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  能登の民話伝説

 ここに取上げた伝説は、主に「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)など古い書籍に書かれていたものを、私(畝)が、解りやすく書き改めたものです。現在、伝説の対象となっている建物、人物、物などが残っているかどうか、また同様の現象や行事があるか否かは定かではありません。あしからず。
能登の民話伝説(中能登地区-No.3)

<縁起伝説>
阿良加志比古と藤津比古 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (中島町)阿良加志比古と(中島町)藤瀬に鎮座している藤津比古の二神は、現在地に落ち着く前、宮を建てる(自分の居を定める)ために能登にやってきて、種子島(中島町・字瀬嵐の南沖にある小さな島)を逍遥されていました。しかし、この島を出ようと思うと、舟が無いし、不便だなと思っていると、1人の漁師が、この二神と遭遇し、‘これは、ただ者では無い’と思い、
 「そちらのお方達、そんな島で何をしとらっしゃる。」と声をかけたところ、
 「おーこれは丁度良かった。まことに気の毒じゃが、わしら二人を、陸へ渡してくださらんか。」
というので、漁師は二人を対岸の瀬嵐の地まで渡っていただきました。

 陸へあがって一息すると、阿良加志比古が、
 「どうです、藤津比古殿、お互いに矢を放って、落ちた所に、めいめい宮居(みやい)を決めようではありませんか。」
と言いました。藤津比古は、賛同して
 「面白い。やってみましょう。」
と言いました。

 それで二神は、それぞれ思い思いの弓矢を作りました。梓の丸木弓です。阿良加志比古は、弓の上手で強力者だったので、七尺五寸(2m2〜30cm)の五人引きの大弓を作りました。それに対して藤津比古は、小男で、それほど力がないので、六尺五寸(約2m)ほどの小弓です。矢は至極簡単な野矢で、若竹を適当な長さに切り、雉の羽を矢羽にしたものです。出来上がると、二神は、西北を向いて、弓を引き絞り、それぞれヒョーッと放ちました。

 藤津比古神は、その矢を求めて熊木川をぐんぐん遡り、鉈打(現・中島町鉈打地区)の藤瀬というところまで来ましたら、台地に二立の矢(羽を2枚合わせたもの)が突き立っていました。それでそこに到り宮を建てました。それが現在の藤津比古神社です。

 阿良加志比古は、藤津比古同様熊木川の流れを遡り、途中、舟がもうこれ以上進まなくなったので、貝田の下の辺りに錨(いかり)をおろし、高瀬山に登られたました(その錨をおろされた地は、それにちなんで現在、錨田と呼ばれています)。阿良加志比古神は、高瀬山の頂から、藤木川の向う岸を眺めなされたが、矢は加茂淵という青く澄んだ不気味な淵に臨んだ岩の上に突き立っていました。それで阿良加志比古は高瀬山を下りて、加茂淵に近寄ると、岩陰の所で沢山の百姓達が、なにやら悲しげに泣いていました。

 訳を尋ねると、
 「実は、この淵には、でかい龍が棲んでおって、毎年、毎年この村の娘を生贄にするがで、今もこの男の娘が、食われたとこのがです。」
と一人の老人が答えました。
 「それはいけない。私がその龍とやらを、退治してくれよう。」
阿良加志比古は言うが早いか、ざぶんと淵に飛び込むと、淵の奥深く潜っていきました。

 薄暗い淵の底までくると、一匹の大きな龍が満腹感で眠くなったのか、寝ていました。阿良加志比古は、
 「龍神!、龍神!」
と威厳のある声で呼び起こしました。
ガバッと起きた龍神は、眠りをさまたげた相手を睨みつけましたが、それが阿良加志比古だとわかると、恭しく態度を改め、
 「これはこれは阿良加志比古さま。」
とお辞儀しました。

 阿良加志比古は、
 「今、水の上でお前が村人を苦しめていると聞いてきたぞ。私はそんな奴を許す訳にはいかん。」
と言うと、龍は、
 「どうか、今度ばかりはお許しを・・」
とお願いしたが、でも阿良加志比古は、そんな言葉に気を変えることもなく、
 「お前を観音として封じてやるから、お前の命を私に渡せ。」
と言うやいなや、短刀を引き抜いて、ザクッとばかりに龍の胸元を刺し貫きました。

 龍の体からは、真っ赤な血潮が洪水の如く流れ出て、韓紅(からころものようなもみじ)色に、淵のあたり一帯を染めてしまいました。それから阿良加志比古神は、倒れた龍神との約束の通り、淵に臨む岩頭に阿弥陀三尊として祀りなされた、と伝えられています。
 次に阿良加志比古は、岩の上の真ん中まで行くと、紛れも無い三立の自分の矢を見つけ、そこにお宮を建てました。(加茂明神の入口にある岩上の八手ある観音は、阿良加志比古神が刻みなされた像であると伝えられています。)

