このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 (平成15年12月28日作成)

 (お断り)当HPには、多数の宗教上の歴史が取上げられていますが、特定の宗教に加担するものでもありません。このサイトでは宗教上の事件も歴史的観点から述べているのみです。

安土問答と西光寺・聖誉住持
〜信長のもとで裁かれた浄土宗VS法華宗の宗論〜

 七尾市小島町西光寺七尾市の小丸山公園( 前田利家 の築いた小丸山城跡)の第2公園北裾に能登の浄土宗の名刹・西光寺があります。昔の史料では、この第2公園の丘を、西光寺山と書いたものもあるようです。この辺一帯では、浄土宗で、一番由緒ある寺であることは地元の人にもよく知られています。正確には宇賀山西光寺というようで、草創は、奥州藤原4世の孫・感叡(かんねい)の開基らしいです。山門の横の石碑にもそう書いてありますからその辺の事情かなと想像する人も多いでしょう。しかし実はもっと大きな他の理由があったのです。。 
 この寺は、古くは天台宗であったらしく、そののち能登畠山氏の盛んな時代は浄土宗であったそうです。最初に建立された場所も、七尾城山山麓の現在の古屋敷地内にあったということです。おそらく畠山氏かその家臣の屋敷などと並んであったのでしょう。しかし天正4年(1576)の 上杉謙信の能登侵攻 で退転することになりました。古城町には西光寺という地名も残っているようで、寺地跡からは、板碑、地蔵尊などが出土しており、七尾城史資料館駐車場前の小堂にあつく祠られています。
 現在地に当寺が再建されたのは、もともとここにあった宝円寺(前田利家の父母の菩提寺)が失火で焼失してしまいます。(天正11年(1583)賎ヶ嶽の戦いのあと、利家が加州の石川、河北の二郡を加封せられ、その後金沢に入城するや、大透禅師を招き更に宝円寺を金沢に再建しています。ちなみにこの時、七尾で宝円寺と言われていた寺は、それに伴い長齢寺と改称しています。)
 利家が居城を金沢へ移したことで、宝円寺がここに再建されず金沢の地に移転したので、その跡地を利用して、西光寺が建てられたのです。この地での再建の時期は、(西光寺に聞いても詳細不明とのことでしたが)江戸期の頃と推測されています。

 当寺が由緒ある寺となったのは、宗教界で有名な「安土問答」(安土宗論とも安土法論ともいいます)の際、浄土宗側論者として法華宗と法論を戦わし、法華宗側に勝った僧が聖誉定安(貞安との記録もありますが、西光寺によると定安が正しいとのとの事でした。以下貞安という記録の文書のものも定安に統一して記す)であり、西光寺・10代住持であったことからです。この事は、地元でも西光寺の門徒以外ほとんど知られていません(門徒でも意外と知らないかもしれません)。
 上でもチラッと記しましたが、上杉謙信が七尾城を攻めると、城下の屋敷地にあった西光寺の十世聖誉定安は戦乱の能登を避けて、当時日の出の勢いのあった信長の居城の城下町・近江国安土へ逃れました。そして天正7年には、「安土田中の定安長老」と呼ばれ江州蒲原郡安土町田中(現近江八幡市)の西光寺住職となっていました。

 『信長公記』では天正7年の箇所に「五月中旬の事に候」として書き始められています。関東から廻国中の浄土宗の(※1)長老が、安土の城下で浄土宗の教えを説いていると、法華宗の信徒・建部紹智と大脇伝介が異議不審を言い立てました(つまり宗論をふっかけてきた)。そこで長老が、若輩の人に説明しても仏法の理がよく耳には入らぬだろうから(理解できぬだろうから)、ご両人が帰依している法華僧に返答しようと、提案すると、法華宗側は、それなら京都から高僧を呼んでくるから、宗論しようということになりました。それでその長老は、7日間の法談の予定を11日間に延長したともあります。使者を受けた法華宗側は、美濃斉藤道三の帰依僧妙覚寺(常光院)日諦・京都頂妙寺日珖・京都妙満寺の久遠院日淵(日雄)、京都妙顕寺内法音院の僧大蔵坊、油屋常由の弟妙国寺、普伝、といった歴々の僧を安土へ送ることを決定し安土へ下りました。(※1:この浄土宗側の長老は、鎮西義の僧・霊誉玉念と考えられます。ただし聖誉定安も彼の法談に付き添ったのではないかと私は想像しています。)

