このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

能登の城・砦・館
〜No.3〜

 ● 是清館跡(これきよだちあと) (門前町是清)
 阿岸川と南川に挟まれた緩やかな舌状台地にあり、阿岸の地頭長氏の居城と伝えられる。付近には通称大館や掘の腰・馬場・的場・山崎家屋敷・館甚兵衛屋敷(たちじんべいやしき)などの地名が残る。昭和44年(1969)の調査により小礫を粘土で固めて漆喰状になっている土塁や石垣など遺構の一部を検出、須恵器・土師器・珠洲焼・青磁・近世染付などの破片を採取した。「長家譜」は長谷部信連の五男某を阿岸地頭とし、阿岸長氏系図(本誓寺文書)では、長時連の子・清連を是清地頭とする。
 近くに、五輪塔・宝塔もあるが、家老山崎家の墓であると伝え、館跡の南側山中に是清城があったと伝える。(「石川県鳳至郡門前町是清の地頭館址調査報告」石川考古学研究会会誌13・1970年)

 崎山城跡 (能都町宇出津)
 宇出津南湾を挟んで棚木城と対峙する。現在は宅地造成や県立能都北辰高校(元・宇出津水産高校)の敷地化により、ほとんど旧状を留めない。
 天呑(てんのみ)城とも称され、三宅小三郎の居城と伝えられる(「三州志」「能登志徴」など)。小三郎は、能登畠山氏家臣の 三宅氏 庶流で、大永年間(1521-28)の能登畠山氏の黄金期を作った 畠山義総 の寵臣の三宅小三郎以後、永禄年間(1558-70)の三宅続宗、天正年間の宗隆などが知られる。最後の当主宗隆は、天正5年(1577)9月の七尾城落城以後、越後上杉謙信に従ったが、天正7年温井景隆らとともに上杉勢を能登から追払った。その後、前田利家の能登入部に伴って一時これに服したが、天正10年の石動山の荒山合戦において前田方と交戦し敗れた(「能登志徴」など)。 「能登名跡志」に「氏宮は棚木白山宮、神主棚木氏也。一社は酒垂宮松尾大明神にて、町の南の岡にあり。神主加藤氏也」とみえる。白山宮は棚木城跡付近の白山神社、酒垂宮は崎山城付近の酒垂神社とされる。酒垂神社付近には、三宅宗隆の守護神を祀っていたとされる天呑宮跡がある。

 山田館跡 (やまだたち)(能都町瑞穂)
 山田川中流左岸の丘陵部、通称館山(たちやま)付近に比定される室町後期の山田秀次の居館跡。東側の通称城山(しろやま)は秀次の城砦跡といわれ、山田城・院内城と呼ばれる。山田氏は大屋庄(現輪島市)の地頭長信連(長谷部信連)の六男の末裔とされ、長氏系図(長文書)には六男某は「大屋庄山田之地頭」とみえる。
 戦国後期に藤波付近を領した山田四郎三郎(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)、弘治年間(1555-58)温井・三宅一党の能登侵攻に伴う内乱で籠城中の七尾城から欠落した山田左近助(「畠山義綱判物写」重蔵神社文書)などの名が知られ、永禄4年(1561)正月畠山義綱が長続連の七尾私亭に出向いた際の饗宴の席に、「御家之子」として山田十郎兵衛の名が見える(「長伝書」長文書)。
 また、羽咋市本念寺所有の永禄9年(1566)2月27日鋳造の穴水青竜寺旧鐘銘にも山田六郎五郎の名が見え、これらは山田氏の一族と見られる。なお遺構については不明で、丘陵山頂部に山田城の郭跡と見られる平坦面が残るのみ。
 

 天堂城跡 (輪島市別所谷町)
 鳳至川の上流域で、輪島市外から約7km遡った同川上流(支流黒川)を臨む丘陵上にあります。丘陵(標高220m)の中腹には、ヒョウゴヤシキ(兵庫屋敷)キドグチ(木戸口)、クビキリバタケ(首切畠)、トノサマヤシキ(殿様屋敷)、コイトヤシキ(小糸屋敷)、エンヤマ(円山or園山)などと通称する平坦面(郭)が10ヶ所ほど点在し、屋敷跡や石垣跡など多数の遺跡が残されています。
 中世城跡としては、七尾城と匹敵する奥能登では最大規模、山城としても全国最大級と折り紙がついています。城跡麓の集落付近から、珠洲焼片なども採取されています。城主については、明応2年(1493)9月の銘がある八幡大菩薩寄進札(別所谷八幡神社)に、当地の領主藤原(温井)俊宗の名がみえ、また郭内に兵庫屋敷の地名が残ることから、兵庫助を世襲官途名とした温井氏嫡流(孝宗−総貞−続宗−景隆)と推測されています。
 この記録のように領主は室町時代から戦国期にかけての能登の守護職だった畠山家の家臣の一人と言われた温井氏であることは間違いないと思われます。中でも温井備中守俊宗は、七尾城主4代目、畠山義統(よしむね)の執事として活躍した人物です。主君義統が能登守護に任じられた康正元年(1455)に、俊宗は、この天堂しろを北辺の守りのために築城したと伝えられています。
 2代目城主孝宗、3代目総貞、4代目続宗、5代目景隆と続きます。安土桃山の天正7年(1579)温井景隆、三宅長盛兄弟は、上杉謙信の病死に乗じて能登から上杉勢を追い出して七尾城を手に入れ織田信長と提携しました。その後、温井兄弟は、長連龍(ちょうつらたつ)と金丸菱脇で戦いを繰り広げ、翌年能登を追われます。
 天正10年(1582)、信長が本能寺の変で横死したため、温井兄弟は、能登奪還を目指し石動山衆徒と組み前田利家・佐久間盛政連合軍に挑みますが、石動山の 荒山合戦 で前田利家に敗れるました。それでの120数年間、温井氏は、この輪島市一帯を領有していた昔の領主ありました。
 城の建つ別所谷は、鳳至川上流横の丘陵にありますが、川を挟んで神明山、八幡山、権現山、犬伏山などが屏風を立てたように聳えています。この城は権現山を中心に中腹から麓へかけて鳳至川をところどころ堰き止めて外堀とするように地形を巧みに利用して作られた城で、範囲約1k㎡もあると思われる非常に広大なものです。
 遺跡は、山麓の殿様屋敷を大空掘によって独立させ、背後に兵庫屋敷を主郭として、周辺に家臣の屋敷を配置した山城です。南方以外は、鳳至川の本流と支流黒川により守備を固めています。また、別所谷の地は、山稜に囲まれた盆地のため、門前方面に「木戸の坂」、三井方面に「木戸ノ口」、北谷方面に「木戸の平」と、集落の入口を示す木戸跡が残されています。
 
  姫ヶ城跡(ひめがじょうあと) (輪島市三井町渡合と打越町の境界)
 この城は、別名、渡合(どあい)城、興徳寺城とも呼ばれています。東から南方にかけて河原田川によって遮断された要害の地で、西方の尾根続きとは谷と堀切によって切断されています。
 旧道は、河原田川に沿って城跡の裾を通り、打越町、そして別所谷町の木戸の口へと続いています。打越町から三井町本江にかけて「姫ヶ淵」、渡合から長沢、小泉、洲衛を経て中居へ通じる道筋を「姫の通り」と呼んでいます。
 城跡は、山頂を削平し平坦な地を設けた小さな砦で、東側の尾根突端に主郭を置き、周囲に二重の腰郭を築いています。主郭からは、三井地内が一望できることから、物見を目的に築いた砦と考えられています。
 城主は、長氏の類家の三井氏と伝えています。長享元年(1487)江州在陣衆の中に三井左京亮(みついさきょうのすけ)が見えます。一方、三井町仏照寺縁起は「開基空西は、文明年中畠山家臣三井ノ城主温井備中次男政貞が出家し、真言宗興徳寺を号した」と伝えています。また熊野町光栄寺縁起は「大永3年(1523)三井郷本江城主高柳三井守保弘(長氏武将)堂宇修繕を加えて祈願所」としたと伝えています。
 こうした状況から、三井郷は、長氏と温井氏の領地の接点であったことが窺がえます。

 
南志見(なじみ)城跡 (輪島市里町・渋田町)
 南志見川の河口に近い右岸にあり、里町の南志見住吉神社の裏山(通称城山)に所在する。尾根上付近に平坦面(郭)があるが、未調査である。城主は「三州志」には弘治年間(1555−58)の南志見中務大輔とある。彼を北能登外浦地域の代官であった長南志見光速に比定する説がある。なお一説には城主を井口藤弥丞と伝える。天正5年(1577)上杉氏の能登侵攻により南志見氏が没落。上杉方に与した井口氏に当城が与えられたという。


 本江城跡 (輪島市本江)
 大永3年(1523)長氏の武将高柳三井守保弘が城主だったことがわかっています。現在その城跡がはっきり把握されているのかどうか、調査不足で不明です。あしからず。

 
松波城跡(内浦町松波)
史料調査中
 
 
行延(ゆきのべ)城跡 (内浦町行延)
 九里川尻に沿う行延集落の南、三峰丘陵にある城跡。「三州志」には、セイツキノ城(背継城、末次の転か?)とある他、世伊津伎城とも書き、また城主末次氏にちなみ、末次城ともいう。標高50mにあたる遺構などの詳細は不明だが、丘陵先端部で三箇所に平坦面(郭)が確認されている。城主末次甚右衛門の名が伝えられる。
 当城は松波城の出城を性格を持つと考えられ、天正5年(1577)上杉謙信の能登侵攻の際に、同城とともに落城したとされる。この時、同城の姫や近隣26村の者が集まったという。これより古く南北朝から医王山木郎寺などの一揆衆徒・与力らの拠点であったとする見方もある。
 「能登名跡志」に「背継と云城跡あり、其城主の筋目と云って五郎左衛門と云う百姓あり、衆徒多ある処を山伏山と云って、今も不思議ある山あり」とする城跡は、当城に関連するものと思われる。城跡の麓にある小舟天神社は末次氏の勧請と伝え、現在も祭礼を行っている。

 飯田城跡 (珠洲市飯田)
 若山川右岸の丘陵先端部にあり、南側に富山湾を望む。大小2箇所に平坦面(郭)や井戸跡・塚状遺構を残すというが、測量や発掘調査は行われておらず詳細は不明。城主は上杉謙信武将長与一景連とする説や在地土豪飯田三右衛門とする伝承があり、正院川尻城との混同も見られる。
 市街地と接する南側山麓部で、飯田城山下遺跡の発掘が行われ、中世に属する井戸跡・土杭・溝跡などの遺構群を検出しており、城下集落の一角だと推定されている。

 正院川尻城跡 (珠洲市正院町川尻)
 稲荷山の要害(能登名跡志)、要害(三州志)にと称し、正院城とも云う。「三州志」に城主を長氏庶流の長川尻氏とするが、長享元年(1487)の近江在陣衆の中に「長川尻」が見えることから(常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到)、興味付会記述である。川尻の領主であった長川尻によって築城されたと推定できる。
 天正4年(1576)の上杉謙信の能登侵攻に伴い、当城は珠洲郡の政治・軍事の拠点となり、謙信の近臣・長景連が置かれた。しかし同7年8月頃に至り、畠山旧家臣温井景隆と上杉方の能登目代鯵坂長実が結び、当城の長景連を攻撃、景連は越後へ敗走した(「長家譜」など)。
 昭和59〜61年(1984〜86)詳細な分布調査を行い、縄張りや遺構の概要を明らかにしている。標高30-35mの平坦な台地上に、空堀や土塁で区画された主要郭が5面あり、最も南側(海岸より)の第一郭は、通称・高要害と呼ばれ、約4000平方mを測る。空堀の遺存度は良好で、第三郭と第五郭を画する堀は、幅約13m、深さ約6mに達する段堀り箱形を呈する大規模なものであった。各地点からの出土品には珠洲焼片・土師質土器片・中国風染付片・中国風白磁片や近世陶磁器片などがあった(「正院川尻城跡」珠洲市教育委員会・1987年)

  山方城 (珠洲市宝立山山頂付近と推定)
 羽咋郡得田保の地頭得田章房(のりふさ)と章親の兄弟が、吉見氏頼に出した軍忠状によれば、こののち守護吉見氏頼の命令で、年の暮れも押し迫った12月28日、奥能登珠洲郡の若山荘にたてこもる南党方の山方(やまがた)六郎左衛門入道らの守護吉見氏頼の討伐に章房・章親が加わり、同月晦日、宝立山山頂付近の山方城を陥落させています。山方城の位置は不明ですが、現在上戸町寺社にある高照寺のかつての山号が山形山であったことから、上戸・直地区に位置したものではないかと推定されています。


 神和住城跡 (能登町神和住)
 神和住城跡は、奥能登の中心に位置する斉和地区に残されている山城跡である。城跡は、集落背後の天高山に残されており、ゴボジ(御坊地)と称する標高181mの丘陵上に中心遺構が認められている。
城跡の範囲は、南北400m、東西250mで、北方の独立丘陵や滝ケ原と称する箇所に砦跡が残されている。
大手となるのは、火宮神社側からで、大きく開いた谷部の小径を辿り、堀切底を利用した坂虎口(大手)を登り場内へと進入する。
城内には集落側に主曲輪を配し、物見の役割を果たしている。主曲輪の先端中腹部分には、連続竪堀(畝状空堀)が築かれており、県下でも数少ない遺構を持つ山城跡である。
主曲輪から西側に進むと土塁に囲まれた一画があり、“屋敷跡”と称している。
また、連続して丘陵頂上部をくり抜いた曲輪遺構が残されている。
情趣についての伝承は伝えられていないが、城跡の規模などから地域の領主の城と想定する。特に柳田地域は名体制が長く続いていたことから、各地に名主を伝える字地が残されている。
斉和地区の名主としては、戦国時代の永禄2年(1559)に、この地の土豪であった山本太郎右衛門が、真念寺を小間生から神和住に呼請し創建したと伝えていることからも、山本氏がこの地の名主であり、この神和住城跡の旗頭であったと推定される。
江戸時代初期には、山本氏が加賀藩の上町野組十村組頭肝煎り(後の十村役)を勤めている。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください