このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに ここではみなみへかけてゐる (中略) 汽車の逆行は希求の同時な相反性 こんなさびしい幻想から わたくしははやく浮かびあがらなければならない 〜『心象スケッチ 春と修羅「青森挽歌」』より〜 |
「青森挽歌」の一節です。
「希求」
のぞみ、もとめるもの。
宮沢賢治が欲しかったのは
生きるうえでの確かな証し(確固たる信念)。
どこまでも世界に忠実に正しさを追い求める賢治の価値観は、
世間一般とは少し離れた
〔この世はあるがままにある〕というところまで行っています。
けれどその価値観では右に行くか左に行くか正反対の選択肢がある場合、
右に行くなら右の良さをしっかり見つめて左の良さには目をつぶれてしまえばいいのに、
左にも正しさを見出してしまうだけに、どっちにも進めないし、
どっちかに進んでもこっちが良かったんだって腹をくくりきれない。
相反するものをのぞんでゆらいでしまう。
それが「希求の相反性」ということかもしれません。
平たく言うと優柔不断なのかもしれませんが。
だからこそ欲しかったのは
自分が進むためのゆるぎない確かな証し。
さて、この詩をふまえて。
『銀河鉄道の夜』に出てくる銀河鉄道は絶対に逆行しないという設定です。
「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向ふからこっちへはこな〔い〕んです。」 (4稿 九、ジョバンニの切符 〜銀河鉄道が峡谷の横を下るときの老人の台詞) |
銀河鉄道は逆行しない。つまり帰りの便が無い。
なのにどうしてジョバンニは自分の世界に還る事が出来たのか。
その答えは銀河鉄道のレールのかたちにあると思います。
レールのかたちを想像できるものとして、
銀河鉄道を暗示するものとされているものにカムパネルラのおもちゃの汽車がありますが、
その部分を抜き出してみましょう。
「僕は学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせると円くなってそれに電柱や信号標もついてゐて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるやうになってゐたんだ。」 (4稿 三、家 〜ジョバンニの、母との会話中の台詞) |
このアルコールランプで走る汽車は、レールのかたちが七つ組み合わせると円になります。
これから推測するに銀河鉄道のレールのかたちも円です。
円なら逆行しなくっても還ってこれる。
「八、鳥を捕る人」の章では、
乗りあわせた鳥捕りにどこへいくのかと聞かれたジョバンニが、
「どこまでも行くんです。」と答えます。
それに対して鳥捕りはこう言います。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
円なら逆行しなくてもエンドレスというかたちでどこまでも行ける。
でもどこまでも行ける人には少し条件があって、
そのせいで円と言い切るには
不思議な時空のゆがみがあるような気がするのですが、
それはまた別の機会に。
円というモチーフは進めど戻る。
同じ方向に進んでいるはずなのに向かい同士は逆方向になる。
希求の相反性から抜け出せないことを現してもいるようにも思えます。
けれど逆行しない銀河鉄道には、それでも生きるなら進めという、
「希求の同時な相反性」から抜け出そうとする賢治の強い意思のようなものが感じられます。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |