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  能登の民話伝説

 ここに取上げた伝説は、主に「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)など古い書籍に書かれていたものを、私(畝)が、解りやすく書き改めたものです。現在、伝説の対象となっている建物、人物、物などが残っているかどうか、また同様の現象や行事があるか否かは定かではありません。あしからず。
能登の民話伝説(中能登地区-No.5)

<民間説話>
黄金の山 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 旧幕府時代、七尾町においては、府中町に貿易上の特権を与え、郡奉行の御印の使用を許していました。また鍛冶町には能登一国の鍛冶職の特権を、魚町には漁業ならびに販売上の特権を許していました。しかるに山王社(現在の大地主(おおとこぬし)神社)では、毎年4月中頃の申の日を中日として三日間祭礼を行い、以上の三ヶ町(府中町・鍛治町・魚町)は曳山(山車)を作って、山王社に集り、その後、小丸山山麓にある郡奉行所の前に集合して、御代万歳を唱え祝したのであり、この行事が終わると納税を免じられたといいます。
 かつて七尾に大飢饉があって人々が困憊の極みに達した時がありました。そのため三町の人々は、山車の催しを行う力がなくなるほどになったが、しかし山車の催しを行わないことには営業上の特権を奪われてしまう恐れがあるので、鳩首凝議(人々が顔をつきあわせて評議をこら)したが、日々空しく過ぎるのみで、いい策が浮かばなかった。たまたま出羽本間家の上米船といって年貢米上納のための御用船が寄港し、船長は七尾町の窮状を見て、糊口を凌ぐことさえできれば山車を作ることが難しくない旨を聞き、独断で町民に飯米を給与し、祭礼を行わせました。
 このようにして上米船は、山車の組み立てが起こなわれるようになったのをみると、数日にして順風に碇を上げて、帰国の途についた。(七尾南湾の出口にある)小口の瀬戸を出て、(穴水町)兜沖に至る頃、追い風が急に向かい風に変じて進むことができなくなってしまった。止むをえず船を岸に近づけるよう向きを転じると、遥かに黄金を打つ音が聞こえてきた。いぶかしく事だなと思ってその音のするあたりを探してみると、これはこれはどうしたことであろうか、山のような黄金が波打ち際に燦然と輝いてあるのであった。船長は天の惠と非常に喜んで水夫に指図して、そのその黄金を船に運ばせるけれども、採っても採ってもなくならないのであった。そのうち東の空が紅色に染まる頃(暁闇の頃)になり、ふとみれば不思議や不思議、黄金の山はいつしか肌黒い土の山に戻ってしまっていた。これは兜村の銭塚であるといいます。
 船長は、山王社を伏し拝みながら、山のような黄金を運び、順風に帆を孕ませて航海を続け、難波を経て奥州出羽に帰り本間家にその黄金を奉ったといいます。
弘法の蚊除 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 弘法大師が全国巡化の折、庵(七尾市)の三山某の家に一夜の宿を乞うた。その頃は、夏の真っ盛りで蚊の襲来が甚だしかったので、弘法大師が出立に際し、「吾が法力により、今後蚊が来ないようにしよう」と言い、去られたが、その後不思議にも蚊は少なくなり殆ど蚊屋を用いる必要はなくなったといいます。
 また弘法大師がある年の夏、大槻(鳥屋町)の大丞家に一夜の宿を求めた時のことであるが、そこは蚊帳もない貧しい家であったので、蚊を防ぐ方法もないようであった。不憫に思いなされた弘法大師は、また法力によって蚊を封じたが、その後に大丞家では蚊は出なくなったと伝えられています。
神火 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 松山家は所口(七尾市)にあり、能登生国玉比古神社が小丸山にあった時代より神社とともに移転してきたものであります。同家は、神社本殿の錠前を預かり、宝物など多数保管していいました。ところが中古、この錠前を神社に引き渡すように指示通達があり、松山家の主人は容易には応じませんでした。しかし示達は厳命とされ、やむを得ず不承不承これを引き渡しました。しかし主人はこれを怨みに思って、神輿渡御の日、自分の屋敷の脇をお通りになる様子を窺がい、路傍の樹上に登って、神輿に小便をかけて汚しました。しかし、神罰が覿面(てきめん)し、主人が樹から降りられなくなり、また三棟の家屋が一時に燃え上がり忽ち消失してしまったといいます。
大蛇と大蛸 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)、穂にいでずつっぱらめ(坪井純子著・七尾市立図書館友の会)
 曲(能登島町)の箱名入江の東の傍らに牧山というところがあります。昔、そこには、大蛇が棲んでいました。またこの箱名の入江には大蛸が棲んでいました。大蛸は、よく西側の大がまにあがったり、入江にぷかぷか浮かんだりして昼寝しました。
 大蛇は、東側の牧山から、よくそんな昼寝をしている大蛸を見ては
 「なんちゅう無様な格好の野郎やろ。もうちっとは行儀よく昼寝できんのか。」
と文句を言っていました。
 ある日、入江の西側の大がまで昼寝していた大蛸が、大蛇のそんな文句を、目醒めた間際に聞きとがめ、
 「何抜かす、箱名の入江はワシのもんじゃ。お前こそ、どっか出て行け。」
大蛸はそういうと、ピュッと、真っ黒な墨を、一町(約109m)ぶんくらい飛ばして、大蛇の体にぶっ掛けました。
 大蛇は、体全体が墨で真っ黒けになり、大怒りしました。悔しがって、憂さ晴らしに、兔や狸を追廻し、ペロリと一飲みしてたり、バリバリとそこらじゅうの木をへし折って暴れました。大蛸は、そんな大蛇の怒りを対岸から、冷ややかに眺めやって、海に入り、気持ち良さそうにすいーっすいっと沖まで泳いでいきました。
 沖には、精霊流しの、お供え物が、瓜やらスイカやら、ぷかりぷかりと沢山波間に浮いていました。大蛸は、それを八本の足でかき集め、それを腕一杯に抱えて帰ってきました。大がまに上がると、これ見よがしにスイカや瓜を美味そうに食べました。
 そして「満腹、満腹」と言うと、気持ち良さそうに鼾をかいて昼寝しはじめました。
 その様子に大蛇はもう我慢ならなくなって、入江をするする泳いで対岸の大がまに渡ると
 「やいやい、どっちが箱名の入江の主になるか、勝負できめまいか。」
と、大蛸に向かって喚(わめ)きたてました。
 「ええとも」大蛸は言いました。大蛇は念を押して
 「勝負して、負けたものが出て行くのだぞ。待てよ、それだけじゃ、面白なか。わしが勝てば、入江にお前の仲間、魚族が一匹も棲むことは許さん。その代わり、もしワシが負けたら、ワシがお気に入りの牧山の木を全部引き抜いてもいいことにしよう。」
 言いました。大蛸は、それに対しても、平然とまたも
 「ええとも」
と了解しました。話が決まったら、大蛇は、もう待てません。さあやるまいか、と勝負がすぐ開始されました。 
 大蛸は、海に引きずり込んで勝負をつけようとぎんばるし、大蛇は、丘の上、木の上から大蛸をやっつけようとぎんまりました。この戦いは三日三晩続き、そのためいつもは澄み切った入江の水が、激しい争いのため、底からかき回され、濁ってぼこぼこ泡立ってしまいました。
 大蛇も頑張りましたが、海の底の岩にからみつき、多数の足でぎんばる大蛸には敵いませんでした。力が尽きると、大蛇は、よれよれになって、山の奥に逃げていきました。
 大蛸は、勝ちを誇って牧山に上がると、ぐふぐふと満面の笑みを湛えながら、牧山の木を抜き始めました。八本の強力な足で要領よく抜くので、牧山の木が、あっという間に一本も無くなり、禿山にしてしまったということです。
 このため牧山の地には、(昭和3年の)今から30年ほど前までは一本も木の生えていない赤土の山であったということです。。
榎の釣瓶 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)、(日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
 昔、徳前(鹿島町)重右衛門の家の後ろに、榎の老木があって、樹枝の端から端まで10間(18m)あまりになるほど枝が伸び、昼でさえもあたりが暗いほど繁っていました。
 人が寛ぐにはいい場所だったので、村の若い衆などは、よく晩などに、ここに集まって寝転がって雑談したりして楽しんでいました。
 ある日、若者たちが「なんかいい事でもないかな。」とか「楽して旨い目にあわれないかな。」などと好き放題言っていました。
一人の男が、
