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能登府中守護所 |
(1999年11月23日作成)
中世能登府中の位置は、御祓川下流域の現在の七尾市街地ににあたる府中町付近を比定できるが、この地は、古代においては国府(現・七尾市古府町)の外港ともいうべき国津(こくつ)(国家の貢納物の発送に指定された港)・国府津(こくふつ)(旅客の発着港)の機能を兼ねていた。したがって、中世の能登では、地方政治の拠点である国衙関係施設がかつての外港の方に移り、国衙機構の掌握を通して、分国経営の進展を図ろうとする守護は、ここに守護の役所(守護所)を置いていたらしい。
府中に守護所が置かれる例は、能登国に限らず、全国の「府中」という地名の土地に共通してみられた傾向であった。現在、七尾市府中町にある印鑰神社(いんやくじんじゃ)(律令時代の国印と官倉の鑰(かぎ)を神として祀る国衙政所(こくがまんどころ)の守護神)は、その名残であろう。また、同所の霊泉寺(れいせんじ)(曹洞宗)の屋敷は、守護代遊佐美作(能登遊佐氏の嫡系は美作守を名乗った)の館跡とも伝えられている。もし、そうだとすれば、この周辺に守護所が所在していた可能性もある。
この他、七尾市府中町の産土神(うぶすなかみ)である大地主(おおとこぬし)神社(府中町山王神社)に、「山王二十一社」に奉納すると刻んだ、蓬莱国近(ほうらいくにちか)の作とされる神楽鈴(かぐらすず)(永正13年4月の紀年銘)が所蔵されている。国近は、府中滞在中の当時の有名な歌人・招月庵正広に、文明17年(1485)3月、自身の御影(みえい)(絵姿のこと)の賛を書いてもらっており、府中に居住して 畠山義統 に仕えた金工の名人であった。
この神楽鈴は、明和3年(1766)に火災にあったため、いまは往時の姿を損なったが、その鈴の音色は極めて美しいものであったという。
能登に守護所が置かれたという初見は、南北朝初期の暦応4年(興国2年・1341)に、守護 吉見頼隆(よしみよりたか) の守護所を確認できる。したがって、室町期の畠山氏の守護所も、南北朝期以来の場所を、そのまま継承していたと思われる。府中は、南北朝・室町期の能登において、政治・経済・文化の中心地であった。
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