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(2004年6月21日作成)

ちょっとミーハーに!
一青窈のルーツの地 一青庄

 一青窈といえば、今注目の女性シンガーである。私が特にコメントしなくても皆さんもご承知のことでしょう。また彼女が台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフであることも有名です。では、彼女の母方の出身地、つまり一青窈のルーツはどこかといえば、能登は鳥屋町であります。(なお最近、時々見かける同じくバイリンガルで女優(歯医者の)・一青妙(ひととたえ)さんは彼女の姉とのことです)

 ここ鳥屋町には、彼女の姓である一青という名のついた字(あざ)もあります。(余談ですが、一青ではなく、最近では鳥屋という名も、鳥屋町一青にある鳥屋小学校が、2003年末テレビ朝日系で放送された30人31脚で全国優勝を果たしたことなどもありちょっと有名になりました。)ただし残念ながら、現在、一青という姓の人は、鳥屋町及び周辺の町には住んでおりません。一青という姓は、もしかしたら、彼女の母がこの町を出て行く際に、名乗った姓かもしれません。

  今回は、ちょっとミーハーな話題ですが、一青窈のルーツである地にあった一青庄のことを述べたいと思います。といっても、ここのコーナーは歴史のコーナーなので、ここでは純粋に歴史的に記録を取上げたいと思います。よって、何か一青窈につながることを知りたいと思った方は、ご希望に添えませんがあしからず!

 まず、この一青という地名のついた区域の範囲ですが、今では「一青」というと、鳥屋町のほんの一部ですが、昔は、この鳥屋町の黒氏(くろじ)から大槻にかけての町域の大半を一青といいました。一青庄の範囲は、江戸時代の村名でいうと、石塚、久乃木、坪川、西、新庄、在江、廿九日(ひづめ)、大槻、春木、羽坂、今羽坂、末坂、一青、黒氏、花見月の15か村にあたります。これらの地名は現在も残っていますから、地元の人なら大体範囲を想像することができるのではないでしょうか。このあたりは、まわりの町と同様、先史時代の遺跡や古墳群が多く、かなり早くから開けていた地帯であることが想像できます。

 次に、この一青とかいて「ひとと」と読む地名の由来でありますが
「増補 大日本地名辞書」(吉田東伍編・冨山房)では、「一青」:の説明に次のように書かれています。「今鳥屋村の大字とす、旧庄名にして、田数目録に一青庄捌拾町と載す。○三州志伝、一青庄羽坂村に鳥屋比古神社てふ式内あり、一青(シトト)鳥の地名は、此神より起るか。村岡氏云、一青はヒトトにてシトトに非ず。按に一青を之止止に仮るは、鳥名に因るか、和名抄箋注曰『天武紀云、巫鳥此云芝苔苔、与漢語抄合、然恐非漢名、新撰字鏡、〓、志止止、或曰枕冊子、有美古止利、当是、未知然否、小野氏曰、之止止、種類多、乃之古、頬白、頬赤、頭鷹、乃呂之、皆之止止也、漢名未詳、按古語拾遺、令片巫志止止鳥、占求云々、用巫鳥字、蓋因之、類聚名義抄、有神鳥、訓加宇奈伊之止止、亦是義也』しかも此に一青を之止止にかれる所以を釈くあたはず、又ヒトトと云ふに拠ればヒトツアヲと仮借せるか。」

 と言っても、皆さんの殆どの方がこの文章ではチンプンカンプンなのと同じように、私もここまで凝った漢文調になると、よく意味がわかりません。<(^^;

 それで他にも色々と「一青」の由来について書かれたものを探してみました。 わかりやすいところでは、昭和3年に出版された「石川縣鹿島郡誌」の鳥屋町の章に、次のように書かれております。
 「因に云ふ。邑知潟(おうちがた)より七尾南湾に通ぜる沖積沙地及湖沼低湿地をなせるとき、鳥屋村王東南方には「ヒトトドリ」の類(水禽ならん)群れすめりといふ。ヒトトドリの一種に「クロジ」「アチジ」等ありしといふこれ等鳥名遺り伝えへられて現今の鳥屋村の字名となる「一青(ヒトト)」「黒氏(クロヂ)」これなり。」とあります。つまり現在の鳥屋町付近にいた「ヒトトドリ」という鳥の名前が一青という名の起りであるということになります。

 また同じ「鹿島郡誌」の鳥屋町の章の別の箇所には、その「ヒトトドリ」について次のような説明もあります。「〔陽春薦雑考〕片巫に※志止止鳥(しとどどり)(※能登でも関東と同様「ひ」と「し」の混同がよく見受けられます)と註せる或いはかうないしとなどともいへる是れ小鳥の名 山林に棲む雀に似て黄赤にして翅に黒き縦の斑あり 脚掌黒く眼に菊座の如き圀あり この鳥を占に用ひたるより名称の出てしものならずや」とあります。この地で一青鳥(ひととどり)を使って鳥占いをしていたのでしょうか。

 そういえば能登一の宮気多大社も、年末、七尾市鵜浦町で捕らえた鵜によって毎年、翌年の占いをやっています。このあたりでは、よく鳥占が行われていたのかもしれないですね。
 なお一青を「ひとと」と呼ぶのは、何かの漢字、例えば「一音」(ひとおと)間違い、中の「お」がとれてなったと推定する説もありますが、青を「と」と読むのは、他にも万年青(おもと)などありますから、一概にこの呼び方が、漢字の間違いに由来するとは言えないと私・畝は考えております。

 以下、古文書など歴史的文書などに見える一青庄の記録を列挙したいと思います。
 この一青庄は、平安時代の頃には、上記に述べたように現在の鳥屋町大槻のあたりから鳥屋町黒氏のあたりにかけてあった皇室領でした。平安時代に書かれた「兵範記」という書物によれば、保元2年(1157)の3月29日の条に「能登国壱処 一青庄」と見えます。保元の乱の前までは、左大臣藤原頼長の所領でありました。

 しかし、彼は久寿2年(1153)、近衛天皇を呪詛したとの嫌疑がかけられ失脚し、宇治の地に蟄居させられます。彼は、崇徳上皇と組み保元元年挙兵しますが(保元の乱)、般若寺付近で奇襲にあい敗死すると、この地は、保元2年3月25日に没収されて後白河院天皇の後院領となっています。

 保元3年(1158)12月3日、山城石清水八幡寺領である当庄などへの領家・預所などの掠領が、停止(ちょうじ)されているが(「官宣旨」石清水文書)、領家職ではないかと想像されています。

 承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文によれば、公田数80町(『一青庄、捌十町』とある)で、鹿島郡最大の田の面積でありました。建武2年(1335)7月12日、山城国鳥羽殿(現京都府伏見区)領の当庄が、奉行の西園寺公重に与えられ(「後醍醐天皇綸旨」西園寺家文書)、観応3年(1352)9月8日再び公重に与えられた(「園太暦」)ことが記録に載っています。

 永享12年(1440)6月5日、庄内深沢(ふかそ)(現一青・黒氏の内)の土豪と思われる深沢吉久が、(能登の修験道の聖地である)石動山阿上坊)との訴訟で、幕府政所に召喚されたことが記録にあります(政所方書)。

 文安3年(1446)10月15日当庄は、孝和(嘉楽門院の一族か?)から譲られ、若宮(後土御門天皇)御料所として生母嘉楽門院に安堵されています(「後花園天皇綸旨」宮内庁書陵部所蔵文書)。
 永正9年(1512)1月18日「禁裏御料所能州一青(ひとたう)」の一昨年分の公用(くよう:年貢)のうち1千疋(10貫文)が甘露寺元長のもとに届き、勾当局へ送られました。3月25日には、公用に関する斉藤某(現・鳥屋町春木在住)の懇望を元長が取り次いでおり、4月7日公用は皆済(年貢の完納のこと)されています(元長卿記)。

 永正12年12月26日には、能登守護・畠山義総(<参考> 「畠山文芸」「畠山義総」 )が、この一青の公用100貫文の進納を催促されており(「室町幕府奉行人連署奉書写」東山御文庫記録)、※守護請になっていました。
 ※守護請(しゅごうけ):室町時代、守護が国衙(こくが)領・荘園の年貢を一定額で請け負った制度。武士の侵略に苦しんだ荘園領主・知行国主が、守護にその経営を一任する代わりに一定の年貢の確保を図ったもの(Yahoo辞書より)。

 大永6年(1526)から天文14年(1545)にかけて守護請となっていた公用銭の進納が比較的円滑に図られており、天文2年から3年にかけたは、金納されていました。
 この間の大永7年、能登守護・畠山義総と文芸交流のあった冷泉為和が、一青の地の公用銭の催促をしているのが、記録に見えます(「実隆公記」同年4月4日条)。

 天文17年(1548)2月20日の気多社免田年貢支配状(気多大宮司家文書)によれば、一青村の作人土佐と四郎兵衛が、気多社の神免田300刈を耕作し、100刈につき4俵の割合で合わせて年貢12俵を負担していたことが記載されています。気多社とは、勿論・能登一の宮である現在の気多大社のことです。

 天正8年(1580)10月にも、このほか一青村で70刈の神免田が確認され、作人は定全・左近で年貢は3俵と定められていたが、このうち20刈が不作のため、当納分は2俵5升となっていたことが記録されています(「一青村気多社免田年貢注文」気多大宮司家文書)。
 また江戸時代の『能登名跡志』(太田道兼)には、「此村に昔弘法大師水を乞ひ給ふに、水を進ぜざりし故、井戸を掘りても食用に立つ水なし。又此村の孫十郎といふ百姓の境内に蓴菜(ジュンサイ)出る池あり」という記録もあります。
(参考) 能登の民話伝説(中能登地区-No.3) の湧泉伝説の項の「弘法の水」
 
(参考文献など)
 「石川縣鹿島郡誌」(財團法人鹿島郡自治會發行)
 「日本歴史地名体系17 『石川県の地名』」(㈱平凡社)
 「加能郷土辞彙」(日置謙編)
 「石川県大百科事典」(北國出版社)
 「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」(昭和51年発刊・鳥屋町郷土史研究会)
 
「増補 大日本地名辞書」(吉田東伍編・冨山房)

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