 「ああ、旨い、かい餅(牡丹餅)でも落ちてこんかなー。」と、言ったところ、
木の上からするする釣瓶が下がってきました。中を見ると何とさきほど欲しいと言った、かい餅が入っていました。皆は喜んでそのかい餅を食べました。それはそれは暖かくて甘くて美味しいかい餅でした。
 あくる日の晩も、その次の晩も、その若者たちは、榎の木の下に集まり、「かい餅が食べたい。」といいました。その度ごとに、木の上からかい餅が入った釣瓶が下がり、若者たちはそれを毎夜賞味したのでした。
 ところがそれから幾日かたったある晩のこと、例のように「かい餅が食べたいなー。」と言って、釣瓶が下がるのを待っていると、毎夜毎夜のことなので、榎の木の上の釣瓶の主はさすがにあきれたのでしょう。とうとう樹上より、
 「たんべたんべにおかい餅あろうか、茄子漬喰うてお茶あがれ(そんなに度々乞われても、おかい餅がいつまでもあろうかいな。もうそろそろ茄子漬でも喰うてお茶をあがれ(終わりにしな)」という声がかかりました。
 若者たちは、釣瓶の主の戒めに改心し、以降は精を出して働くようになったということです。
 釣瓶が下がってきた話は、各地に伝わって、かい餅といい饅頭といい釣瓶の中に恐ろしいものがあって前夜の勘定を催促したなどと伝えられているといいます。
天神様と梅 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 天神様は、梅の木の叉からお生まれになられた神であって梅の花がはなはだお好きであったので、梅の木を薪としたり、あるいはその種子を、火の中にくべたりすると手跡(書の手前)は上達しないと言い伝えられています。
甲冑の武士現る 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 徳前(鹿島町)の村端にあった某の宅地は、(昭和3年から数え)十数年前より空き屋敷となり、誰一人住むものがいなくなってしまった。この奇怪な屋敷は、もと身分高い人の墳墓の地であり、この墳墓の地を汚されることをおそれてであろうか、ここに家を建てて住む者があると、毎夜甲冑の武士が現れて、その家の人間を眠らせないのである。そのため空き家となってしまったのだと。
お地蔵様 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 瀬嵐(中島町)の草分け七軒の一人である惣左衛門方に、神への信心が篤い老婆がいました。何一つできない事がないほどの怜悧な(賢い)女でありましたが、海の女に似つかわしくなく、唯一つできないこととして、船の櫓櫂を操ることができないのでした。老婆は、はなはだこのことを遺憾としていました。ある夜、老婆の枕元に白装束をつけた老人が現れて告げて言うには、「金ヶ端に、金銀千枚の宝がある。お前は一人で早くに出かけて取りに行け」と。老婆は、大して気にもかけず、うとうととそのまま眠っていましたが、その夢のお告げは、老婆が気に留め起きるまで、繰り返されたのでした。
 瀬嵐の入江は、鏡のように凪いでいて、島影は紫紺色の浮き模様のように前面に横たわっていました。老婆は家の前に立って、未明の海面を何度か眺め、種ヶ島(瀬嵐の沖に浮かぶ島)の最も端のあたりの金ヶ端をじっと眼を凝らしてみつめました。そして神からの授けである宝を得ようとしましたが、船を漕ぐ業を知らないわが身の不甲斐なさを思い、「お前一人に」とお告げなされた神の意思に背く恐れはあるけれど夫の助力を乞うより他に策はあるまいと、ひそかに夫である老爺に夢の次第を打ち明けました。ここに二人の老夫婦は、不安と希望で胸をドキドキさせながら(動悸を高めながら)、金ヶ端へ船をこぎつけました。漕ぎつけた時には、すでに日は、石動山山系越しに見える立山連峰の雪寰(雪でおおわれた姿)を照らしており、あるかないかの微かな朝風に、黄金のさざ波が、錦を展べたように見えました。
 老婆が、島に降り立とした瞬間、櫓を操る老翁とともに「あっ」と叫んだ。驚くのも当たり前、老婆の足元の岩陰に羽音をすさまじくたて、金色の霊鴎が飛び立ったのでありました。奇蹟に怯えながらも、両人が、岩陰より何かを拾い上げてみると、それは空虚な錦の袋と2つの曲玉でありました。
 老婆は神の意思に背いたことを後悔したけれど、今となってももうどうしようもなく、その二品を家に持ち帰ってこれを秘密にし隠し置いていましたが、その後、老婆は不思議な夢を見ることが度々ありました。(虫歯の?)菌の痛む時や頭の痛む時など、この曲玉で患部を撫でるようになったのも、夢のお告げの一つによるものでありました。
 このようにして幾年か経ち、出羽の本間家より惣左衛門を訪ねて来ていうには、島で得た彼の空き袋を譲ってくれと願うのでありました。色々様子を窺がったところ、それは本間家の使者ではなく、本間家の主人その人でありました。そして惣左衛門は、この錦の袋を本間家が何代も前から探していた宿願の品であることを知りました。与えるべきか、与えないべきか惣左衛門は、非常に当惑しましたが、神のお告げにより、何らの代償もなく快く本間家の主人に、その錦の袋を与えました。本間家の今日あるは実に老夫婦が譲り与えた錦の袋の賜物と伝えられています。
 曲玉は、これより数代後、惣左衛門の家から、村へ嫁入りした姉妹が、種ヶ島で、実家の畑を耕していた折、、妹娘の鍬の先に当たり、新たに一つ発見されました。姉はようやく妹よりその曲玉を譲り受けたが、白く曇って光りがなかったといいます。お地蔵様とは、誰言うとなく曲玉を尊び呼んだ名でありました。
太刀塚の祟り 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (昭和3年から)五、六十年前のことであります。能登部下(鹿西町)の辻本某が、「たちのを」の所有地を開墾していた時、石棺が現れたが、某は、その棺のかけらを人々に分け与えた。その後、理由もなく背戸の竹薮から出火し、次いで大屋根より燃え出し、これもようやく消し止めた。しかし、それから一週間も経たないうちに3度も納屋から出火したので、人々が大いに怪しんだが、これを占ってもらったところ、能登比咩神の太刀塚の祟りであるとの事であったので、元のあったように石棺を組み立てて塚を築き直したところ、その後、怪しき事はなくなったといいます。
化物屋敷 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 安永6年の秋頃の事とか。七尾の町に大野某という俳人が住んでいた。温良な性質(たち)の人であったが、たまたま新築した邸内に怪火が燃え、化物が出るとの噂が伝わった。ある日の朝、隣の傘屋の亭主がやって来て、「念の為に申すことだが、昨夜怪火を点(とも)した人が影のように現れ出てきて、お屋敷の中をあちこち歩き回っているのを確かにこの眼で見ました。世間ではこのお屋敷の事を化物屋敷と申しますが、まことにその通りであります。どうか十分お気をつけて下さい、祈祷でも行われては如何でしょうか」と言って帰っていった。大野は、傘屋の亭主の注意では、あのようなことをいうが、この世の中に化物など居るはずがないと、そのまま放っておきました。
 しかし、3、4日後の事である、屋敷の下婢(はしため)がまだ宵の頃、土蔵の前に行くと同時に「きゃあー」と叫んでぶっ倒れてしまった。その声に驚いて人々が駆けつけて手当てをした。そしてその下婢がいうのを聞いてみると次のような内容だった。四角の提灯のような火が地上一尺(約30cm)ほどのところをふわりふわりと飛び、ここを出て行くのかと思うと、後ろから真っ青な顔をした何ともいえぬ恐ろしい容貌の人が現れ、こちらを物凄い形相で睨んでいたかと思うと、あの薪の中に入ってしまったのだと。そしてその恐ろしさはまだ眼に見えるように焼きついているのだと言うのだった。
 大野は、検(あらた)めてみようと、下男に命じて薪を取除いてみたが、何ら変わったところはなかった。このようにして化物屋敷の噂は一層高まってしまった。ある日、(俳人?)楓居という者が訪ねて来て言うには「お屋敷に化物が出るというのは、化物がこの屋敷を見込んでしまい住みたいと思ったからで、住みたいと思うものには好きなように住ませるのが良い、ただし、お屋敷は全くの新築で、古いものが少しも使用されていないので、化物は、さぞ住み難いであろう、少し古い物を集めて化物が好みそうな所を造り、与えなさい」とのこと。
 これを聞いて、大野も尤(もっと)もな事であると言って、近所の古城跡から、木石の古びたものをなどを選び出して、取り寄せ、新築の屋敷を幾分古びた感じに装い、(能登畠山家の有力家臣だった) 温井備中守 の屋敷跡にあった大石を曳いて来て手水鉢にするなど、努めて邸内を古めかしいように繕ったところ、その後、化物が現れることはなかったということである。
江の塚 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 井田(鹿島町)塞の神の池の西方約2、3町(約2、3百m)の田の中に、江の塚と称する塚がありました。ほとんど形をとどめてはいないが、墓の大きな盤石(いわいし)が地上に露出していた。この塚は古くから、ある高貴な方の墳墓であるとも、あるいは宝を埋めたところとも言い伝えられ、この塚を発掘すると、その咎(とが)めを受け、全身が水脹(みずぶく)れになってしまい不自由な体になると言われています。
 今から60〜70年前、付近を流れる川の堰(せき)にしようと考え、その塚の石を用いた人がいたが、不思議な病にかかってしまい、その罪を後悔して、石を元の位置に返したところ、病が癒(い)えたといいます。
時の鐘と七尾女 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 七尾小学校の時の鐘といえば、(能登)島の地まで響き渡ると言われていたが、明治28年の(七尾)の大火災の後 時の鐘を廃止したところ。それ以来、七尾町には眉目よき女は、非常に少なくなったといいます。
穂に出(いで)ず、つっぱらめ 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)、(日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
 昔、万行(七尾市)に三郎兵衛というものがおりました。
 三郎兵衛は親切な上に、働き者でしたから、結婚する前は毎日のように、嫁さの申込みが絶えませんでした。時には、能登一の大地主からも、広い土地を持参金代わりに娘を貰ってくれと頼まれましたが、三郎兵衛には、すでに心に決めたおかよという村娘がいました。おかよは気立てもよく、よく働く娘であることを前々から知っていたからです。
 三郎兵衛は、おかよと結婚してからは楽しく暮らしていました。夫婦の間に新婚の夢のような気分がまだ色濃いある夜のこと、家の後ろの厠へ行って帰ってきてみれば、これはいかがしたことであろうか。一人であるはずの妻が二人寝床にいました。
 瓜二つのおかよは言い争いをはじめました。
 「おまえこそお化けやろ。」
 「なんやて、この古狐め。」  
二人はとうとう取っ組み合いの喧嘩を始めました。
 「待て待て、これ待てちゅうたら・・・・」
三郎兵衛は、中に割って入り両人をじろじろ見ましたが、物腰といい、姿形といい瓜二つどころか、寸分違わない上、声までそっくりです。三郎兵衛は愕然としました。
 が、きっとこれは変化の類のものが、私を誑(たぶら)かすのだろう、さあどちらが本物どちらが偽者か見極めてやろうと、(本物しかしらない)種々難題を出して問いただしてみたが、二人ともその答えはいずれも正しかった。どちらが真の我妻で、どちらが変化のものなのか、いよいよ判定しがたくなってしまった。
 三郎兵衛は、ふと一つの考えが湧きました。とりあえずその日はそこまでとし、翌朝、三郎兵衛は二人の嫁さを呼びよせていいました。
 「隣り村の助吉っつぁへ行って、犬を一匹もろうてきてほしい。誰が行ってくれる。」
するとあとに来た嫁さが言いました。
 「ほんなら、おら行ってくる。」
この時、ほんとの嫁さは一瞬躊躇したように顔色を変えたので、三郎兵衛は、
 「さては、きさまこそ古狐だな。狐ちゅうやつぁ、犬におとろし(恐ろし)がると聞いとるが、まこっちゃ。ようもこの俺を騙しやがったな。とっととまくずり出て行け。」
と三郎兵衛は、おかよの襟首を掴(つか)んで戸外へ投げ出しました。おかよは泣きながら這い寄ってきて、
 「私こそ、本物の妻です。怪しき者に誑かされなさるな」
と泣き叫ぶにもかかわらず、三郎兵衛は、
 「打ち殺してくれよう」
と、もう一方の方の妻と力を合わせ、漸くにして、家の外に追い出しました。おかよはやむなくあきらめて、どこへともなく姿を消しました。
 古狐は、犬は苦手だから連れてくることはできないが、もし自分が出て行かなければならなくなったら、道の途中で、山へ逃げ去ればそれまでだとと思って開き直って大きく出た訳なのです。その結果がこうもうまく運んだので、大層喜びました。
 それにしても、なぜ本物のおかよが顔色を一瞬変えて躊躇したかというと、以前、助吉に言い寄られ、もてあそばれそうな目に合わされた事があったからでした。
 このようにして怪しき事があったその夜が、忘れられてしまうまでに、幾度か春が過ぎ、秋がめぐり来ました。おかよに化けた古狐と三郎兵衛は睦(むつ)まじく暮らしていました。二人の間に、一松、次郎松という可愛い二人の児も生まれ、家運は益々栄えてきました。
 しかし、ある日、子供らが隠れん坊の遊びをしていましたが、下の子が隠れ場を探して、夕暮れて疲れてぼんやり立っていた母の裾をまくって、もぐりました。その子が突然頓狂な声で叫びました。
「あら、おかしいな。お母さんのお尻に尾っぽがある、ほら見て」と、上の子もやってきて覗きいっしょに
「ほんまか。どれどれ。」
「ほんとや、しっぽある。しっぽある。」と囃し立てます。
無邪気な二人の児らは手を打って笑い出しました。母の顔はみるみる内に蒼白に変わり、我児によって正体を見破られてしまったからです。
 ちょうどそこへ、三郎兵衛も、野良仕事から帰って来たので、古狐はこれまでと諦め、
 「じつは、おらが狐です。あんたが好きなばっかしに、おかよはんにも気の毒な事をしました。今夜限りで、あんたともお別れです。長い間可愛がってくださって、本当にありがとうございました。一松、次郎松をよろしくお願いします。」
と言って涙ながらに家を去って行きました。
 それから夏が過ぎ、秋がやってきました。村ではどこの家でも稲刈りに忙しく、村人達はたわわに実った稲穂を手にとっては、お互いににっこり微笑みあっていましたが、三郎兵衛だけは一人憂いに沈んでいました。
 見回り役人は、シンダ(半熟のモミ)ばかりの三郎兵衛の稲田を見て、帳面さえ出してみようとはしませんでした。
 ところが役人の去った後、三郎兵衛が稲を刈ってみると、どうでしょう、今まで薄っぺらだったモミが、俄かにむくむくと膨れ上がり、黄金色に実るのでした。どうしてそんな風になるのか、三郎兵衛はもとより、誰一人知る者はありません。まことはこうなのです。
 ちょうど見回り役人が稲田を検分する頃になると、例の古狐が真夜中、三郎兵衛の田んぼに現れて、
 「穂に出ず、つっぱらめ。穂に出ず、つっぱらめ。」
と澄み切った綺麗な声で歌うのでした。それは三郎兵衛への罪の購(あがな)いでした。
 こんな事が、毎年度重なり、三郎兵衛は、その度に年貢を免れたので、とうとう村一番の分限者(金持ち・財産家)になりました。
<天然説話>
慈悲心鳥 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)(日本の民話 21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
 日照りの天気が打ち続く、6.・7月の頃、山より里にかけて、一声、二声、チーフレー、チーフレーと啼きわたる、慈悲心鳥の哀切な声を聞くことがあります。
 鹿島郡の西南地方においては、古来、父なし子や貧乏な家の子は若干の養育料をつけてやって石崎村へ貰子(もらいご)にやる習わしがありました。
 さて可憐な貰子たちは、禄に三度の食も与えられず、朝から晩まで浜に立って、干鰮の番を言いつけられ、情け無い程、酷使させられるのを常としていました。猫に干鰯一匹攫われたとなれば、勿論、晩飯無しは当たり前です。
 干鰮の番が休みとなるのは、僅かに雨の降る日のみで、彼らが死の苦しみから逃れられるようにとの願いは、日照りの空に待つ、半日の雨でありました。「ちっとでも降れ」、死せる貰子たちは、鳥となって「チーフレー(ちっとでも降れ)、チーフレー」と叫びつつ飛翔しているのだといいます。
不如帰(ほととぎす) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 ある村に二人の兄弟がいた。弟は、大の兄思いで、毎日山へ行って芋を掘ってきて、兄には、その芋の中ほどから下の味の良いところを食べさせ、自分はいつも、ごんごの不味いところばかり食べていた。しかし、邪慳(じゃけん)で盲目の兄は、弟の心も知らず、自分にこのよう芋の美味しいところを与えてくれていたのに、弟は、どれだけうまいところを味わっていることだろうと疑って、弟を刺殺し、腹を切り裂いて、検(あらた)めてみたところ、これはいかがしたことか、弟は芋の美味しいところをたんと食べていると思ったのに、か細くして、不味いごんごのみ食べていたことがわかった。夢より醒めた兄は、弟を許してくれと泣き悲しみ、遂には不如帰(ホトトギス)と変化して、オトトイモホツクハショ、オトトイモホツクハショろ血を吐きながら今も啼(泣)き叫んでいるのだということだ。
梟(ふくろう) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 梟は、不孝者である。というのは年寄った親を、邪魔に思い、藪の竹杭に突き刺して、親を殺すのだという。その天罰でいつも暗い所に隠れて、決して太陽の光を見ることがないのだということだ。
 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)、(日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
 昔々、鳩の親子がおりました。鳩の子は、大の旋毛(つむじ)まがりの親不孝者でありました。親が山へ行けと言えば田へ、田へ行けと言えば畠へと、何事につけ、反対し、親の言いつけを守りませんでした。
 親鳩は、臨終の際、枕元に、息子の鳩を呼んで「我が亡骸を、川のほとりに埋めよ」と遺言しました。息子の鳩の平生を知っている親鳩は、このように言えば、私を山に埋めるだろうと思い、言ったのであったが、親を失いようやく我が身の不孝に気付いた鳩は、遺言のまま川のほとりに亡骸を埋めたのでありました。それで、雨模様になれば親の墓が流れそうになるのを心配して嘆き、テテッポッポ、オヤガコヒシと啼くのだということです。それで、あちらと言えば、こちらと言う旋毛まがりのことを、テテッポッポと言いいます。
雀と猫 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 お釈迦様は、涅槃にお入滅なされた時、上は仏菩薩より、下は虫のコケラに至るまで、沙羅双樹の下に集まって、泣き悲しんだといわれるが、雀はその知らせがあった時、オハグロをつけていたときであったので、口を拭う暇もなく駆けつけたため、今でも嘴(くちばし)の辺りが黒くオハグロの痕が残っているのだということだ。またその時、性悪の猫は、「お釈迦様も死になされたか」と言ったきり、お弔いにも行かず、不精にも居眠りを続けていたが、その罰によって未来永劫成仏はできないと言うことだ。
鴉(からす)と犬 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 カラスと犬は、各々もともと三本脚(さんぼんあし)のものであったが、犬は不自由に堪えかね、熊野の権現様に「何とぞ、脚をもう一本与えてください」と願ったところ、権現様は不憫に思し召され、カラス脚を一本とって、犬に与えられたことによって、カラスは2本、犬は4本脚となったのだということだ。犬が小便をするとき、後ろ脚を上げるのは、権現様より与えられた脚を汚すのを恐れるためということだそうだ。
猿の尾 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 ある冬の日、猿は、魚が沢山釣れる方法を教えてやると言われ、川獺に欺かれた。まんまと騙された猿は、冬の凍(こご)える夜、池の水に長き尾を差し入れ、夜中辛抱して魚が食いついてくるのを待ったが、夜が明け、人に追われて逃げようとする時、池に張り詰めた氷のため、尾は根元より切れてしまった。、それ以来猿の尾は短くなってしまったということだ。
鰈(かれい)と鯨 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 鰈の目が背中についているのは、昔、親不孝の子があって、いつも親を睨(にら)んでいたので、魚に変化させられ、目が背中へ廻ってしまったのだからだということです。
 神官家であって、死後、高天原に生まれられない者は、来世は必ず鯨になるといいます。死んで斃(たお)れた鯨が、浮き上がると漁師の一人が、鯨にとりつき真っ先に額の肉を抉りとるのを、習いとしているが、これはぼうじ(梵字か?)を忌むためであるといいます。死んだ人の腋の下に名前を記すのをぼうじといい、来世にはその文字痣となって現われるものであるが、その者を埋めた墓の上で、洗えば跡形もなく、消えうせると言い伝えられています。

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