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  能登の民話伝説  

 この頁に取上げた伝説は、中能登地区の話のうちNo.1〜No.5で取上げなかった旧七尾市地区に伝わる民話・伝説・昔話を取上げていくつもりです。
能登の民話伝説(中能登地区-No.8)

西光寺どんと長齢寺どん 参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著)      
 昔々、七尾の小島の 西光寺 と長齢寺にそれぞれ古狐が棲んでおりました。それぞれお互い西光寺どん、長齢寺どんと言うて行き来しておりました。仲がよく、化けるのが上手いもんやから、よく連れ立って人間を騙しては楽しんでおりました。
 ある時、長齢寺どんが、
 「なあ西光寺どん、近頃不景気なんか、なあんも旨いもんにありつかんなあ。」
 「おまいもかい。わしもや。」
 「ほんならいい事思いついたやが。」
 「なんじゃい、教えんかい。」
長齢寺どんは、西光寺どんの耳元に何やら、もしゃもしゃと囁くと、それを聞いた西光寺どんは
 「長齢寺どん、知恵者やのー」
と長齢寺どんを振り返り、感心するのであった。
そして西光寺どんは、
 「言われた通りにするわいね」
と言うと、いきなりドロロンと、馬に化けました。一方長齢寺どんは、これまたドロロンと馬喰(ばくろ:馬の売り買いをする人)に化けて、西光寺どんの馬を引っ張って、馬市に出かけました。
 「さあ、この馬よいぞー。足腰はしっかりしとるし、歯並びもいい。おまけに毛並みも最高やぞ。そこのあんたこれ買わんかいね」
馬喰に化けた長齢寺どんが、そういうと、西光寺どんが、歯を剥いて見せたり、鼻ずらを振って愛想してみせました。しばらくして高階村の馬方と話がまとまり、西光寺どんの馬は、その馬方に引っ張られていきました。長齢寺どんは、ふところに金をたんまり入れると、その金で油揚げを沢山買って来て、西光寺どんを、西光寺山(現在の小丸山公園の第2公園)で待ちました。打ち合わせでは、馬方に買われた後、隙を見計らって逃げて戻って来て、油揚げを山分けして食おうとなっていました。
 しかし西光寺どんは、待てど暮らせどいつまで経っても帰ってきませんでした。
 長齢寺どんは、もう夕暮れて腹が減る一方なので、油揚げを仕方なく一枚ペロリと食べてしまいました。そうすると、近頃、碌な食べ物にありつけていなかったので、美味しくて仕方ありません。もう一枚くらいいいだろう・・・、まだ一枚くらい・・・・と食べていくうちに、山ほどあった油揚げをすっかり平らげてしまいました。
 一方、西光寺どんは、引っ張られていく道中、隙を見つけて何とか逃げだそうとしましたが、馬方はまだ自分に馴れぬ馬ということもあり、鼻緒をずっと掴んだままとうとう屋敷まで離さしませんでした。それで逃げ出す事ができず、馬屋に入れられてから夜遅くなって、やっと逃げ出しました。そして暗い遠い夜道を、疲れた足をひきずりとぼとぼと歩き、やっとのことで、朝方帰ってきました。
 待ち合わせの西光寺山の塒に帰ってきてみると、油揚げは一枚も残っておりません。長齢寺どんが、膨れた腹をかかえて気持ち良さそうに眠っていました西光寺どんは、長齢寺どんを起こすと、腹が減ってグウグウ鳴るので、油揚げがどこにあるか聞きました。
 「ありゃ、無事で何よりやったなあ。わしゃおまいの帰りがあまりにも遅いんでてっきり化けの皮剥がされて、殺されてしもうたんやと思ったわ。油揚げそのまま残すのも、勿体ないから腹の中に処分させてもらったわい。」
 西光寺どんは、一番苦労したのに、何も収穫があなく、長齢寺どんに騙されたような格好になったので、西光寺どんは怒って、長齢寺どんに絶交を言い渡し、それからは道で会うても口もきかんようになったがやと。おしまい。


(参考) 私が作成した 「安土問答と西光寺・聖誉住持」の頁
(大野木の)しっちょもん話  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著)    
 昔々、大野木に‘しっちょもん’という嘘がつけず、真っ正直にしか生きられない男がおったそうな。
 ある日のことである、そのしっちょもんの家の板戸をドンドン叩く者がおった。
 「誰やぃ、そがいに叩かんでも、いま、開けてやるがいな。」
空けた途端、土間に転げ込んできた男は、見たことも無い旅人で、息せき切って、かなり気が急いている感じであった。
 「わしゃー越中の船頭やわい。」と名乗ったかと思うと、いきなり
 「頼むさかい、これを預かってもらえんやろか。」
と言って汚いぼっと布に包んだものを、しっちょもんに押し付けました。そして
 「大事な、大事なもんやさかい。頼む、この通りや。」
と言って、手を合わせて拝みました。
 「そんな大事なもんを、なんで見ず知らずのおれに預けるんやがね?」
と、しっちょもんが不審そうに聞くと、
 男は「お前が大野木一の正直もんやと聞いたさかいや。」
と言いました。しっちょもんは、
 「いったい何時頃まで預かればいいがんや?」
と聞くと
 「来年の大晦日の夜さりまでや。そん時になっても、受取に来なんだら、三年だけ待ってくれんかい。そんでも取りにこなんだら、おまえの好きにしてくれや。」
そう言うと大急ぎで去って行きました。
 「ほんまに、気ぜわしい奴っちゃなー。」
しっちょもんは、男の後ろ姿を見送りながらあきれ顔で、そう言うと、でも大事にその後、家の中に仕舞いました。
 ところがその気ぜわしい男が、それっきり三年経ってもやって来ませんでした。
それならばと、約束通り三年目の大晦日が済んだ正月に、その預かった包みを初めて開けてみました。そうしたらその中には、小判がぎっしりと入っていました。
 しっちょもんは、その小判で、大野木近隣一番の長者となり、その後は、安楽に暮らしましたとさ。
小崎の出羽  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、三室に小崎の出羽と呼ばれたそれはそれは何ともいえん声の持ち主の若いもんがおりました。出羽が道々唱でも歌うものなら、人々は忙しい時でも作業をやめ聞きほれたというぐらいの声でした。盆踊りにでもなろうものなら、出羽が舞台に上がって歌うわけだが、爺様や婆様でも感銘の涙を流して腰を伸ばして踊ったそうな。また若い女子は、何人も出羽に恋しておったと。
 ところが、出羽の声に聞きほれたのは、村の衆ばかりでなく、「りきの宮」の神様までもが出羽の声に聞きほれたそうです。
 ある夜のこと、りきの宮の境内で、一仕事終えた出羽が、ちょいと喉を試すつもりで歌いました。鎮守の森の鳥や獣たちまでもが、聞きほれて静まるような声でした。そんな歌声が響いている境内で、しばらくしてから、宮の上空あたりから神様の声が聞こえてきました。
 「お前のその声をわしにくれー。代りに人間がめったに持てんほどの怪力をお前に授けてやるぞ。」
と。
 出羽は迷いに迷いました。出羽自身、唄を歌うことが大好きだっただけに、歌えんようになるのは寂しいことでした。でも神様からの申し出でもありました。力があると言うことは、その当時では食っていくのに一番必要な事でもあったし、出羽はあれこれと考え抜いた末、神様の言われた通りにすることにしました。
 さて翌朝、顔を洗って、手ぬぐいを絞ろうとしたら、いきなり手ぬぐいがブチっと切れてしまいました。
 「ありゃっ」
お告げとは言え、前日の事なのでその事が信じられず、出羽は瀬戸へ駆け出て、庭の隅にあった大人でも一人で抱えられないほどの大石を試しに持ってみました。ずりずりずりっと、その石が音を立てたかと思うと、すぽっと抜けるように石が持ち上がりました。自分でもこんな大石を持ち上げた事が信じられず、
 「わあ、えらい力持ちになったがやなぁ。」
と思わず声をあげたら、その声のしゃがれて汚いこと、大声を出し続けて喉をやられた人のようでした。渋みでもあればまだ救いもありますが、味もそっけもない声でした。村の者はその事を知り残念がりましたが、出羽から事情を聞き神様の願いじゃしょうがあるまいと慰めてくれました。
 出羽は、しばらくは気落ちして、村の衆と話す気にもなれないほどでしたが、それでも力は、5人力、いや10人力くらいあるものですから、畑仕事や田んぼ仕事は、すぐ捗(はかど)ります。あまった力で、村の衆を助けたということです。
 ある年、村の大事な公の用事をいいつかり、出羽は大坂へ出かけました。
 大坂で用を終えると、めったに来ることが出来る大坂ではありませんから、ついでにと思い港見物をしていました。日本一の商いの町だけに、港にはひっきりなしにでかい船が出入りしていました。河岸では、荷役を船から岸へ運ぶ者、その荷物の員数を書類と比較する者、岸にあがった荷物を大八車に縛る者など大勢の人間がせわしなく動いていました。
 出羽は、そんな風景を珍しそうにぼんやりと見とったら、ある一角で人だかりが出来始めました。そして何やら大きな声を出して大変そうに騒いでおります。出羽は何じゃろ、と思うて近寄って人ごみの間から爪先立って肩越しに覗いてみると、どでかい錨を大八車に載せた大勢の男が、大八車を押したり引いたりしていましたが、あまりの重みに轍が出来て、車がみしっとも動かないで、難儀していたのでした。
 「どれどれ」
と出羽が人ごみを掻き分けて出て行って、その錨をひょいっと担いで、
 「さあ、どこまで持っていきゃあいいがや。」
と聞くと、そこに集まっていた大坂もんは、魂消てしばらくはポカンとしていました。
 「どこへもって行くがや?」 
と出羽にあらためて聞かれたもんだから、件の男どもは、我に帰って移動させる場所を告げました。それを聞き、出羽が軽々と運んだのを見ると大喜びしたそうです。大騒ぎしてお礼にどうか休んでいってくれといいましたが、出羽は
 「なあんもなんも。こんだけくらい、能登のもんなら何でもないわい。」
そう言って、恥ずかしげに手を横に軽く振り、さっさと帰ってきました。
 それからは能登のもんが大坂へ行くと、
 「能登がござった。能登がござった。」
そう言って、下へも置かんもてなしをしてくれるようになったと言います。
 さて、出羽の声をひとりじめにした神様ですが、その後、その声をどう役立てたかは誰もしりません。
賓頭婁(びんずる)嫁さ  参考:「石川県鹿島郡誌」、「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、七尾に源次郎狐という、人を化かすことにかけては大変名うての狐がおりました。酔った百姓を騙して「風呂です」と誘って肥溜めに
浸からせたり、馬のクソを饅頭と偽って、相手に一生懸命重箱に詰めさせたりと、まあその化かした数は、数知れぬというイタズラ狐でした。
 
 ある年のことです。一本杉(七尾市一本杉町)の晒屋(さらしや)の息子が嫁さんをもらいました。
 ところが、その翌朝、息子が目覚めて、嫁を起こそうと、声をかけましたが、いくら呼んでも返事がありません。不思議に思ってよくよく見れば、それは木像の※賓頭婁さんでした。つまり、木像の賓頭婁と寝ていたという訳です。
 この噂がたちまち町中に広がりました。
 「あの息子ぁ、どっか抜けとると思とったが、まさか唖(おし)と一緒になろうとしたとはの」
 「それがな、違うんじゃ。その嫁さちゃんと、もの言うたとい。美しい娘の声でな。」
 「じゃあ誰ぁ、あそこへ賓頭婁持ってたんかな。」
 「そりゃ何とも言えんわな。なんせ、あの賓頭婁ぁ、妙観院にあったもんやし、まさか寺のもんがそんなバチあたりな悪ふざけしんやろうしな。」
 「そんなら賓頭婁様自ら歩きなさって来たというのかなお。」
 「そうでも思わにゃ、道理に合わんやろ。」
 「いやそうでなかろう。おらが思うにぁ、源次郎狐の仕業に違いないわ。」
 「おっそうか。そうやそうや、源次郎狐がおったわい。」
 「そうやそうや、それに違いないぞ。」
とにかくそれがあってから、妙観院の賓頭婁は。「嫁入りの像」と呼ばれるようになったということです。
 
 さて、それから数年過ぎたある秋の日のことです。
 同じ七尾の八幡(七尾市八幡町)に馬次郎という大庄屋がいました。その息子が矢田(七尾市矢田郷地区)の次郎左衛門から嫁さんをもることになりました。どちらもはぶりのいい家だけに、その噂はすぐさま村中の誰もが知るとことなりました。大して楽しみもなかった昔のことです。村の者は、さぞかし盛大な婚礼やろうなと、その日が今か今かと楽しみにして待っておりました。
 ある晩、矢田の方から、提灯を沢山提げたものものしい行列が、いよいよやってきました。
 沿道で迎える村人は
 「なんちゅう、みよい嫁さまやろか。」
 「なんちゅう、見事な仕度やろ。」
と口々に賞めそやしながらも、行列に小石を投げたり、行列の人たちの顔に、`顔を洗うてやる’と言って、油に鍋墨を混ぜたものを塗りつけたりしましたこの手荒な歓迎が、当時のこの村の仕来たりだったのです。
 仕来たりだけに断れず、鍋墨に塗られた黒い顔で、花嫁行列は八幡の馬次郎さんの屋敷までやってきました。

 ところが、次郎左衛門が日を間違えて、一日早くやてきてしまったので、馬次郎の方ではてんやわんやの大騒ぎとなり、ともかく花嫁をはじめ、供の者を別室に案内して、休んでもらうことにしました。
 ところが、控えの間に燈を点けてみると、皆一様に、衣・衣裳こそ人間のなりをしていますが、その顔ときたら、鍋墨で皆黒々として、目だけキョロキョロ光るというありさまです。
 馬次郎方では、皆驚き怪しんで、隣りの間に集まりました。誰かが数年前の、源次郎狐の話を思い出しました。思い出した皆は、確かにその可能性が強いと思うようになりました。そして、また化かされたら大恥を掻くぞ、思案しました。狐なら、青松葉をふすべて、その煙を控えの間へ扇ぎ入れれば、煙に堪らず尻尾か何か出して、正体を現すだろうということになり、馬次郎の命令一下、実行に移しました。
 この燻りだし作戦には、花嫁も供の者も堪らず、ゴホンゴホンとむせいでいると、馬次郎は苦笑いして、
 「もうじき本性を現すはずじゃ。袴腰のへんに気ぃつけや。紐と思うても尻尾やぞ。扇げ、扇げ、もっと扇げ」
とまくし立てます。
 控えの間の者どもは、いよいよ苛立って
 「けしからんやつじゃ、煙を外に出せ。」
と言い言い、顔の汗やむせび涙を拭いはじめました。
 馬次郎方では、さていかにと、覗いてみましたが、誰も異常のない顔つきをしております。馬次郎方では、今一度相談しました。
 「まだ、安心できんぞぃ。そうや狐は湯に入ることが嫌いやっちゅうこっちゃから、試してみんか。」
そこで、代表の者が控えの間に入り、
 「遠い所をさぞお疲れでっしゃろ。ひと風呂浴びて、寛いでくさんせ。」
と誘いました。
 「それはそれはおおきに。こんな具合に体中汚れていることやし、そんなら、もらわしていただこうかいね。」
控えの者どもは、そう言って順繰りに、一人残らず風呂に入って浴びて上がってきました。しかし、誰もしっぽは無かったし、鍋墨を落したらどれもよう知っている顔だったので、これは本物やったと、やっと胸をさすって一安心しました。それほど源次郎狐は、名うての狐でした。
 式後の酒宴に、馬次郎方で事の次第を打ち明けたところ、皆々面白がって一座の興を増したということです。 

※賓頭婁(賓頭盧)=びんずる尊者は、釈尊(しゃくそん)(釈迦(しゃか))の弟子で、十六羅漢(らかん)の筆頭です。他には単に「びんずる」、また敬語を付けて「おびんずる」とか「おびんずる様」とか、「なでぼとけ(撫で仏)様」とも呼ばれています。 サンスクリット語(梵語(ぼんご))「ピンドーラ」の音訳から「賓頭盧跋羅堕闍(ばらだじゃ)」・「賓頭盧突羅闍(とらじゃ)」・「賓頭盧頗羅堕(はらだ)」とも呼ばれることがあります。「賓頭盧」が名前で「頗羅堕」が姓です。この羅漢さんは、お釈迦様の工程で、神通力に優れた尊者の一人です。しかし頭が良すぎて先走りしすぎたり、術を施したりして、お釈迦様によく叱られたようです。また酒もよく嗜み、困ったことも多くあったようです。そのため、後世の賓頭婁尊者は、お堂の外に祀られるようになったようです。
 ただし、この話に出てくる妙観院には現在木像の賓頭婁はありません。そのせいか「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著)では、賓頭婁ではなく、弁財天の像となっています。現在確かに妙観院には弁財天があります。でもこれは、現実にあわせて話を作り替えただけの可能性もあり、ここでは「石川県鹿島郡誌」に出てくる賓頭婁のままにしておきました。
にらまれた謙信  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、天正年間の頃、越後の勇・上杉謙信が、上洛を目指しました。途中の能登畠山氏は上杉とではなく、織田方と結ぶ姿勢を見せたため、謙信は、越後から遠征して七尾城を攻めてきました。その時、七尾城の北方にあたる大野木の方へも、上杉方から、多数の船で兵が押し寄せてきました。越後勢は、当時日本最高の武勇を誇り、鬼より怖いと恐れられていたので、村のものは恐ろしがって、宮の森の権現屋敷に逃げ込むやら、伊掛山などの山に隠れるやらで、大騒動でした。
 ところが大野木に惣左衛門という、偉丈夫で大変胆が据わった男がおりました。村の者の慌てようを見ていると、大変腹が立ってきて、
 「不甲斐ないものたちやのぉ。越後勢やと言うたって、同じ人間やぞ。逃げるばっかしじゃー、後々まで、能登には臆病者しかおらなんだと言われて、孫子の時代までの恥やわい。」
そう言うと、たった一人で小船に乗り込み、上杉方の船が居並ぶ浦へ漕ぎ出していきました。
 たった一人が、小さい船で近寄ってくるので、上杉方では、
 「ありゃ何じゃ。畠山方の使者か?」
 「いやあ、あの格好は単なる漁師やぞ。何か用があるのかいの?」
と言い合って、兵らは皆、ずらりと船べりに集まって、惣左衛門の行動を眺めていました。その中に、謙信の乗った船もあり、
 「どれどれ」と出てきて眺めていました。
惣左衛門の方でも、「毘」の一字を旗を掲げた大将船らしき船をみつけました。櫓のある一際大きい関船で、その船の近くまで漕ぎ寄せ、謙信らしい姿を見つけると。ぎろっとでかい目をむいて謙信をはじめ上杉勢をはったと睨んだといいます。
 それから惣左衛門は、悠々と、もっておった孟宗竹を両手で軽くさするようにしました。ところが、その竹がしごかれて、しんなりと曲がり、それを鉢巻のように額に巻きつけました。そして上杉勢に向かって
 「能登の大野木の惣左衛門が、上杉殿が越後から、何の用でござらしたか、その用向きを聞きにまかり出たわい。」
と雷が轟いたかのような大声で怒鳴りました。
 その耳にびんびん響く惣左衛門の大声に、さすがの謙信も縮みあがって、
 「こんなおそろしい男のおる村に上陸したら、どんな酷い目にあうかもしれん。」
と、怖気づいて、さっさと越後へ逃げていきましたと。
 その後、七尾城の殿様は、能登に再来した謙信に負けましたが、`大野木の惣左衛門は、上杉方にゃ、負けなんだ’と、あとあとまで、村中が自慢したと言うことです。
かんなはんのべやさ  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、徳田のかんなはんと言われた大百姓の屋敷に、大きな体をした何人力という力持ちの`べや(女中)さ’(女中さん)がいました。
 その屋敷には、畑仕事や山仕事をする沢山の男衆もいましたが、誰もこのべやさにはかないませんでした。
 度胸もあって、男でさえ怖がるような暗い夜道でも、一人で歩いても平気のへの字で、怖がる男など見ると
 「何びくついとるんや。いじいじするな!」
と怒鳴りつけ、どっちが男かわからぬ有様でした。
 米俵を運ぶのも、男でも一俵運んでふうふう言うとるのに、べやさは両手に一俵づつ、二俵を楽々と持ち上げあるくし、水桶で水を運ぶのも、力仕事専門の男衆の何倍も楽々と運ぶのでありました。それで、屋敷の男どもは、このべやさの前では頭が上がらず、一度はぎゃふんと言わせてやりたくてしょうがありませんでした。そして、良い折を狙ってべそを掻くようなイタズラをしてやろうということになりました。
 その年も大晦日の日がやってきました。屋敷では、大掃除をしましたが、べやさは、いつものように何人分もの畳をあげたり、移動したりと大忙しでした。そのため、一休みということになったら、もうクタクタで瀬戸の木蔭に、筵を敷いて、ぐっすりと眠りこんでしまいました。
  男衆らは、それを見ると、そらチャンスだと、そっと目で合図をし合い、こっそりと集まりました。そして話が決まると、7、8人で眠っているべやさを、筵ごと持ち上げて担ぎ、大池の土手の上へ置きっぱなしにしてきました。
 この大池は、周りに木が鬱蒼と生い茂り、昔から、人に悪さをするかわうそや、古狸、古狐、河童などが出たり、夕暮れには火の玉がひょろひょろ飛んだりするといわれた場所で、近くの人々は昼でも一人では絶対行きたがらない寂しい場所でした。
 べやさは、男どもが去ってしまっても、相変わらずすやすやと、気持ち良さそうに眠っておりました。それでも、何しろ冬のこと、日が暮れてあたりが急に寒くなってくると、べやさは、大きなクサメを一つした後、やっと目を覚ましました。
 そしてあたりを見回し、不思議そうにひとしきり首をかしげていましたが、やがてとっとと帰って来ると、男衆らに向かって言ったそうな。
 「お前らは、なんちゅう間抜けな男どもやろか。この家の大事なべやさが、盗まれて、大池の土手まで持ってゆかれたがに、それも気がつかんでおるとは。抜け作ぞろいじゃな。もっとしっかりせにゃー、だちゃかんぞ(もっとしっかりしないといけないぞ)。」
 そう言うてバンバン怒鳴ったそうな。
 けんけんぼっとり、なんばみそ。
熊の掌(てのひら)  参考:「穂にいですつっぱらめー七尾・鹿島の昔話」(坪井純子著) 
 昔々、七尾から数里離れた山の方の在所に、弥助という爺様がおって、猫の額ほどの田畑を耕してやっと暮らしをたてておりました。
 秋の作物の収穫が終わると、今度は山へ分け入って、山芋、薬草、栗など木の実、アケビ、山柿、きのこ、こけ、薪・・・・と暮らしの足しになるものは何でも採って精を出していました。
 ある日のこと、朝から冷え込んで、ぴゅーぴゅーと風が吹いていました。寒気がかなりの厳しさでしたが、雪が降るまでに一日でもと、そう思って、その日も弥助は、背中を丸めて山へ登りました。登るほどに空は厚い雲で覆われ黒々としてきました。鼻をすすりながらも、もうちょっともうちょっとと山奥へ進みました。薪などを拾いながらふと空をみたら雪が、ひらひらと降ってきました。こりゃもうそろそろ帰るべきかと様子見している間に、雪はどんどんと降り方を強め、あっという間にあたりは銀世界となりました。一刻も経たぬうちに積雪は足の膝までくるほど降りました。
 弥助は、このままでは凍え死にすると思い、穴でも探して晴れ間を待つしかあるまいと思いあちこち探し歩きました。
 やっと崖下に適当な横穴を見つけて、這いずり込みました。がちがちにかじかんだ弥助が、
 「あー助かった。」
と、ほっと息をつき、何気なく薄暗い穴の奥をじっと見たら、真っ黒なでかいでかい熊が丸くなって座っていました。
 「ひゃー、おったたたたたた。」
と驚きのあまり腰が抜けてしまい、一歩も歩けん弥助爺様は、もうダメかと諦めかけました。その時、穴の奥から
 「そがいにおとろしがらんでもええ(そのように恐ろしがらなくてもいい)」
熊がそう言いました。
 「急な雪で、爺様も難儀したがやろ。まあゆっくり休んでいかっしゃい。」
そう熊に言われて、どうやら命は助かったものの、見れば見るほどでかい熊なので、生きた心地もせず、震えておりました。
 雪は止みそうになく、三日三晩、小止みもせずに降りました。凍え死には免れたましたが、今度は空腹が襲ってきました。一日二日は何とか耐えたものの、三日目となるともう限界が近くなってきました。弥助はそんな空腹に堪えぼーーっとしていると、
 「爺様、ひもじいならこの掌(てのひら)を舐めてみんか。」
と熊がそう言って掌をぬーっ出しました。
 「わしは、この掌を舐めて冬を越すがじゃ。おまいも舐めんか。」
 弥助は、腹の皮が背中とくっつきそうなほどひもじかったので、怖いのも忘れ、熊の方へにじり寄って、熊の掌を舐めました。
 それはもぎたてのイチジクかあけびのような何とも言えん美味さでした。
 熊は何度も弥助に舐めさせてくれ、やしなってくれました。
 
 四日目にやっとのことで、雪がやみました。弥助は、熊の穴から出て、おかげさんでと穴の中の熊に向かって頭をペコペコ下げてお礼を言いました。熊は、
 「まあそんなに気にせんでええから。困った時はおたがいさまや。」
と穏やかに言いました。そして最後に、
 「ただわしがここに居ることは、絶対に誰にも言うなや。まあ気ぃつけていかしゃい。」
と言うと、でっかい欠伸して、また頭を横にして眠りはじめました。
 弥助が山から降りてくると、村の衆は、てっきり山で凍え死んだと思っていたので、驚きました。どうやって生き延びたんや、と寄ってたかって尋ねられ、ついつい熊の穴に熊と一緒におったと言ってしまいました。
 皆は、熊に襲われずに、熊と一緒に過したことに信じられん思いでしたが、でも生きて帰ったのは事実、そのうちこの珍しい話は近隣一帯の村々に伝わりました。
 数日経ったある日、その噂を聞きつけた熊討ちが、弥助の家にやってきました。でかい熊なら、肉だけでなく、毛皮や薬となる胆など沢山とれるはずで、大金になるはずです。熊討ちは、弥助にその熊の穴のありかを教えるようにしつこく頼みました。でも弥助も、熊との約束があります。
 「わしの恩人との約束を違えるわけにゃいかん。」
と頑張りましたが、相手が、
 「ただとは言わん、米か小判か、塩もんか。それとも着物が良いか?」
なと並べ立て爺様の息子や嫁はんにまで揺さぶりをかけます。
 弥助はそれでも首を横に振っていましたが、お金に目がくらんだ息子夫婦が、
 「爺様、孫のこともちっとは考えてくれ。爺様は孫よりも熊が大事か。」
と口説くと、弥助も抵抗しがたくなり、とうとう折れて、熊の穴に案内することになりました。
 話が決まった後、弥助は、
 「一つ、頼みがあるのやが。」
と言いました。何や?と聞かれ弥助は、
 「わしになあ、熊の掌をくれんかのう。」
弥助は皆に助かった時の話はしましたが、熊の掌を舐めたことだけは、誰にも話しませんでした。熊討ちも、掌などほとんど値打ちのないところなので、おかしな物を欲しがるもんやと、
 「ええとも、ええとも」
と一つ返事で承知しました。

