このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

戻る       次へ


銀河鉄道に乗る条件


あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか

<中略>

かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向でははかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする

〜『心象スケッチ 春と修羅「青森挽歌」』より〜



「青森挽歌」この詩のなかに、賢治の死んだ妹・としのことを想う部分があります。
そこでは、死後の世界(または来世)があるとしたら
この世との間にワンクッションがあるのではないかという考えのもと、
その旅路がよいものであることを祈っています。

死んだ人の魂が迷うとされる四十九日のようなものでしょうか。
仏教には死者が次の生を受けるまでの「中有」という考え方があるそうで、
「青森挽歌」のなかでもあげられています。

さてさて
その旅路についての描写ですが、
「停車場」を通るなど、
『銀河鉄道の夜』の世界と似たような描写があり、「青森挽歌」は
『銀河鉄道の夜』の前駆となった作品なのではと言われています。

とすると『銀河鉄道の夜』での旅路も、
魂だけの死出の旅路ということになります。

銀河鉄道に乗れる人達はどんな人たちなのか。

川でザネリを助けて溺れたカムパネルラ。
船が沈んでしまった家庭教師の青年と二人の子供。
流れ弾に当たって死んだと思われる鳥捕り。

皆亡くなった人達です。



ではジョバンニはどうして生きているのに銀河鉄道に乗れたのか?



「なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。」
作品の冒頭でジョバンニはこんなことを思います。

それまで正しいと思っていたものを正しいと思えなくなる。

ジョバンニは最近、仕事で学校の友達とも疎遠になり、
自分の存在意義をみいだす場所である家でも、
子供としてしか扱われず父の不在についてもはぐらかされる。

自分の存在意義や価値観の崩壊した、言うなればこころが「死んだ」状態です。

星祭の晩に、ばったりあった学校の友達に悪口でからかわれ、
唯一自分のことをわかってくれていると思っていたカムパネルラまでもが
「気の毒そうに、だまって少し笑って」ジョバンニを見たことで
とうとうこころの死(自分を見失うこと)は決定的なものとなり
ジョバンニは幻想世界の入り口である丘へと走ってゆきます。

「青森挽歌」の一説、
「感ぜられない方向を感じようとする時はたれだつてみんなぐるぐるする。」とは、
一度きりの人生の行き道のことにも思えます。

カムパネルラ達は肉体を失う事で、こころ(魂)が迷う事になりますが、
ジョバンニは肉体を失わずしてこころが迷った状態になっている。
こうなると銀河鉄道に乗る条件は肉体の死ではなく
こころの死が条件かもしれません。

だから ジョバンニ以外にも生きながら銀河鉄道に乗っている人がいるかもしれませんね。
3稿ではちょっとそれを匂わせる描写もあります。

ジョバンニは決してイレギュラーでなく、大きく迷っている人の代表なのです。



最後に死後の世界について。


けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつまでもまもつてばかりゐてはいけない

〜『心象スケッチ 春と修羅「青森挽歌」』より〜


「青森挽歌」のなかでは、死後の世界という幻想は生きるために必要だけど、
いつまでもそれをひきずってはいけない。といっているような一節があります。
(「いつまでもまもつてばかりゐてはいけない」の後に続く詩をみると、
逆に本気で死後の世界を解き明かそうとしてるようでもあって
言い切るには微妙なんですけども。)

とどまる人もいるかもしれませんが、
『銀河鉄道の夜』の主要人物は皆それなりに迷いを断ち切って
幻想第四次の銀河鉄道から降りて行きます。

ジョバンニもまた。

戻る       次へ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください