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  能登の民話伝説
 口能登というのは、中能登を含んで言う場合もありますが、ここでは加賀との境界から羽咋市及び羽咋郡の町々の地域を口能登の範囲とさせてもらいました。
この頁はその中でも、羽咋市の民話伝説を中心集めてみました。
能登の民話伝説(口能登地区-No.2)

<羽咋の民話伝説>      
羽咋の名の由来 
 羽咋は、口能登の中心の町です。JR羽咋駅で電車を降り、駅前から真っ直ぐ商店街に進むと、右側に羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと)です。磐衝別命とも書きます。

 羽咋の地名の由来については、 「第11代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の3匹の飼犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった」とあります。 これは羽咋神社「社記」にもとづいてのいい伝えです。

 一方「羽咋郡誌」には、「往古、気多大社祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、悪者平定のために矢を積み置いていたところ、ねずみが矢の羽を食ったことから、羽咋の地名ができた」旨の記述があります。能登一の宮である気多大社の祭神は大己貴命は大国主命のことです。気多大社の主要な祭礼である「平国祭り(別名:おいで祭り)」をはじめ、能登には今でもあちこちに大国主命の能登平定に纏わる伝説や祭りが数多くあります。

 羽咋神社「社記」及び「羽咋郡誌」、そのどちらにも「羽」「食い」の言葉が出てきます。現在の羽咋の「咋」の字は、辞書でも容易に見当たらない字ですが、古事記にもすでに「羽咋君」が登場しています。その意味はやはり「食う」「噛む」となっています。
 (参考)私のHPの 「羽咋の歴史と史跡」 の頁
唐戸山伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 唐戸山は、能登では、9月25日の羽咋神社大祭の際に、加賀・越中・能登三州から集まってきた力士による神事相撲が奉納される場所、日本最古の神事相撲が催される場所として有名である。石撞別命(いわつくわけのみこと)の御陵を築造する際、盛土を掘り取ったためできた跡地が唐戸山と言われています。

 羽咋神社の南方約700m、道路沿いに巨大な擂(すり)鉢状(直径約150m)を呈しています。つまりすり鉢の底辺部が土俵に、周辺部の傾斜部分が桟敷となる訳です。また神事相撲が行われる9月25日は、石撞別命の忌日で、相撲好きであったという命をお慰めするために行われるのだといわれています。

 石撞別命の御陵は、羽咋神社の直ぐ北側で、大きな前方後円墳(東西63m、南北100m)となっています。石撞別命の皇子が石城別命(いわきわけのみこと)で、羽咋国造(はくいこくぞう)となり、御陵は父御陵の右側にあります。よっておそらく唐戸山は、石撞別命のみならず石撞別命の御陵の分も土も取られたのではなかろうか。

 最後に余談だが、唐戸山神事相撲は、力士を東西ではなく、上山と下山とに分けます。相撲場の周囲は、力士の石碑がいっぱいあります。また‘四本柱なし、水なし、待ったなし’(または‘塩なし、水なし、待ったなし’)の相撲としても有名です。 
 (参考) 羽咋の歴史と史蹟
柴垣の親王塚 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 羽咋市柴垣町の椎葉円比咩(しいはまろひめ)神社の社叢の中に、前方後円墳がある。親王塚と呼ばれている。後円部に接して社殿が建っています。後円部の穴は、祭神が出雲大社へ通った跡といわれ、海中に深く通じているとい所伝もあります。このあたりから、本成寺付近を含め幾つか古墳があり、柴垣古墳群と呼ばれています。
 (参考) 羽咋の歴史と史蹟
妙成寺の創建伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 羽咋には、北陸の日蓮宗における本山であり、また前田利常が生母寿福院の菩提寺として造営された妙成寺があります。境内の経堂横の裏道には、エンジュの木が、あり杖塚と呼ばれています。永仁2年(1294)、日蓮聖人の孫弟子・日像上人が、佐渡から能登を通って京都に向かう途中、石動山天平寺の座主・乗と法論し、祈伏教化し、名を日乗の改めさせます。

 そして日像は日乗の出身地である羽咋の滝谷口の地を訪れました。そして旅立つに際して、エンジュの杖を地面に突き刺して、「この杖より根を生ずることあらば、一寺を建立すべし」と弟子の日乗に告げて立ち去ったといいます。果たせるか根を生じた奇跡に日乗は驚き、日乗の叔父で羽咋郡滝谷の領主・柴原将監の助力で建立したのが妙成寺の起源だと伝えられています。
 (参考) 羽咋の歴史と史蹟
八幡さんの蚊寄せ伝説 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 妙成寺の山門前の道を真っ直ぐ山手に向かうと、左方に見える石鳥居が滝谷の八幡神社です。日蓮聖人の孫弟子・日乗上人が、妙成寺内の蚊をみなここに封じこめたので、蚊寄せ八幡と呼ばれたそうです。
 別伝では、日乗忌に、八幡さんが妙成寺内の蚊を神社内に集めて法会を助けたとも言われています。神仏分離前、八幡神社が妙成寺の鎮守神であったところから、こんな伝説つたわったと考えられています。
七面堂の蛇の池 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 妙成寺の山門前の道を、八幡神社側に左折するのではなく、右折し進むと七面山が左側にある。七面堂の参道を登って石鳥居の右手に入ると林の中に「蛇の池」があります。この七面堂の池の泥鰌(どじょう)は眼が片目だといいます。この七面堂は、眼を病む者を救おうと誓願した日朝上人が合祀されており、それで昔から多くの眼病患者が祈祷をしに参詣しました。よって泥鰌が片目なのは、その願いを聞き届けた者の、身代わりになったからと言い伝えられています。
正夢 参考:「加賀・能登の伝説(日本の伝説12)」・角川書店
 宝暦13年(1763)のある春の日、吉兵衛という一人の大工が、江戸に働きにでることになった。
 見送りの際、妻は夫に「あんた、江戸で好きな女を作ったら承知せへんよ。」
と言うと、吉兵衛は
 「だら(アホなこと)言うでねえ、わしゃ、江戸へ働きにいくがや。こんないいかかさ捨てて、女作るわけないやろ。」
と笑って旅立っていった。
 しかしそう言った吉兵衛は、出かけた後、1年と6ヶ月たっても、江戸からは何の便りはなく、2年目には、消息さえ経ってしまった。そのうちに妻のもとに夫吉兵衛が、江戸で女を囲っているという噂が聞こえてきた。噂を教えてくれたのは、江戸帰りの大工の友人の一人である。
 ある夜、女はいやな夢を見た。江戸であろうか、どこかの町をその女が歩いていると、前方に男と女がいかにも親しそうに寄り添って話し合っている様子が見えた。妻は、男が夫に似ているような気がしたので、少し近寄って確かめてみるとそれは確かに夫であった。妻は、夫に話しかけていた女が離れた後、夫の後を追って、町外れで途中で夫を捕まえて夫の上に馬乗りになった。夫は、眼を閉じたまま妻を抱き寄せたが、つぶやいた言葉が知らぬ女の名であった。嫉妬と憎しみに燃えた女は、男の喉に噛み付いた。そして自分の長い髪の毛を夫の首に巻きつけた。夫は、声も立てずに絶命し、喉からは真っ赤の血が吹き流れ、自分はその血を吸血鬼のようにぴちゃぴちゃと吸っているのであった。
 女は、起きると体中にびっしょり汗をかいていた。ひどくうなされていたのか、喉もからからに乾いていた。 
 思い返して見ると、先ほどの夢をまざまざと思い出すことができるのである。非常に恐ろしく不吉な夢であった。女は、そのうちに口のあたりに生ぬるい感覚を覚えた。何だろうと思って、唇のあたりを指でなぞって、指をあらためてみると、それは血だった。女は悲鳴を上げた。
それは明和2年(1765)の7月11日の未明のことだった。
 女はただのいまわしい夢だと思い込もうとした。その日一日、畑をはいずりまわり、あいてる地面を一生懸命鋤いて、疲れでまぎらし夢のことを忘れようとした。でも神経は張り詰め、過敏になっており、眠ればまたあの悪い夢を見そうな気がして怖かった。
 夜があけると、女は旅支度をした。不吉な予感に怯えながらも、事実を確認して落ち着きたかったのだ。それで江戸へ旅立った。
 女が信州の善光寺近くまでたどり着いた時、反対方向からほっそりとした美人の女が、骨箱を抱いてうつむいてやってきた。すれ違おうとして、何気なくその女はその骨箱を見た。
 ---明和二年、七月十一日未明。俗名 吉兵衛。
女はあっと小さくさけび眩暈(めまい)を覚えた。そして相手の女に
 「もしや、この骨箱は、大工であった私の夫吉兵衛の・・・・」と声をかけた。
相手の女も驚いたようだが、吉兵衛のもとの妻であると悟ると、
 「あい、十一日の未明のことでございました。吉兵衛さんはうなされ、喉をかきむしり、突然亡くなられたのでございます。不思議なことに、喉を噛み付かれ、血が流れていました。」
 江戸の女は、涙をこぼしながらそう答えた。涙が幾筋も頬を伝い流れ落ちていた。それも拭おうともしなかった。
 女は事実を確認したが、不吉な予感通りになった事に落ち着くどころか、恐怖と絶望に身を震わせた。吉兵衛が、江戸の女と一緒に生きていたならそれで諦めもついたが、夢で見た通りの死に方をしていたので、驚愕してしまった。
 江戸の女は
 「堪忍してくださいませ。どのようにしてくださっても覚悟をしております。ただ善光寺にお参りして、貴方様にこの骨箱をお渡しせねばと、こうしてやって来たのでございます。」
 夫を奪った憎い女ではあるが、自分の妄執が吉兵衛の命を奪ったことに、恐れをいだき、後悔した。こうして一人の男を愛した二人の女が、信州の善光寺で出会ったのも、仏の導きかもしれぬと思った。二人の女が尼となったのは、それから間もなくの事であった。せてめ供養の鐘を造ろうと托鉢の旅に出た。江戸霊岸島で明和3年に造られた鐘は、曹洞宗の古刹・豊財院(羽咋市白瀬町)へと運ばれた。鐘には、白見比丘尼、真了比丘尼と二人の名が刻まれている。鐘の由来を、里人はこう、唄って伝えてきた。
 聞くも恐ろし般若の鐘は
    恋ノ仇が供養した
    朝な夕なのあのむせび泣き
千路のサンマイタローからもらった財布 参考:「加能民俗」
 昔は火葬場は、現代の会館のような綺麗な建物でなく、村はずれの薄暗い所によくあったものです。普段は誰も近寄りたくない場所でした。それで火葬場(このあたりの方言でサンマイと呼ぶ)には、サンマイタローというお化け・妖怪のようなものがいると考えていました。
 