 服を沢山着込み、蓑笠など雪除けをかぶり、すっかり準備ができると、
 「さて案内してもらおうか。」
 弥助と熊うちは、カンジキを履いて、一緒に連れ立って山へ登っていきました。
 山のとある谷の崖横まで来ると、弥助は、
 「あそこや。」
と熊の穴を指し示しました。
 熊討ちは、その穴の入口に杉葉(すんば)を集めて積み、火をつけました。煙が穴の中へもうもうと入っていきました。
 穴の中に眠っていた熊が煙にむせてよたよたと出てきました。そして木の陰に隠れとる弥助を見つけじろっと見ました。その瞬間、
 だだん、だだん、と山を揺るがして鉄砲が鳴りました。
 熊は弥助をじっとみたまま
 「おまいも、おぞいやっちゃあな(お前も、情けない奴だな)」
そう一言言うと、どたりと倒れてしまいましたと。
 けんけんぼっとり、なんばみそ。
みみずの食べ物  参考:「能登 鳥屋町の昔話伝説集」(平成6年度)他
 お釈迦様は、80歳というご高齢になってからも、まだお弟子(阿難)一人を連れて旅を続けていました。
 ある日、旅の途中に食べたものがあたって下痢になり、弱ってしまいました。おそらく今で言う食中毒でしょう。それで急速に衰弱し、死期をお悟りになりました。

 最後の力を振り絞って故郷を目指し歩きました。しかし途中のクシナガラという地まで来て、もう無理とまたお悟りになりました。お釈迦様は、お弟子さんの手を借りて、2本の沙羅双樹の間に、北枕で右脇を下に向けて西に向かって臥されました。

 その後、お弟子さんは、師匠の死が近いと感じ、近くの家に入って大きな声をあげて泣いていました。それを聞きつけ、お釈迦様が亡くなりそうだということで、お釈迦様の枕元に、沢山の者達が集まってきました。

 かつての弟子達だけでなく、その高徳を慕う人々、また人間だけでなく、沢山の神々、さらには象、牛、鶏、虎、猿、兎、山羊、馬、鷺・・・など沢山の者らが周囲にやってきました。

 お釈迦さまは、それらの者らに、最後の教えをあれこれと言い遺されました。
 動物達には、何を食べていくべきかなどを言い渡しました。

 その際、大きな動物達の陰にいてミミズが、“お釈迦様に助言を貰えず亡くなられては損してしまう”と思い、動物達の隙間を通って前に這い出し、大声で(といってもやっと人間の話声ほどの小さな声ですが)こう聞きました。
 「お釈迦様、おら、これからは何を食べていけば良いかの」

 その声を聞き、お釈迦様は、
 「おおそうじゃった。お前がいたのう、忘れるところじゃった。大き目の食べ物は、ほぼ指示し尽したし、食べ残しや、こぼれ滓(かす)も小鳥達や虫たちに指示したし、残りは何があったかのう・・・・」

 お釈迦様は、この小さなミミズを憐れに思い、色々考えた末にこう言い渡しました。
 「お前は、土についた養分を濾して食べられるようにしてやろう。それならば他の者らは手も出さぬし、食うに困ることもなかろう」
 
 しかしミミズはそれで満足せずさらにこう聞きました。
 「お釈迦様、土も一通り食べつくしてしまったら、次に何を食べればいいかの」

 お釈迦様はその貪欲さに驚き呆れてこう答えました。
 「もし土も食べつくしたら、土から出てきて昼寝でもしていなさい」と。

 ミミズは、お釈迦様が亡くなってから、その通りにしました。
 欲が深いので、じきに周囲の土を食べつくし、その日は天気も良かったので、土の上に出て日向ぼっこをしながら昼寝をしていました。

 そうしたら皮膚が薄い上に小さいので、日向ぼっこしているうちに、知らぬ間に干からびて、死んでしまったそうです。
 しばらくその地に留まってお釈迦様を弔(とむら)ってい高弟の阿難さんは、それを見て
 「欲をするにも限(きり)がない。ミミズは、お釈迦様にダラ(北陸の方言でアホ、馬鹿などの意味)なことを聞いたものである。皆も、欲はほどほどにするようにな」と言い、その地を去ったそうな。 

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