながら大泣きしたが、
こばやしさん:「今のはお父さんが悪い。」
寿福さん:「やっと泣いたね(←それまでずっとニコニコしていた)。
泣くのが赤ちゃんの仕事やもんね。」
大佐先生:「あーあ・・・。」
そのようなお言葉を聞きながら、私はあやすので一杯一杯であった(自滅)。
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