 昔々、千路の某がサンマイ(火葬場)の近くを通ったら、
 「たのんまい(頼む)、たのんまい」
と自分に呼びかける声がする。こんな所で誰やいなと不思議に思い後ろを振り返って見た。
 するとデカい大男がにゅーっと仁王立ちしているではないですか。某は、どきりとしましたが、肝が座っているので、すぐ噂に聞くサンマイタロだなと合点し、落ち着いて、
 「何か用かい」と平然と問い返しました。

 すると千路のサンマイタロが言いました。
 「今日は、須場のサンマイタローと角力をとることになっとるがやけど、あの川を渡れんから、どうか負うてってくさい。ンまいことゆけぁ、あんた一生涯、楽に食われるようにしてやっさかいに・・・・・・・。」

 それで某は、了解しサンマイタローを背負って川を渡りました。須場の近くまでくると、
 「ここで角力が終わるまで待て」
と言われ、某はサンマイタローを背中からおろし、潅木の陰で待つことにしました。

 千路のサンマイタローが、須場の約束の場に着くと、須場のサンマイタローが今や遅しと待ち受けていました。
 「やあ、来たか」と言ったのに続けて
 「さ、始めよう」
と直ぐに角力をとりはじめました。

 四つに組んだ時、須場のサンマイタローが、鼻をクンクンさせ、言いました。
 「どうやら人間臭いな。人間の臭いがしてならんが、お前はどうやい。」
 
 しかし千路のサンマイタローは、
 「おら知らん、おら知らん」
と何も知らぬ振りした。なおもクンクンと相手が鼻を利かせるその隙を狙い、千路のサンマイタローは投げ技を打った。須場のサンマイタローはもんどり打って尻餅をつき、負けてしまいました。

 それから、勝った千路のサンマイタローは、須場のサンマイタローに対して大威張りに威張ることができました。
 千路のサンマイタローは、某と別れると、
 「これは約束の御礼の品やが、必ず家ん中にしもう(仕舞う)といて、他所(よそ)へ持って歩かんように」
と言って財布を一つ出してくれました。
 
 某は、その言いつけを守ったので、いつの間にか、村一番の金持ちになりました。
サンマイタローの弱点 参考:「志雄町の民話と伝承」、「加能民俗」
 昔々、千路(羽咋市千路町)のサンマイタローと、柳田(やないだ)(羽咋市柳田町)のサンマイタローが角力をとりました。千路のサンマイタローは、馬の糞(ふん)を踏んで角力をとる場所まで行き、柳田のサンマイタローは、馬の糞を踏まないでそこまで行きました。

 すると何回角力をとっても、千路のサンマイタローが負けてばかりでした。とうとう千路のサンマイタローは泣き出してしまいました。柳田のサンマイタローは、「お前は馬のクソを踏むから負けるんだ。今度は舟に乗って行ってみんか。そうすりゃクソ踏まずにあの場所まで行ける」と言いました。(このあたりは邑知潟が昔は今よりかなり大きく、湾のようになっていました)

 次の日、早速、二人は舟に乗って角力をとりに行きました。すると、どうでしょう。今までずっと負け続けていた千路のサンマイタローが、とたんに勝ったではありませんか。
 それ以来、サンマイタローは、馬の糞を踏むと弱くなると、言われるようになりました。
海鳴小坊主 参考:「妖怪・神様に出会える異界()ところ」(水木しげる著・PHP研究所)
 能登一ノ宮・気多大社では、昔から「海鳴小坊主」という怪音が知られ、土地の人々は恐れているそうだ。この音は、海に近いこの神社の鎮守の森が鳴るのだそうだ。今でもここの鎮守の森は自然林のいまま保存されている。
 海鳴小坊主は、昔、能登が上杉謙信に攻められ、海に身を投じて死んだ僧兵の亡魂のしわざと伝えられている。

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