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七尾城代

(2003年12月20日更新)
 天正9年(1581) 前田利家 は能登に入部しました。能登の中心であったこの地には、戦国時代に畠山家が築いた七尾城が300mを越す山の山頂にありましたが、時代に合わず不便であったので、山頂の七尾城は廃し、所口(七尾)の小丸山にあった気多本宮を明神野に移転し、小丸山城(現小丸山公園)を築城しました(ただし小丸山城も七尾城とも言っていたようです)。そして宮丸には愛宕神社が建てられました。愛宕の神は火伏せの神で城下町の防火を願い、本持仏は勝軍地蔵なので軍に勝つということから戦武将に信仰されていたものです。
 この築城は、初見史料で翌年正月の所口総溝の濠堀を命じたものでありますが、織田信長から能登一国を与えられた同年から行われたものと思われます。小丸山城は、東西約80m、南北約72m、高さ約25.6mの本丸を中心に天性丸(第二公園)、宮丸(愛宕山)、大年寺山(御貸屋山)の4つの砦で構成され、近年の調査で、本丸に巽櫓と坤(ひつじさる)櫓が建てられていたことが判明し、小丸山城が想像以上に充実していたことが覗えます。またそれ以外にも七尾市街地を東西に分ける御祓川は、小丸山城築城の際に、能登国中の15歳から60歳までの男を5日間夫役させて造らせた堀割りです。
 しかし利家は、越中の神保氏の家臣達が上杉謙信と結んで叛旗を翻したため、魚津など6月まで越中を転戦しています。そのため七尾に席を暖める閑もなく、よって小丸山城は、三兄の五郎兵衛安勝(?〜1594)を城代としました。また所口(七尾)町奉行に三輪吉家・大井九兵衛を当たらせました。この時、前田一族を支えたのは、鎌倉の長谷部信連の子孫で鎌倉・室町時代の能登の名門の出であった長連龍でありました。
 安勝は、それ以前から越前府中(現福井県武生市)時代の利家に1000石で仕えて信任厚く、今回はさらに1万3000石と大幅に加増し、領国の統治を任せることにしたのです。 利家が越中転戦の間、安勝は小丸山に在って築城工事を督励する傍ら、利家の兵站を担当しました。また上杉の家臣・長景連(ちょうかげつら)が、前田利家の留守の隙をついて、能登棚木(たなぎ)城(現能都町宇出津)を占拠すると、手勢を急派するとともに長連龍(ちょうつらたつ)や富田景政(とだかげまさ)を指揮して、これを滅ぼした。安勝は早くも1年前から七尾城代の実績を残していました。
<参考資料:『加賀藩史料』第1編>
 その後、松波村より宇出津の城へ、敵十六人篭り居り申すに付き、五郎兵衛様より御家中、勿論右4人の者義遣わされ候処、敵落行き壱人も見え申さずに付、其妻子一門五十二人搦め捕り帰陳、即ち、利家様に御注進成られ候処、本七尾町末赤坂と申す処に、磔に御懸け成られ候事、
 これは天正10年(1582)前田利家が柴田勝家と共に越中の魚津城を攻撃していた時、利家の留守を窺うかのように、越後の長与一が奥能登へ進攻した。利家は長連龍を派遣して反撃したが、能登の留守を守っていた利家の兄、前田五郎兵衛安勝も手勢を急派した。敵兵には遭遇しなかったが、一門妻子を捕縛して帰陳、本七尾の町末、赤坂という所で磔にした、というのである。
ここで、本七尾というのは、畠山治世の城下町で、前田利家が小丸山に築城、城下町を築いた時に、畠山治世の城下町をそこへ移転させた。その跡を本七尾(あるいは旧七尾)というのである。その範囲は『能登志徴』によると、古府(ふるこ)・國分(こくぶ)・古城(ふるしろ)・古屋敷・小池川原(おいけかわら)・竹町・府中の各村が含まれるという。これらの地域に広がる七尾城下町の町はずれに赤坂があり(現在の所、未特定)、そこで磔が行われたということだ。
 本能寺の変後の7月24日、能登逸回を目指して石動山へ入った温井景隆・三宅長盛との合戦に利家は、金沢城主佐久間盛政と長連龍の援軍を得て一日で勝利を得ました。戦後、利家は連龍と血判起請文を交わし友誼を深めています。

 利家は、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家側につきますが、戦いの際特に動かず戦局を見て退きました。そのため勝家方事態も後退を余儀なくされ負けてしまいます。利家は、越前における府中(武生)城に退きますが、秀吉の軍勢が押し寄せると、戦うこともせず開城し、秀吉に降伏します。秀吉も、利家とは以前からの誼もあり赦し、北ノ庄城(後の福井城)に逃げ戻った柴田勝家を攻める先方となり活躍します。そのあと越中の佐々成政もくだした秀吉は、5月に北ノ庄城に帰りました。そして、利家に加賀の石川・河北の2郡を与えました。これにより利家は、能登加賀双方を守るに都合のいい尾山(金沢)に居城を移しました。

 金沢へ居城を移した後、利家に替わって、小丸山に在城し、能登を支配したのは、やはり利家の兄・前田安勝でした。城代の職務は詳細不明ですが、利家が金沢に移った年(1583)、中居村(現穴水町)での年貢未納の件を処置しています。翌年(1584)の佐々成政の能登侵攻に際しては、佐々軍の拠る勝山城(現鹿島町芹川)を子の前田利好(としよし)と共に攻略し、 末森の合戦(詳しくは「前田利家」のページを参照 )の勝利に貢献しています。施政面では、「初期所口奉行」の三輪吉宗・今井彦右衛門・大井直泰を指揮して、築城・刀狩・開墾・課税・船や水手(かこ)の他国流出防止などを推進しています。このようなことから考えると、能登における統治上の全てのことが任されていたようです。安勝は、利家にかなり信頼されていたので、利家が不在の時は金沢に留守居することが多かったようです。彼は文禄3年9月に病没し、七尾長齢寺に葬られました。

 安勝の跡は、子の播磨守利好(安継、1565〜1610)が継ぎ2代目七尾城代となりましたが、わずか6年後の慶長15年(1610)2月に没しており、顕著な事蹟は知られていません。利好には嗣子がなかったので、3代目七尾城代は、利家の三男修理知好(しゅうりともよし)(1590〜1628)が継ぎました。知好は京都に生まれ、母は小塚氏。7歳で金沢に下り、兄利長の命で、石動山に出家、経王寺に移ったあと還俗したといいます。坊主田地役の賦課や、利長病気平癒祈祷依頼書の文書が残っています。しかし、大坂冬の陣・夏の陣に、2度とも殿(しんがり)を命じられたのが不満で(他にも色々説がある)、元和2年(1616)京都に出奔しました。この時、前年の一国一城令に従って七尾(小丸山)城も廃され、その職責の大部分は 所口奉行(「江戸時代の七尾の人々の暮らし」の『町民の暮らし』 )に委ねられました。
(参考)「(図説)七尾の歴史文化」(七尾市)、「七尾の地方史」(七尾市)、「石川県大百科事典」(北国新聞社)他

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