(参考)種子島(種ヶ島)のすぐ(数m)南には、前掲(中能登地区-No.3)の 「机島の硯石」 であげた机島があります。
桃が瀑(たき) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 桃が瀑は、(現鹿島町)久江村の阿修羅谷大平の絶壁に懸かり懸かり流れて桃瀬川となります。この大平に仙人が住んでいて、元旦の朝になると、その仙人が一個の桃を瀑水に投じるとのこと。この投じられた仙桃が、桃瀬川を流れることになる。その桃を拾って食べたものは富貴になって長寿を得られるといわれています。古来、久江村に井戸がなく、この桃瀬川から水をひいて飲料しているのは、このためといわれています。
沢野の牛蒡(ごぼう) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 岡(七尾市崎山地区)は、沢野(七尾市東湊地区)とともに、牛蒡の特産地です。沢野の鎮守は、京都角間の宮からお越になった(勧請した)神様で、こちらにお越しになる際、3粒の牛蒡を携えてきて、これを沢野の人々に授けなさり、栽培させたと言われています。因みに沢野の牛蒡は明治維新前まで毎年(加賀)藩主に献上されていた名産であったといいます。
勝尾崎 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、鰀目(能登島町)から一里沖にある「めぐり(暗礁)」へ長さ33尋(ひろ)(一尋は両腕を広げた時の指先から指先までの長さ)の大鯨が馳せ上がった。鰀目と祖母ヶ浦(ばがうら)の両村が各々、その鯨を我が物としようと、相争ったが、遂に鰀目村のものと帰し、勝尾崎に引き寄せ、この鯨を埋めたということだ。それにちなんだ俚謡がある。「下のめぐりへ鯨があがる 祖母ヶ浦ほんたは胸やいた」と。
赤牛の塚 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 佐味(七尾市)の山麓に赤牛塚と呼ばれる古い塚がある。昔、この佐味から佐々波(七尾市)へ通ずる山上に荒神がいて、七尾に出入りする船に祟られたので、船頭などが今の地(赤牛塚)へ遷座を請い願ったところ、荒神は、赤牛に乗り、今の地に移られたのだと。塚のあたりに今も、牛の鳴声を聞くことがあるという。
嫁が淵 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 日用川筋の豊田(中島町)という所に嫁ヶ淵という深い潭(淵(ふち))があり、「碧水渦を巻き其の深さ知測りるべからず」という景観を呈し、里人はこの淵に大蛇が棲んでいると言って、今なお怖れを抱いているといいます。昔、土川(中島町)の里に横地という強欲で無道な振る舞いをする老夫婦がいました。その家はすこぶる富裕であったが、非常な吝嗇家で日常の食べ物さえ多くの材料を用いることはなくケチケチの食事であった。
 その老父には長子がいて嫁を迎えたが、欲深い老夫婦は、あまり飯を食わないでよく働いてくれる嫁女であってくれればよかったのにと、いつも辛く当たった。たまたま嫁女が、里帰りの留守中、1人の美女が現れたが、その姿かたちは艶麗玉の如しという美しさだった。その女性がやってきて言うには「妾は(私を妾として貴方の家に入れるなら)、貴方の気持ちをよく汲んで食べ物を(ほとんど)摂らずよく働いて見せましょう」との事だった。老夫婦は大いに喜んで、この女をすぐに家にいれて嫁女とした。果たしてその言葉通り、朝早く起き、夜半に寝ないで働くその働きぶりは数人を兼ねるほどであり、しかも食事も(ほとんど)とることもなかった。
 その美女がいること数日で、先の嫁女が土産を携えて帰ってきた。しかし家にはすでに美女がいて、甲斐甲斐しく働いていた。老夫婦はお前の留守中に新しい嫁が来たのだ、と言って、先の嫁女が家に入るのを拒んだ。彼女は驚き嘆くこと一方ならぬ様で号泣し続けた。泣きながら道をさまよい歩いて日用川のほとりにやってきた。嫁女は遂に死ぬ覚悟を決め、土産物を路傍の樹上に掛け、身を躍らせて川に飛び込んだ。そのまさに同じ時刻に、あの美しい方の嫁女も、石地蔵に姿をかえ、老夫婦に告げて言うには「我は荒屋社前の地蔵尊である。嫁女となったのは、お前達の強欲を懲らしめるためだ。」と言って、家から走り出て、自ら荒屋の淵に身を投げたといいます(註:荒屋淵は日用川の上流の土川荒屋の神社の前にあります)。
 今なお、この地蔵は淵に沈んでいるが、過去に里人が何度か引き揚げて川上の土地に置いてみたこともあった。しかしいつも、いつの間にか川の中にまた身を投じ、元の通りになるのであった。その時以来、春風秋雨幾百年、嫁ヶ淵の深い淵は、昔そのままに物凄い勢いで渦を巻いているが、先の嫁が土産を包んだ布をかけたという布掛山の名は今も里人に嫁女の哀れを伝えるものとなっている。
走り田 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 伝えられている話によると、昔天正年間に、(能登畠山家の家臣だった)長氏が破れ、長某が小竹(鹿島町)に逃げて来て、百姓吉右衛門の「おくど」(竈の側に穴を掘って煮炊きするところ)の中に隠れさせてもらい危難を免れることが出来たそうです。その後、長某は吉右衛門を徳あるものだと褒め、「お前が走りえた限りの田地を与えよう」と言った。吉右衛門は大いに喜んで「ひた走りに走り続け、ついに躓いて倒れてしまった」。
 吉右衛門は、このように功により大百姓となったが、この褒美を与えられた時に倒れた場所を今ではその時のことにちなんで「走り田」と読んでいます。
芹川 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 芹川(鹿島町)という村がある。昔、この村に小川が流れていて一面に芹が生い茂っていた。その芹の味がまことに美味しいので、採取して国守に奉ることになり、こののち毎年、この地の芹を献上するのが恒例となったので、遂に村の名も芹川と呼ばれることになってしまったそうである。
所の口 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 神代の昔に、この地(現在の七尾旧市街地海沿いの地域)に毒鳥や悪い鳥がいました。そのため、人々は大いに苦しみました。大己貴命(大国主命)が、このことをお聞きになり、それならば私が彼らを退治しましょうと、この地にやってきました。しかし尊(みこと)(大己貴命)の食膳に供するもののうち、何一つとして御口に叶うものがなく、人々は恐縮していました。この時、たまたま山野に生えている野老(ところ)の根を掘りて献ずる者がいました。これを紅葉川の水で調理して、尊(みこと)の食膳に供したところ、尊は殊のほか喜びなされたといいます。野老(ところ)の御口に叶った、というこの伝承から、この地のことを所ノ口と称するようになったといいます。今も気多本宮では、平国祭(お出で祭り)の際に、小島紅葉川の水を奉るといいます。
 また一説には、昔、源順が能登国司の頃、当地より野老の根を掘り出して、献じた古例があり、所の口とはこれより出た名称というものもあるようです。

