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  能登の民話伝説

 今回は今昔物語集ほど有名ではありませんが、地元のことなどに関して書かれた古い本などを参考に、書かせてもらいました。現代語で書かれているものに関しては、一部表現や内容を要約させてもらっています。また擬古文や古文などの訳については、何分浅学な知識で訳すため誤訳も生じるかもしれません、またたとえ間違いでないにしろ、拙い訳と思える箇所が多々あることでしょう、その当たりはご愛嬌で容赦願います。また勿論、一部ではかなり意訳もしていますが、ご了承願います。
能登の民話伝説(奥能登地区-No.2)

<珠洲の民話伝説>
勝安寺と弁天島にまつわる3匹の虻の不思議な話(三匹の虻) 参考:「日本の昔話」柳田国男著
 昔、能登国蛸島(現在の珠洲市蛸島)の湊に、柳某という人がおりました。
 ある日一人の若い者を連れて、鯖を釣りに小船に乗って沖に出ましたが、面白いほど鯖がよく釣れるので、帰ることも出来ないで、いつまでも釣りを続けていますと、舟を漕ぐ若い者は、退屈になってしまい寝てしまいました。主人は暫くして、ふと気がついて見ますと、何処から来たものか三匹の虻(アブ)が飛び回って、しきりに寝ている男の鼻の穴から、出たり入ったりしています。

 こんな沖合に蚊などが飛んでくる訳がないが、と思って、その若者が寝ているのを揺り起こしました。若者が起きて言うことには、
 「私は今実に珍しい夢を見ていました。村の丸堂の中から3体の仏様が三匹の虻になって飛んで出られたのを、どこまで行かれるのか見届けようとしているうちに、貴方が起こしになったのです」と申しました。

 主人はこれを聞いて「それはなる程奇妙な夢だ。それでは今日の鯖を残らずお前に上げるから、その夢を私に売ってくれぬか」と言いました。
 「夢なんかもし買って下さるならば、幾らにでも売りましょう」と言って、若者は沢山の鯖を貰(もら)って、喜び勇んで共々帰って来ました。
 柳の主人は、その足で直ぐに村の丸堂という御堂のある所に行って見ますと、果たして夢の話の通り、御堂の壁の隙間から、3つの虻が出入りしておりました。

 笠を手に持っていたので、そっとその虻を押さえて大急ぎで家に帰り、座敷の中でその笠を除けてみますと、虻ではなくて一寸八分ほどの美しい3つの御仏像でありました。
 これを3つとも家に置いては、あんまり欲が深すぎると思いまして、阿弥陀様は村の勝安寺というお寺に納め、弁天様は湊の外の、小さな島に持って行って、今でもそこを弁天島と言っております。そうして残りの毘沙門様の像だけは、今でも大事にして、この家で祀っているという話であります。
欲張り婆さ 参考:「鳳至郡誌」
 昔、旧上戸(うえど)村(珠洲市上戸町)に、実に欲深な婆さんがおりました。若夫婦が稼いだお米や野菜をくすね、それを少しずつお店に売って、それで手にしたお金を、こっそり、しんがい(ヘソクリ)にしていました。

 婆さんは、しんがい銭を、自分の絹布団の中に、一文一文しっかり縫い付けて貯めていました。欲張りというものは、誠におかしなもので、そうしないことには、心が何かしら寂しいのでした。

 けれど、歳だけは思うようになりません。婆さんはそうして貯め込んだお金を、一文も使わないうちに、その上誰にも教えないで、とうとう亡くなってしまいました。

 ところが、若夫婦はそんな婆さんだとは、ついぞ知りませんでした。それで婆さんの絹布団を、別に検(あらた)めもせず、古着屋へ売ってしまいました。

 古着屋の旦那は密に喜んで、売主を帰した後、絹布団をはがして銭を数えてみますと、いうに十貫文はありました。その上、絹布団を見ると、仕立て直し次第では、まだ丹前ぐらいには十分仕えますので、なお喜びました。

 しかし、さて出来上がった丹前を着て寝たところ、どうしたものか、若夫婦の婆さんーとっくに死んだはずの婆さんが現れて、
 「温(ぬく)いかのきゃ、温いかのきゃ」と恨めしげに、旦那の顔もとを覗きこんで尋ねるのです。しかもそれが毎晩のことなので、旦那は怖気づいて、終いにはその丹前を、川へ捨ててしまったということです。
珠洲の義経伝説 
 ◎義経の割石
 珠洲市清水町にある源義経が一太刀で切り割ったと伝えられている石。今は海岸から離れた場所にあるが、800年前の義経が来たといわれる頃は、海岸にあった。
 ◎「馬緤」と「泊」の地名の由来
 源義経一行が平時忠を訪ねてしばらく滞在したところが「泊(とまり)」(馬緤の一在所名)、馬をつないだところが「馬緤(まつなぎ)」という地名となった。中世の史料では「馬緤」ではなく「馬繋」となっている。
 ◎義馬草
 源義経一行が馬緤に着いた際に、義経の馬にホンダワラ(神馬藻)を与えた。ホンダワラは栄養が豊富で実が多いことから神饌の代表でもあったが、それ以来「義馬草」と呼ぶようになった。
 ◎山伏山
 珠洲市狼煙町にある山の名で、標高172mある。昔、源義経の家来・常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん)は、九穴(きゅうけつ)の貝を食したため不老不死となり、いつまでも義経の思い出を語り歩いたといわれている。その海尊が珠洲岬で一行と別れて残り、時々、修行姿の山伏姿で現れたという伝説が山名の由来となっている。須須神社の旧社地とされ、山頂には奥宮がある。
 ◎義経駒の爪石
 珠洲神社(珠洲市三崎町寺家)の境内にある源義経の愛馬が爪跡を残したとされる石。
 ◎「蝉折の笛」と「短刀一振」
 上と同じく珠洲神社にある宝物で、義経が珠洲岬の沖合いで海難(暴風雨)に遭った際、海上守護神の三崎権現(須須神社)に向かって「波風を静め給え」と必死に祈ったところ、風が止んで救われたとして奉納したものです。そのお礼に須須神社へ参詣し、義経が「蝉折の笛」、弁慶が「守刀」(短刀一振り)を奉納した。(珠洲市・珠洲神社)
 ◎塩津の舟隠し
 珠洲神社に近い塩津の海岸にも「舟隠し」といわれるところがあります。(珠洲)
<能登町(旧能都町地域)の民話伝説>
コン狐 (参考:「鳳至郡誌」他)
 昔々、もと宇出津(現鳳至郡能都町宇出津)の城山に天呑城というお城がありました。城主の家来の中に三宅小三郎という侍がおりました。
 小三郎には、玉の様に可愛い息子が一人居りましたが、その息子がかなり前から、不治の病に罹ってしまいました。可愛い一人息子なので、小三郎夫婦は、何とかして助けたいばかりに、毎朝毎晩、神仏にお祈りしました。けれど、何の効験も現れませんでした。

 ある真夜中のこと、誰か「小三郎、小三郎」としきりに呼ぶものがあります。目を覚まして、暗がりをじっと見ると、枕元に一匹の狐がこちらをじっと見て立っていました。
 小三郎は少し不審に思ったものの武士らしく落ち着いて
 「何用か?。」と尋ねると、その狐は、

 「私は城山に棲むコン狐と呼ばれる狐です。私にも小三郎さんと同様可愛い息子がありました。しかしつい三日前に、この世を去ってしまいました。それで困っていることがあります。その祠を建てたいのですが、力に任せて木を倒したり、土地を均(なら)すような仕事ならできます。が、どうしても大工仕事のような細かい仕事は狐の渡しには手には負えません。何とか援けてくださいませんか。もし祠を建てる事が叶いましたら、そのかわりあなたの息子さんの病気を治してあげます。どうかご助力をお願いします」と丁重に頼みました。

 小三郎は、狐なれどその子供への深い愛情に感じ入り、コン狐の願いを聞き入れることにしました。
 あくる晩、コン狐はツルハシとモッコを持って、海の出っ端へ行きました。仲間でも呼んだのでしょうか、狐火がぼーっと揺れる中、一夜のうちに、出っ端の途中を切り取って、その岩石を、隣村の藤波という所へ運びました。
 コン狐は、岩石を置き礎(いしずえ)を築くことによって、あとは祠を建てるだけの状態にしました。

 「小三郎どん、礎が出来上がりましたから、どうか祠を建てて下さい。」とコン狐が言いました。
 小三郎は、
 「あい分かった。後は拙者に任せあれ」というと、昨日用意しておいた材木を祠を建てる場所まで持っていくと、早速仕事を始めました。器用に墨壷で線をひいたり、鋸、鉋(かんな)、鑿(のみ)などを使いこなし、数日でそこに薬師堂を建てて、コン狐の息子を祀りました。

 するとたちまち効験が現れました。小三郎の息子はすっかり良くなって元気になりました。
 小三郎夫婦は大変喜んで、それからは雨の日も、風の強い日も、その海に突き出した崎の地にある薬師堂へお参りしたということです。

(参考) 能登の城・砦・館〜No.3〜崎山城
田舎の黒烏 参考:「鳳至郡誌」
 昔、鵜川(現鳳至郡能都町鵜川)の三田(さんでん)に四郎右衛門という者がおりました。都へのぼって、某中将とか申す貴族の屋敷に仕えて、庭掃きの仕事をしていました。

 四郎右衛門はまことに愉快な男で、また歌といったら、三度の飯より好きな男でしたから、暇さえあれば、箒を逆さに、大きな声で歌を歌いながら、踊っていました。

 ある日、某中将の姫君がこれを聞きつけました。御簾(みす)をかかげてその様子を見ると、その男の格好といい、踊りといい、まるでキチガイ沙汰でしたから、つい罵(のの)しって揶揄(やゆ)しました。
 「お前の声は、田舎の黒烏そっくりぞよ。早う、仕事でもおし。」

すると四郎右衛門は、直ぐに歌で以って答えました。
 「羽打ち揃えて立つときは、中将姫も下に見る。」
ところが悪いことに、二人の様子を、姫の母君が窺がっていました。そして母君が言いました。
 「姫、そなたの仕草は、われら貴族にあるまじきこと。このままには置かされませぬ。ささ、今すぐにも、この屋敷を出てもらいましょう。」

 姫君は、しきりに許しを乞いますが、受け入れられません。それで、今となっては仕方なく、自分の屋敷を出ました。
 けれども、どこへも行く宛が無いので、ただ泣きながら、門の外を彷徨うばかりでした。
 四郎右衛門は、これを大層憐れに思って、
 「もし良かったら、おらの里へ行きませんか。」
と言いました。それではというわけで、姫君は四郎右衛門と連れ立って能登の諸橋(現鳳至郡穴水町諸橋)に着きました。

 その時は、船路をとったので、はじめについた所を、今でも姫崎と呼んでいます。
 二人は、そこから山田川を遡(さかのぼ)り、程よい場所に住居を構えました。二人は楽しく暮らしました。
 ほどなく、息子が生まれましたが、村人はそれに因んで、ここを「産田(さんでん)」と言う様になりました。今の三田(さんでん)がそうです。

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