このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

鉄道事故史 〜近鉄花園駅での追突事故


◇事故の状況

昭和23年(1948年)3月31日.奈良7時20分発の上六行き急行は,満員の乗客を乗せて3両編成で発車した.
前の2両はデボ1形(※1)と呼ばれる鉄骨木造車で,当時のほかの私鉄と比べて,はるかに大きい出力のモーターを積んでいた.

旧生駒トンネルに入る直前の生駒駅で,ブレーキの効きが悪かったのか,車両1両分行き過ぎたところで停車した.
このとき駅の助役が運転士にこのままいけるかと聞いたところ,運転士は大丈夫だと言ってそのまま運転を続けた.
当時,私鉄最長だった旧生駒トンネルは,
途中までは緩やかな上り勾配で,途中からは25‰(※2)という急な下り勾配となっている.
この下り勾配に入ると,急行列車は突然ブレーキが効かなくなり,列車は速度を増していった.
大阪側のトンネルの出口を出ると,孔舎衛坂(くさえざか)駅があり,半径200mのきついカーブがある.
その先は大阪平野まで35‰の急な下りが4kmほど続く.
通常ならばこのカーブは40km/hほどで通過するのだが,
トンネルの下り勾配で速度を増した列車は高速でカーブを通過し,前のパンタグラフが外れて架線を切断した.
それによって後ろのパンタグラフも破損した.
運転士は乗客のほうを向いて,「申し訳ありません,車は停車しません.覚悟してください」と泣きながら頭を下げたという.

ちょうど通勤時間だったためか,駅の助役や警察官が乗り合わせていたので,的確な指示が彼らによってなされた.
まず先頭車に乗っていた貨物駅助役が,
車両後部の手ブレーキ(※3)のハンドルを周りの乗客とともに回し,床に腹ばいになって重心を下げろと叫んだ.
乗客は車両後部に殺到し,二重三重となって床に腹ばいとなった.
貫通扉がなかったので,これ以上逃げ場はなかった.
また警察官は前の手ブレーキを回しながら,後ろ向きに座れと叫んだ.
坂を下りきったころにある瓢箪山駅には,運転司令室から急行列車が暴走しているので,先行の準急を退避させろと指令が入った.
ゆっくりと入ってきた準急がポイントを通過してすぐに信号とポイントを本線側に切り替えたところ,
一瞬にして急行列車が通過線を駆け抜けていったという.
誰が叫んだのか,先頭車の窓がすべて開けられた.
空気抵抗で速度が下がり,衝突したときにガラスが飛び散らないようにするためだろう.
運転士は前面の窓に足をかけ,身を乗り出してパンタグラフを架線に戻そうとしたが,強風により無駄な努力と終わった.

瓢箪山を過ぎても緩やかなくだり勾配は続くが,現在の東花園駅(当時はなかった)付近からは平坦になる.
懸命に回した手ブレーキも効果が見えてきて,速度は少し落ちたようだった.
しかしその先の花園駅には先ほどの瓢箪山発の普通列車が止まっている.
そして7時50分ごろ,花園駅を発車した直後の普通列車と衝突した…

追突した急行の先頭車は,側壁はすべて飛び散って床と屋根だけとなり,長さも半分ほどに押し縮められた.
2両目・3両目も同様に大破していた.
一方追突された普通列車は鋼製車だったので,後部は破損したものの比較的原形を保っていた.
この事故で49名が死亡し,272名が負傷した.

 

◇事故の原因

事故の原因は単純なものだった.
ブレーキのホースが破損し,ブレーキを作動させる圧搾空気を送れなくなったため,ブレーキが作動しなくなったのである.
この当時のだいたいの車両は,
ブレーキホースが破損すると各車両につけられた補助エアタンクから圧搾空気が送られ,非常ブレーキがかかるようになっていた.
しかし事故車のブレーキは旧式で,どこかホースが破損すると車両・編成全体のブレーキがかからなくなったのだ.
しかし停車する手段はこれだけではない.
非常の際は逆転ハンドルを後退にしてマスコン(※4)をいれる方法があった.
つまり前進とは逆の電流をモーターに流して負荷をかけるのだ.
運転士がパンタグラフを戻そうとしたのはこのためである.
だがこの方法も,トンネル出口でパンタグラフが架線から外れてしまい,また架線も切れたのでまったく使えない方法であった.

結局のところ事故の原因は,ブレーキを作動させるためのエアホースが老朽化により破損したためである.
耐用年数を過ぎた部品を使う会社や,車両のブレーキの効きが悪いのに運転を続けた運転士が悪いといえなくもないが,
戦後の社会情勢を考えるとやむをえないことだったようだ.

 

◇不幸中の幸い

通勤ラッシュ時の満員列車にもかかわらず,死者が49名にとどまったのは不幸中の幸いだっただろう.
事故車の先頭車の定員は100名だというから,このときには200名は乗っていたのではないか.
車両もほぼ全壊の状況.しかし死者は49名にとどまった.
暴走しはじめてから衝突までの約5分間,
前述の駅助役や警察官たちの的確な指示によって,考えられるだけの行動をとってその瞬間に備えた.
乗客全員がパニックになり,何もできずに衝突したならば,おそらく死者はもっと出ただろう.
戦時に備わった緊急事態の対処への精神が,この事故の死者を少なくしたのではないだろうか.

 

◇旧生駒トンネルと花園駅の光明地蔵

旧生駒トンネルでは,これより前から事故が絶えなかった.
1946年にはトンネル内で信号により停車中の列車に後続の列車が衝突.
1947年にはトンネル内で列車の床下(抵抗器)から出火し車両3両が全焼.
そして今回の事故…
建設途中にも多くの事故で死者が多数出たため,幽霊が出るという噂もあった.
こういうこともあって,昭和37年に新生駒トンネルの着工が始まり,昭和39年に完成した.
旧生駒トンネルの生駒側は東大阪線(※5)のトンネルに使われているが,大阪側は遺構が今も残っている.
大阪側から石切を通過する際,左手を見上げれば変電所のような設備が見えるだろう.
その奥に旧生駒トンネルが口をぽっかりとあけている.
頑丈に金網が張られ中には入れないが,孔舎衛坂駅のホームはそのまま残っている.

また,奈良のほうから大阪へ行くとき奈良線の列車に乗っていると,
花園駅を過ぎた直後の左側に地蔵のようなものがあるのが見える.
花園事故の慰霊碑として立てられた「光明地蔵」だ.
現在の花園駅は当時よりやや東に移設されているというから,おそらくこれがあるあたりが事故現場だったのだろう.

 

※1 この車両は現在,近鉄あやめ池遊園地にて復元保存されている.
※2 パーミルと読む.この場合1000m進むと25m下るという意味.
※3 車両の前後にある人力で車両を止めるブレーキ.車庫での留置時などに使う.
※4 日本語では主幹制御器.車でいうアクセルと同じ働き.
※5 大阪市交通局などに乗り入れ,コスモスクエアまで直通運転している路線.


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