(参考)私のHPの別のコーナーの別のコーナーコンテンツ 「所口縁起」
大門坂 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 末坂(鳥屋)の中央より眉丈山に通じる坂道を大門坂といい、そこを進むと五輪谷に入る。五輪谷は眉丈山麓における一丘陵であり、もと大伽藍のあった所であるといいます。五輪谷に登る坂の途中に、全体を藤蔓で蔽われた古い塚があり、金塚と呼ばれています。この金塚という名の由来は、村民某がある夜、この場所に9億80貫の金銀が埋めてあるとの神のお告げの夢を見たので名付けられたということです。
捨越川と戻橋 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 捨越川(現御祓川)(七尾市)の名の由来は次の通りである。
 その1)太古、大己貴命がこの国を経営していた(平定の旅を続けてい)時、長々と霖雨が打ち続いて、川(→捨越川→御祓川)水が漲(みなぎ)ってしまったので、命(みこと)は、駿馬に鞭打って、この川を渉りなさったので、捨越川と呼ばれることになりました。この川は八幡(七尾市)の東北を流れているが、川は八田(七尾市)より生じて国分(七尾市)に向かって流れている。
 その2)大己貴命の御子神が父である命を慕うあまりその後を追い、ついにこの川にて追いついたが、父である命は、この御子神を打ち捨てて進みなされた由来をもって捨越川と呼ぶとも。平国祭(お出で祭り)の巡行の途中、神輿でこの川を渡る時、神輿の鈴を鳴らすのを忌む(鳴らないように気をつけるが)が、これは御神に追いつかれるのを怖れるためといいます。御子神が、追いつけず空しく引き返されるので、この場所にかかっている橋を戻橋と呼び、八幡と古府の間にあります。
 また命が、民に助力するため牛馬を放牧なされた地を乗捨または見捨山と呼び、字・下(現・七尾市下町)にあります。また別の説では、この地は若宮八幡を勧請した際、鎌倉より下向してきた神馬を放った所といいます。
 このようにして命が能登国を平定して宮居を所口に定められました。能登生國玉比古神社がこれです。後、命の宮居が、一の宮(羽咋市)に遷されたことにより、この社は本宮との名があるといいます。
 俗に子供の多いことを一の宮権現といい、御子神の遺蹟として伝えられる所は非常に多いが、小竹(鹿島町)より井田(鹿島町)に至る「どう坂」と呼ばれている畷手(なわて)の左の方に一つの古墳があり、堂の塚と言います。この古墳もその一つといわれ、平国祭の巡行の列がお通りになる際、古い時代にあっては、弓に矢を番(つが)いて古墳に射る真似をする恒例の行事がありましたが、これは御子神が命の後を慕い、追ってくるのを追い返すためにするものと伝えられています。
 
(参考)私のHPの別のコーナーのコンテンツ 「御祓川〜数多の別称を有する七尾中央の川〜」
鴫島(しぎしま) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 鴫島(能登島町)は、閨にあり、俗に新島と記し、また行者島ともいいます。もとは島でありましたが、今は地続きとなり、崎をなしておりそのことから漸く昔の俤(おもかげ)を留めるものとなっています。この地は、修道の地で大楽寺のあったところといいます。島に臥(ふせりの)行者が修行した石穴の跡があります。閨とは臥の行者が眠るときに使った場所であるのでこのように名付けられたということです。

 (参考)能登出身の2人の仙人 
  陽勝  (出典:「今昔物語集」、「宇治拾遺物語」「本朝神仙伝」)
  臥行者  (この「鴫島」のの話に出てくる臥行者を紹介)
銭亀橋 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 瀬嵐(中島町)の某家に奉公していた若者にある夜、夢で、「お前は明朝、銭亀へ行け、そこに地にある宝を与えよう」との神のお告げがあった。お告げにそって出かけ、その夜の未明に、銭亀橋に到った。夢のお告げ通りに1個の瓶があってその中には黄金が満ちていた。若者は、その黄金を資本として金沢に呉服店うぃお開いたといいます。
 明治の初めに、山本某が、新田を開いた時に、志保村から来た人が、大判小判を入れた1個の瓶を掘り出し、密かにこれを持ち去ってしまったといいます。銭亀とは、昔この地に住んでいたといわれている金満家銭亀某が、天正年間の上杉謙信能登乱入の際、金銀財宝を瓶に入れ、地中に埋めて難を避けたことにより名づけられたものといわれています。
鰯(いわし)ヶ池 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 石動山(鹿島町)伊須流岐比古神社境内に鰯ヶ池があります。その水は、清冽で掬って飲むことが出来ます。神に祈りながら毎朝この水を飲むと、どのような難病も直らないことはないと言われています。天正10年に、天平寺の僧徒が能登を平定しようとやってきた前田利家に抗し敵対したが、遂に糧道を絶たれ、山中に魚の一切れも得られない状態となり、戦いに苦しんでいたので、僧徒達が五社権現に魚類を与えたまえ、と一心不乱に祈念したところ、池の中が鰯で満ちたと言われています。鰯ヶ池はこの事にちなんで名づけられたものです。
衣川の鮭(しゃけ) (参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)ケーブルテレビななおのHPの能登島の民話) 
 承和年中に、僧空海(弘法大師)が蝦夷(えみし=えぞの人)を退去させるよう勅命を受けて、この地にやってきて(或いは行脚の途中であったとも)、須曽(能登島須曽町)の地に至りました(史実でなくあくまで伝説です)。多くの蝦夷がここに住み、ここに流れている衣川で鮭を獲って常食としていました。空海は蝦夷らに一尾の鮭を分けてくれるよう乞いましたが、蝦夷らは、生臭坊主に与えるような鮭はない、と言って嘲り笑りました。

 よって空海は「昨日来て今日来て見ても衣川須曽ほころびて鮭もあがらず」と歌を詠み、衣川に流しました。
  →(私が試みに考えたこの歌の大意)「昨日来て見ても今日来てみても衣川は、同じ衣川であることに変わりないが、(鮭を掬うために使っていた)裾(須曽)がほころびてしまったので、鮭もあがらない衣川となってしまった」 

 その翌日から、衣川は勿論、(近隣の)いずれの地にも、鮭は揚がらなくなってしまったといいます。これにより、蝦夷らは食料に窮乏し、島の地を去ろうとして、須曽を出発し別所(能登島別所町)の大谷に至って、一同が揃って、どこへ行くにも決して離れずにいよう、約束し峰に登った。この場所を※1・「えぞら」といいます。

 その場所から※2・「友かけの松」を通り過ぎ、無関(能登島無関町)の登比女幾(とひめき)より、船に乗って、何処知れず、島から去って行ったといいます。

 註※1:「えぞら」は「えぞろぎ(イスルギ)」とも呼び、漢字で「蝦夷揃来(えぞろぎ)」とも書きますから、それが由来なら「蝦夷揃う」の意味か、また「イスルギ」の呼び方が本来なら、中能登にある石動山(セキドウサン、もしくはイスルギヤマとも呼ぶ)同様、石動山か石動不動と関係があるのかもしれません。「えぞら」が無関にあるように書かれていますが、「鹿島郡誌」では別所の近くの峰となっています。どちらが正しいかは、浅学にて不詳です。
 註※2:ケーブルテレビななおのHPでは、「友かけの松」は無関にあるよう書かれています。浅学にて不詳です。わからないことばかりで申し訳ございません。
蛸島 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 大津(田鶴浜町)の蛸島は、今は地名として田んぼの中に残りますが、元は島であって、御桜及び塩津の唐島とともに、正月元旦何処から流れて来たのか、庄次平という者がこの島がやってきて、藁を打っていたが、(吸盤のように吸い付いて離さないような?)その音のために、これらの島々が、そのままその場所に留まったのだといいます。大津鉱泉はこの島(のあった場所)から湧き出ています。
<湧泉伝説>
諸味坂 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 後山(鹿西)に「もろみ坂」という所があってその側に泉があります。その昔、その泉は芳醇な香りを漂わせながら滾々(こんこん)と湧き出しいて、人々が飲料などとして自由に汲んでいました。しかし欲深い人がいて、密(ひそ)かに他に売っていたため、遂に、芳醇とした酒気が失せてしまったといいます。
弘法の水 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)他
 ○佐味(七尾市)に臼池という浴場があります(平成21年現在は浴場は無い。近年まであった料亭のことか?)。昔、1人の旅僧が(佐味の現在の臼池の地に)やってきて「ここを掘れば冷泉が出るはず」と教え去っていった。土地の人が言われたとおりにここを掘ってみると果たして冷泉が出てきたが、この旅僧は弘法大師であったといいます。

 ○御祓(みそぎ)町(七尾市)に、その名も弘法湯という銭湯がある。今の銭湯は、都市計画のため、場所が数十メートル移動しているが、昔は川の御祓川の直ぐ横にあった。この御祓川は前田利家が能登に入部して小丸山に居城を築いた際、掘った掘割川で昔は無かったという。弘法大師の頃は、いい井戸がなかったのかもしれない。ここも上の臼池同様、弘法大師が来て冷泉が沸いたという言い伝えの湯である。

 ○古府(七尾市)に、弘法大師の杖の跡より、湧き出てきたという泉があります。水深は浅いけれども、水が清らかで、人々は弘法の水と呼んでいます。

 ○弘法大師が巡錫の際、大津(田鶴浜町)にやってきて、地元の民に水を乞いました。しかし、水を与えてくれるものがなかったので、大師は村の端までいたり、そこで地面を掘ったところ、清水が湧き出てきたのでした。

 ○夏の真っ盛りに玉のように吹き出てくる汗を拭きながら、姿穢(けが)らわしい旅の僧が、一青(鳥屋町)の某旧家を訪問し、一椀の水を乞いました。しかし乞われた婢女(はしため)は、米を研いでいたところでしたが、小うるさいといって、米の研ぎ水を、その僧に与えたのでした。漸(ようや)くにして喉を潤した旅の僧は、恥辱と感じた風もなく立ち去っていったが、その後、一青村内の井戸も水はどれもこれも白く濁ってしまい、いまだに澄んだ水が得られないといいます。姿穢らわしい旅の僧は、行脚の途中の弘法大師だったと伝えられています。

 ○熊木村(中島町)貝田城跡の西巌窟に一つの小さな池があります。弘法大師が穿(うが)った池といわれています。弘法の池と呼ばれており、いまだに清水が湧き出ています。
 (参考) 能登の城・砦・館「熊木城跡」

 ○鹿島路村(現羽咋市(以前は鹿島郡だった))の宿屋に泉があります。巌の隙間から清水が滾々(こんこん)と流れ、道行く人は自由に汲んで利用しています。この清水を弘法様の水と呼んでいます。

 ○小島(七尾市)の紅葉川の泉は弘法の杖の跡より湧き出たものといわれ、紅葉川と名付けられたの訳は、水の湧き出る様子が、楓葉の形を成して、砂を葺くように湧くためだといいます。
弘法の池 (参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)ケーブルテレビななおのHPの能登島の民話)
 日出ヶ島(能登島)の東端に、弘法の池があります。大師が巡錫の際、この地にやって来て、出会った村人に水を所望したといいます。

 しかし村人は、井戸も川もなく隣村の二穴まで行かないとないと事情を説明し、気の毒だがと隣村に行ってくれと詫びました。弘法大師は、飲料水に乏しい地であることよと村人達を不憫に思いました。

 そして近くの筆を岩上に撫でたところ(一説では突付いたともある)、不思議なことに清水が湧き出てきたのでした。この水は「筆しみ水」と名づけられ、村じゅうの飲み水として利用されました。

 また弘法大師は、その際「小泉と聞いて来たれど薄墨や筆はなけれど筆が島なり」と一句、詠まれたそうです。よってこの地を筆ヶ島と名付けましたが、後に、それが訛(なま)って日出ヶ島と呼ばれるようになったといいます。
上湯川冷泉 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 上湯川(七尾市)杉田橋の川中に冷泉が湧き出ています。もともとは温泉でしたが、某家の妻女が、オムツを選択していたために、(バチがあたり)冷泉となってしまったといいます。
<呪詛伝説>
懐中の黄金 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 外林(七尾市)の前田某という者が、城山(能登畠山家の居城・七尾城)落城の折(天正5年(1577))、城を落ち延びたある姫君を、笊籬山へ案内した途中、姫が懐に持っていた黄金に欲心を起こし、無残にも姫君を谷底へ投げ込み、その黄金を奪った祟りで(その前田家では)不具者を出すといわれています。
ごす神 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 上(鹿西町能登部)の能登部神社の苗裔(ばっこ)祭りは、子の刻(深夜0時)に始まり、丑の刻(深夜2時)に終わります。神官供奉の人々が上の宮から西馬場の宮に到り、御神体を取り出し、沢井一楽氏が、後ろ向きに背負い、上の宮に帰り、奥殿に収め奉るが、後ろ向きに背負う理由は、その御神体が癩病(ごす)神であるので、途中人と遭うのを忌むからである。もし人と出遭えば、喰い殺せとの神託があり、途中誤って出御の列に遭って御神体を眼にしてしまうと、その人はたちどころに癩病(ごす)になるといわれています。祭事は、11月19日であるが、この11月という神無月は、神々の縁結びのため、どの神も出雲へ出かけてしまうのであるが、この神は、癩病神であるので、出雲へ参ることもなく、他の神々の留守の間に祭事を行うのであると伝えています。
櫻林 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 上杉謙信の乱入に遭った折、夥しい財貨を人知れず、櫻(桜)林(中島町瀬嵐)に埋めて逃失してしまったものがあると伝えられています。八平の老翁が、ある夜、夢のお告げに「桜林の財貨を与えてやるから、人知れずその財貨を取り去れ」というのを聞き、夜中に桜林に到り、闇に煌く黄金を求め得て、喜び勇んで家に帰ってきたが、途中図らずも、人に出会ってしまい、懐に入れていた黄金は、忽ちに一羽の鳥と化して飛び去ってしまったといいます。
片眼の鮒 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 小田中(鹿島町)付近は、(日本海に繋がっている邑知潟に面した)もと入海でありました。(小田中の親王塚に祀られている)親王様は亀に乗ってお出ましになり、そのまま此処に、居をお定めになられましたが、今の亀塚はその亀であると伝えられています。親王様は、片目の神様であったので、そのお池に棲む蛙や鮒も全て片目であるといわれています。昔、茂右衛門という者が、お池の鮒などを獲って食べたところ、その報いでその娘が片目になってしまったと伝えられています。
空屋敷 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 祖浜(七尾市西湊地区)の橋本家は平家一門の家柄であって、その祖先は壇ノ浦から逃げてきたものと言われています。地方の豪族として、宛然大名のような勢力をもっており、建坪千坪にも余る邸宅を構え、豪奢を誇っていたが、※槿花一朝の榮のことわざのように、、何時しか廃れ、遂に廃墟となってしまった。その後、邸(やしき)の跡にやってきて、住んでみた者も少なからずいたが、何れも零落してしまい(おちぶれてしまい)立ち去ることになるのが常であった。そのそのため空屋敷として住む者がいなくなり、今はその場所は、屋敷は取り壊され開墾されて、田畑となってしまったといいます。

※「槿花一朝の榮」(あるいは「槿花一日の榮」ともいう):「槿」は、むくげもことで、「榮」は「栄」の旧字です。このことわざの由来となった文章が書かれているのは、白居易の、放言詩で、「松樹千年終是朽、槿花一日自為榮」です。読み下し文にするなら、「松樹、千年にして終(つい)に是朽ち、槿花は一日自ら栄え為す」といったところか。訳は、松の樹は、千年という長寿ののちについに朽ちて倒れるが、槿(むくげ)の花は、たった一日のうちに、綺麗に咲き誇り、そして萎んでしまう、という意味だろう。つまり栄華の儚さを、槿の花に喩えたことわざである。
<怨霊伝説>
お歯黒鮒 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (能登畠山氏)七尾城が、上杉謙信の攻撃のためあえなく陥落した際(天正5年(1577))、城中にあった侍女らは、生きて縄目の恥を受けるよりはむしろ、自ら死んだ方がましだと、お互い語り合い城中の池に身を投じて自殺したということです。それでこの池に棲むお歯黒鮒は、無残な最後を遂げた侍女の怨霊であると言い伝えられています。夏と秋の頃、小雨の夜十時頃より、この池の一角に一条の怪火が発生してふわりふわりと飛びながら七尾の町に向かい、郡町付近に至ると消えてなくなってしまうといいます。土地の人は、この火のことを「おかね火」と呼び、矢尽き、刀折れ、恨みを呑んで討ち死にした畠山氏家臣の亡霊であって、人がこの火に触れると忽ちにして命を失うと伝えられています。
 また(七尾城跡である)城山に多少の土地を所有していた古府のある老女の話によると、城跡から掘り出して取った武器などを、家に持ち帰ろうとすると、忽ち後髪が引っぱられる心地がして一歩も進むことが出来なくなるといい、その品を元の場所に戻せば何事もなかったかのように、普通どおりに体を動かすことができるようになると言われています。
虚空蔵坊と番頭火 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 今から昔に遡ること7百年前、大三階(七尾市東三階)に虚空蔵山に虚空蔵寺という寺があったが、幾つかの下寺を有する大寺であったといいます。ある時、小僧が和尚の使いで満仁(七尾市)の集落にあった摩尼殿へ書状を持って行く途中、どうしたわけだろうかその書状を失くしてしまい、一晩中捜し求めたが、遂に見当たらず、狂わんばかりに途方に暮れ惑ってしまった。小僧は申し訳ないと思い、哀れにも川に身を投げて果ててしまった(投身自殺してしまった)。その後、春のから秋の初めにかけての草木も眠る丑満刻(うしみつどき)(深夜2時)の頃、二宮川に沿う高階と鳥屋の間の川の堤の上を、突然現れて、ふわりふわりと行きつ戻りつしながら、ふっと一瞬にして消えてしまう怪火が出ることがあり、地元では「こくうぞうぼん(虚空蔵坊)」と言います。
 ある年の夏、屈強の若者が数名、盆踊りの帰りに、この虚空蔵坊(こくうぞうぼん)と呼ばれる怪火の正体を見届けてやろうと、川堤に出かけ、稲の茂みに隠れて見守っていたが、ほとんどのものはその怪火が現れたとたん恐れをなし、その正体を確認することはできなかった。それでも1人だけ気丈夫の者がいた。彼は、怖いながらも、その怪火に気付かれぬように後を追い、やっとのことでその正体を確認したところによれば、裾のあたりは、ぼやっとしてはっきり見えなかったが身長が6尺(約1m80cm)または7尺(約2m10cm)もあり、蒼白(あおしろ)い衣服を着け、ややうつむき加減に、その表情は無限の悲哀、憂愁、怨恨にもだえ苦しんでいるような大男が、足早に過ぎ去った姿であった。虚空蔵坊は、この投身した小僧の怨霊と言われています。或いは、主命を受けた若党が、その使いの途中大切な状箱(書状が入った箱)を遺失してしまったために、川の淵に投身自殺し、その怨霊が、今だにその時の状箱がどこかに落ちていないものか、行きつ戻りつしつつ捜し求めているのだとも言われています。
 また長曽川と久江川との間を往来する怪火があり、番頭火と呼ばれています。昔、ある村番頭の大切な書状を遺失してしまい、それがもとで遂に病にかかり亡くなってしまいました。その番頭の「あの書状はどこに消えてしまったのか」という一念が怨霊となって今なお行きつ戻りつしながら書状を探しているのだと言われています。
血刀の泉 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 外林(七尾市北大呑地区)の前田某の家では、毎年旧暦大晦日の真夜中、同家の西南隅にある泉の水が、特に泡立ちて湧出すると言われています。しかもそれを見ることが出来るのはその家の男性に限られ、なおかつ当主、または嗣子のみで、泉水が湧き出る際、足音を立てたり、またはその水を汲んでしまうと、その水は湧き出るのをやめると言われています。泉は周囲約5間(約1.8m)で深さはおよそ7尺(約2.1m)あります。今日まで、その泉の周りに井筒を何度も設けてみたが、何の故障もないのだが、いつの間にか壊れてしまうといいます。
 昔、城山(能登畠山氏の居城・七尾城が)落城の際、畠山氏の奥方が、逃げてきて同家に匿われたが、敵にそのことを悟られ、無残にも殺害されたが、その時に使われた血にまみれた刀を、この泉で洗ったため、怨霊が祟(たた)って、このようにするのだと言われています。
仏間の怪 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 崎田家は須曽(能登島)の草分けの中の草分け、最旧家であり、島八太郎の一人、先田秀乗の末裔であります。能登畠山氏は、越後の上杉謙信のために、七尾城が陥落すると、家の子郎党と共に崎田家に遁(に)げて来て、仏前で自刃したと言います。同家では、家人はもとより、如何なる客人が訪れようとも、この仏間の座敷で寝てもらうことはなく、もしその掟を犯す者があれば、臥床のまま部屋の隅に片寄せられるか、或い隣の部屋に移されるといいます。
 崎田家では、出産の際は、土間に産褥(出産の際の産婦の寝床)を設けるのを恒例としています。もしその禁則を破って、床の上で分娩しようとするときは、必ず難産となるか、さもなければ奇形児を産むと言い伝えられています。
橘屋の火魂  出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 江戸幕府の頃、海鼠は七尾湾の特産であり、加賀藩は大いにこの産業を保護を加え、これを商う者は、独り塩屋家の特産品に限られていました。この特産品を有する塩屋家は、一本杉町に壮麗な邸宅を構え、他にも薬種商を営み富豪として有名であった。塩屋家が、海鼠を輸送しようとする時は、久宝丸という名の帆船に赤旗を掲げて長崎御用と称し、七尾から長崎まで直航したといいます。かつて江戸幕が、海鼠専売の特権を幕府の手に移そうと画策し、「幕府が我らを七尾に派遣したのだ」と、3人の武士が塩屋家に来て、交渉したことがありました。
 その際、塩屋家の一族の中に五郎兵衛という弁舌の才のある者がいたが、この使節と面接し論難説破して使節の主張が道理に合わぬことを難詰した。三人の武士は、遂に言葉に窮し、※旅館橘屋に帰って切腹したといいます。幕府の使命を辱しめ、武士の恨みを呑んで自刃し亡くなった三人の魂は、この地を離れることが出来ず、夜な夜な火魂(火の玉)となって現れたと伝えられていいます。
 あるいはこうも伝えられています。昔、橘屋に兄弟の武士が泊まっていたが、弟の方が病気に罹(かか)って遂に、いざり(尻を地につけたまましか進めない)の状態になりました。兄はそんな弟が不甲斐なく、無残にも弟を斬り殺してしまったという。そしてその弟の怨霊が、火魂(火の玉)となって毎夜この家に出たのだと。

※註:「石川縣鹿島郡誌」の中では、橘屋と橋屋という名が混同して使われており、どちらが正しいのか、私には今のところ判断つきません。
(参考)私のHPの別のコーナーコンテンツ (塩屋は、岩城家の屋号)
「江戸時代能登を代表する文化人を輩出した一族・廻船業者・岩城家」
「エピソード(岩城穆斉)」
狐の祟り 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 岡(七尾市崎山地区)に狩好きの老人が居ました。ある日、友人の老人と狩に出たが、偶々一匹の古狐を見つけ、幸先良しと、これを射倒して縄で結び担いで海辺まで出たが、背負った狐がむくむくと動き出したので、水中に投げ込みこれを殴り殺した。翌朝、急に老人が病に罹り、医者よ薬よと手を尽くしたが、何の効き目もなく日々衰弱するのみとなってしまったので、祈祷を行っってもらったが、そうすると巫女が姿恐ろしく声も荒げて「汝は、わが夫を惨殺した。よって我も汝を苛め殺そうとしているのだ」と。かくして老人は間もなく悶絶して死んでしまったといいます。
<滑稽奇談>
狐に間違われた住持 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (昭和3年から遡って)7,80年前の話である。
 最勝講(さいすこ)(中能登町最勝講)の住持が夜遅く七尾からの帰り道、急に大便をもよおし、近くに適当な人家が無かったので、徳前河原(どすがはら)の竹叢(たけやぶで)に分け入り大便をしていた。

 そこへ近くに住むある臆病な男が通りかかった。竹薮の暗がりの中で、用をたし終えて立ち上がった住職にビックリして、狐が自分を化かしに出たと思い込み、物狂いのように住持を引っ捕らえた。そして
 「おのれ狐め、オラを化かそうちゅうんかい」と怒り、持っていた担い棒を振り上げ、叩こうとした。

 住持は
 「わしは狐じゃない、最勝講の住持じゃ」と言い聞かせた。しかしその住持の言い訳を聞いた男は、それを聞いて
 「おのれ古狐め、なおもオラを化かそうとするのか」とさらに怒りを大きくし、烈火のごとく住持に撃ってかかった。

 困り果てた住持は、撃ち叩かれながらもこんな興奮した男に何を言い訳しても通じぬと悟り、一計を案じた。そして言葉静かにこう言った。

 「わしは、確かに汝の言うようにこの徳前川原に棲む古狐じゃ。今後は、心をいれかえ決して人を化かすような事はしませんから命だけは助けてください。助けてくれましたら、お礼にあなた様に福徳を与えます。」

 そして懐の中から七尾の町で子供のために買った土産を取り出して、
 「あなた様が、一文欲しいと思えば"一文"とうた唱(とな)えてから笛を吹きます。二文欲しいと思い"二文"と唱えて笛を吹きます。そうすると財宝は自分の思い通りに現れる」と言いました。

 そして実際に"一文"と唱え、笛でピーヒャララ、"二文"と唱えピイヒャララ、最後に"五文"と言ってさらにまたピイヒャララと鳴らし、その都度財布から文銭をコッソリと出し、闇でよく見えぬ堂に置いた。

 どれどれと実際に銭があるのを確認し喜んだ若者は住持を許して開放した。
 住持は、嘘がバレタラたらまた何をされるか分からないので、ここぞとばかり逃げ帰った。

 昨夜の臆病者は、翌日になってから、妻子も退けて、独り座敷に籠った。そして"一文"と唱えピイヒャララ、"二文"と唱えピイヒャララと吹いてみた。しかし何時まで経っても、銭など全然現れ出る様子が無い。

 「さては、またもや狐に化かされたかな?」と疑ったりあれころ色々考えてみた。
 そしてやっと「もしや、昨夜の狐と思った相手は本物の住持だったのかも」と思い至り、恐る恐るその寺を訪ねてみた。

 住持は臆病者の問いに、じろっと視てから「その通りでござる」と答え、そして苦りきった顔で徐(おもむろ)に前夜の一部始終をその臆病者に語り聞かせた。

 男はまさに自分の思い誤りであったと気付き"御坊に大変申し訳ない仕打ちをしてしまいました"と恐縮しひたすら謝りながら、逃げるように立ち去ったという奇談が今に伝わっています。

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