 騒ぎを聞きつけ、双方の宗派の僧以外にも、近隣一帯から野次馬も相当やってきたのでしょう。
 「歴々の僧衆、都鄙(とひ)の僧俗、安土へ群れ集まり候。」と当時の安土周辺の模様が記録されています。
 こうなると信長の耳に達するのは当たり前。それでも、ほんの数年前までの信長は、覇権を握る戦いで頭が一杯。その頃は、小さな事件などには目を向ける余裕はありませんでしたが、この頃から、領土の統治にかける政治意欲が旺盛に出てくることになります。彼は、自分の部下にも法華宗の宗徒が沢山いましたから、この件は自分が扱う、だから静かにしているように「無事尤(もっと)もの由」と伝えました。浄土側は「何様にも上意次第」と承服しましたが、法華宗側は、討論に勝つつもりでしたから宗論を行うことを主張します。そこで信長は、それなら審判者を出すから、討論の結果と勝負を書類にして報告せよと申し付けました。「左(さ)候はば、判者(はんじゃ)を仰せ付けらるべく候間、書付を以って勝負を御目に懸け候へと、御諚候て」。

 法華宗(日蓮宗)が頑なになったのは、天文の法華一揆以来、諸国で浄土宗などと宗論を行い、天正3年(1575)には日蓮義非宗の綸旨が下る事件などもあったからです。またそれだけに法華(日蓮)宗への公武の反感も少なくありませんでした。信長も快く思っていなかったのですが、当初は穏便におさめようと家臣の菅屋長頼や堀秀政に和解の斡旋を命じました。しかし、法華(日蓮)宗は、信長の意に従わず和解に応じなかった上に、信長の御法度書を無視しました。(誇り高い、信長は内心非常に腹を立てたと思われます。)それで信長の監察下で宗論を行うという仕儀に至った訳でした。

 宗論は旧暦5月27日に寺中警護の中で行われました。宗論が行われた場所は、その前年に信長が建立した浄土宗の金勝山浄厳院です。浄厳院のあったこの地は、もともと佐々木六角氏頼が建立し六角氏の菩提寺であった慈恩寺(天台宗)があった場所ですが、信長が、近江(八幡市多賀町)にあった興隆寺の堂舎を移し、栗田郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院と改称したものです。信長はこの寺を、近江・伊賀両国の総本山しました。前年に移転したばかりのせいもあったのでしょうか、「その場所の立派なこと、座席の準備、仏僧の格式、民衆の集合という点では、ヨーロッパの著名な大学で上演される公開劇の雰囲気を備えていた」と当時来日していた宣教師フロイス(「日本史」の著者)は、記述しています。

 浄土宗側の代表は、霊誉玉念安土西光寺の教蓮社の聖誉定安・近江の正福寺開山想蓮社の信誉洞庫・京都知恩院内一心院の助念(記録者)の4人、法華宗側の代表は常光院日諦・頂妙寺日珖・久遠院日淵、久遠院の大蔵坊(記録者)の4人、この8人が問答することになり、各4人が対座しました。また判者は当時京都五山の識者として有名だった日野・正明寺の鉄叟景秀とその伴僧の華渓正稷、因果居士(華厳宗の学者?)・法隆寺の仙覚坊(法相宗の学僧)の4人でした。宗論の奉行衆は信長の家臣の菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一、矢部家定でした。また「信長殿御名代」として織田信澄も立ち会っています。問答の内容は下記のようなものでした。

 最初、霊誉長老が、このような事態となったのは自分のせいであるから、自分が討論の口火を切ろうとしたが、定安長老が早口で遮り、初問を立てました。内容は下記の通りです。

定安問う 法華八軸の内に念仏はありや。
●法華答う 念仏あり。
定安曰く 念仏の義あらば、何ゆえ法華は念仏無間地獄に落ちると説くや。
●法華曰く 法華の弥陀と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
定安曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
●法華曰く 左様ならば、何ゆえ浄土門は法華の弥陀を「(※2)捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」として捨てるや。
定安曰く それは念仏を捨てよというにあらず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
●法華曰く 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
定安曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
●法華の無量義経には、以方便力、(※3)四十余年未顕真実とあり。
定安曰く 釈尊が四十余年の修行をもって以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。(←※4)
●法華曰く 今言うは、四十余年の四妙中のいずれや。(←40年の修行のどこにある妙か?、とぼけた)
定安曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。
●法華返答なし。閉口す。
定安重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。
 重ねて問いしところ、
●無言。其の時、判者を始め満座一同どうと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。
  天正七年己卯年五月二十七日辰刻
 こうして宗論は終わったようである。 
(註)
※2:浄土宗の開祖法然の主張を纏めたもので、聖道門・雑行を捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)って、称名念仏に帰依すること、とある。
※3:釈尊が「40余年も修行してきたのに、いまだに真実が顕れない(悟りが開けない)」といった言葉があるらしい。
※4:釈尊が40余年もの修行をもって法華経のみを真実とし、それ以前の経典を捨てたと主張するなら、あなたは法華経以前の概念である「妙」の一字を捨てるか、捨てないか、というほどの意味。「妙」は、ここでは人智では計り知れないものの象徴の意味です。

 このように「妙」の一字を捨てるか否かという、聖誉定安の質問で、法華宗が閉口することで敗北し、浄土宗の勝ちとされました。記録では、この後、霊誉長老は扇をとって立ち上がり一舞を舞ってみせたとあります。一方、「妙」の返答に窮した日珖は散々に打擲され、妙法連華経八巻も見物の群集によって破り捨てられたとあります。
 この判定の裏には、信長の内意を受けた因果居士によって浄土側の勝ちとされた、という信長謀略説があります。しかし信長のその後の処罰とその理由を見ると、敵意はあったにしろ、非常に理にかなった処置のように私には感じられます。

 宗論の結果は、信長の事前の命令通り書付を持って信長に提出され、目を通した彼の行動はすばやく「宗論勝負の書付上覧に備えらるるのところ、即ち、信長公時刻を移さず」宗論の場へ往き、浄土側へ扇や杖などを与えて賞しました。そして最初に不審を発した法華の信徒・大脇伝介を斬り捨てています。理由は、この者実は長老の宿を仕った者であるのに、長老の味方もせず、人にそそのかされて不審を申し懸け、「都鄙(とひ)の騒ぎ」を惹き起こしたのは不届きである、というものでした。そして、堺まで逃げたもう一人・建部紹智も追捕して斬罪に処しています。

 また宗論の場に出席した普伝という僧、彼は、九州出身で、昨年秋から滞京していましたが、一切経のどこそこの箇所に何々の文字がある、といったことを空でいえるほどの博識があり、信長と近衛前久との雑談に出てくる僧でありました。彼はどこの宗派にも属していなかったが、「八宗は兼学したが、法華はよき宗派なり」とよく周囲にもらしていたのにかかわらず、常々「信長申し候はば、何れの門家にもなるべし」と言っていました。またこんなこともありました。近衛殿は普伝の行動について、「ある時は紅梅の小袖、ある時は薄絵の衣装などを身に着けており、自分の着ている破れ小袖などを、結縁であるといってよく人に与えている」と話していましたが、この話は一見殊勝に聞こえたものの、よく調べてみれば小袖は実は借り物で、まがいものの破れ小袖であったことが判明しました。普伝のこのような企みは、次第に明らかとなりました。また法華宗徒は「かほどに物知りの普伝さえ聞き入り、法華宗となった」と評判が立てば法華も繁盛するであろうと考えて普伝に協力を頼んでいたのでした。普伝も多額の賄賂と引換えに法華宗となることを承諾していました。
 信長はそれらの行状を訊いてから、理由を申しつかせて、彼も斬罪に処しています。理由の1つは、僧としての在り様が「老後に及び虚言をかまへ、不似合」でした。宗論に勝った暁には終生にわたって身上を保証するとの確約をもって法華宗に招かれ、届も出さずに安土へ下ったこと、日頃の申し様と大いに異なる曲事の振舞いである、と普伝を咎めたのでした。
 理由の2つめは、今回の事、「人に宗論いわせ、勝ち目に候はば罷り出づべしと存知、出でざる事、胸の弱き仕立、相届かざる旨」、つまりお前は自ら法問を立てることもせず、他人に宗論をまかせた。これは法華方が優勢になった時のみ自分も出ればよいと算段した上での行いであり、その性根の弱さは不届きというほかない」といったのです。信長は、実質のない言葉で人の心を惑わす行為をひどく嫌い、また卑怯に見える態度を嫌ったのです。

 さらに信長は残った法華僧に対し、「諸侍軍役勤め、日々迷惑仕り候に、寺庵結構仕り、活計を致し、学文をもせず、妙の一字に、ツマリ候し事、第一曲事(くせごと)に候。」 つまり、侍たちが日々軍役を務めて辛酸を舐めている横で、汝ら寺庵衆は安穏として贅沢をなし、学問もせず、ついには妙の一字の解釈にも詰まる体(てい)たらくに至った、このこと曲事に尽きる、といったのです。信長は、その上でしかしながら法華宗は「口の過ぎたる者」ゆえに、後日、宗論に負けたとは決して申さぬであろう。「ならば本日敗れた証拠として、汝らは宗門を変えて浄土宗の弟子となるか、それとも今後決して他宗を誹謗せぬ旨の墨付を提出するか、いずれかを選ぶべし」とせまりました。法華僧はこれを受けざるを得ませんでした。
 その上で信長は、法華宗側に、法華宗十三ヶ寺が連名で、下記のような3ヶ条の起請文(詫証文)を書かさせて降ります。
 
 敬白 起請文の事
一、今度江州浄厳院において浄土宗と宗論し、法華の負けとなりしゆえ、京の坊主普伝ならびに塩屋伝介討ち果たされしこと、相違なし。
一、向後他宗に対し一切の法難をしかけざること(向後他宗一切不可致法難)、誓約す。
一、法華に一分の理を与えられしこと感謝の至りと心得、法華上人衆については一度その位を辞し、改めて任ぜられるべきこと、承諾す。
     天正七 五月二十七日 法華宗

 さらに法華宗に「可被立置之旨」に感謝する旨、もし違反した場合は法華宗悉く成敗されても恨みに思わない旨、も誓わせ、宗論の奉行衆へ提出させています。この詫証文(起請文)は、題目曼荼羅に書いたもので、信長へのものと浄土宗の本山京都知恩院へのものでした。またさらに京都の法華(日蓮)宗の諸寺へ罰金を科し、日珖以下の桑峯寺(桑実寺か?)籠居など厳しく処罰されました。
 この処置に対しては、信長は最初から、排他的な法華(日蓮)宗を処罰するつもりの計画的なものだったと、徳富蘇峰など多くの識者が批判していますが、「信長」の著者である秋山駿氏などは、その考えを疑い、「信長はもっと遠方を視て、もっと怖(おそ)るべきことをしようとしていたのではないか、と思う。つまり、文化界精神界において何か紛争(戦争)があれば、自分が「判者」になるということ。それが天下布武の真意であろう。」と述べています。私も、先に述べたように、敵意は前もってあったにせよ、状況や結果を踏まえた統治者の適切な判断だったと思います。

 法華側はこれ以降、説法のあり方を、折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)へと変化し、畿内の法華宗も権力へ従順する姿勢を強めました。信長へ提出した詫証文は、後豊臣秀吉時代、天正13年(1584)、法華(日蓮)宗に返却され、日蓮宗はようやく複したようです。
 最後に、勝者の浄土宗は、問答(宗論)直後、上記に述べたように信長から「扇や杖などを与えて賞」されましたが、8月2日に聖誉定安は、信長からあらためて感状(上官や君主が功や業績などを認め賞した旨を書いた書状)と銀子50枚を贈られ功を慰労され、一代の面目をほどこしました。これは宗論を戦ったのが浄土宗側では結局彼1人であったためでしょう。こういう理由で、西光寺は、名刹となったのでした。
 
 最後に、余談ですが、このように北陸の浄土宗の寺の中でもとりわけ由緒あるせいか、西光寺は、江戸時代初期までは、幕府からの命令を能登・加賀各地に伝える触頭の役割を担ったといいます。
 寺の鐘楼にある梵鐘は、貞享元年(1684)の銘があり、有名な鋳物師で初代加賀藩御用釜師でもあった宮崎彦九郎(初代・寒雉)の作品です。この鐘は、加賀藩直臣の知行高約300石の平士・小幡七郎兵衛尉信義が寄進したもので、小幡家の墓は西光寺の最上段に位置し、総檀那衆筆頭の家として扱われてきました。
 また明治12年(8月〜)に、本堂近くに鹿島郡役所が置かれたこともあるようです。明治16年2月21日に西光寺から出火し本堂は焼失しました(この時、郡役所は長福寺に仮事務所を設け移る)。この火災でも、浄土宗開祖の法然の作といわれる「木枕の像」などの寺宝は、どうにか難を逃れたようで、今も残っているそうである。「これも格が高いお寺の由縁の事だったのででしょう。
 その他にも、江戸時代の横綱・ 阿武松緑之助 の扇形の一風変わった墓や、七尾市ゆかりの作家・藤沢清造の碑文もあり、小丸山公園の散策のつでに立ち寄るには、いい場所ではないかと思われます。皆さんも、一度西光寺を訪れてみてはいかが。
 (公園からの西光寺への行き方)
 小丸山公園内の愛宕山相撲場のトイレ横の階段を降りて、谷間の民家の間の道を100mほど歩くと、左手に西光寺の門が顕れます。

(参考図書)
 「七尾歴史散歩百選 新七尾風土記」(田中政行編・著)
 「信長」(秋山駿著・新潮社)
 「信長公記」(太田牛一著)
 「安土町観光案内パンフレット」
 「言経卿記」(岩波書店)
 「知恩院文書」
 「安土問答(宗論)実録」
 「七尾市の文化財」(七尾市教育委員会)

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください