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吉見氏一族



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 諸系図はでは、源範頼の孫にあたる為頼を祖とし、武蔵国比企郡吉見庄に知行を与えられて吉見氏を称したとあります。その後、吉見の一族で三河、伊勢、能登、石見などに所領を得て、拠を構えるものが出たようである。能登へ移住した吉見氏の一族は邑知潟西南の平野部に定着して所領を拡大し、鎌倉時代の後期には、口能登では得田氏と並ぶ有力武士団に成長するに至った。建武2年(1335)足利尊氏が建武新政府に離反した際、いち早く尊氏に味方することで、吉見宗寂は能登国守護に任命された。宗寂の後、頼顕、頼隆、氏頼にいたるまでおよそ30余年、吉見氏が守護職の地位にあった。その間、北陸の一帯の宮方、反幕府勢力に挟まれながら始終幕府方として能登の武士団を率いて各地に転戦した。しかし、康暦元年(1379)得田氏への軍忠状証判以降、守護としての吉見氏の名は現れない。その少し後、本庄宗成が守護を5年ほど努めた後、室町幕府の有力者・畠山基国が能登守護となるのである。

吉見宗寂
能登守護。

吉見円忠(調査予定)
鎌倉時代末期、本貫地を離れて足利氏の軍事行動に一族をあげて積極的に加わり、功をあげる。伊勢吉見氏の祖。

吉見頼為(調査中)
宗寂と同一人物?

○吉見頼顕(よしみよりあき)
南北朝期の能登守護(任期:建武3年〜同年)。能登守護吉見宗寂の子か?孫三郎・左馬助。建武3年には能登守護となっていたが、任期は短く、間もなく吉見頼隆が能登守護となった。

○吉見頼隆(よしみよりたか)
南北朝期の能登守護(任期:建武3年〜貞和2年)。吉見頼宗の子。頼隆の弟。十郎三郎・三河守・大蔵大輔。建武3年足利尊氏から能登守護に任じられ、貞和2年頃まで在任し、越中守護も兼ねた。守護所は、能登府中(七尾市府中町付近と思われる)に置かれたことが当時の記録で確認できる(能登府中に守護所が置かれた最も古い記録)。彼の時代、普門利清による 石動山の焼き討ち (宮方の越中国司中院定清を討つため)が行われたりした。『太平記』で当時の能登守護が普門利清とあるのは誤りである。また越前(福井県)の宮方や越中(富山県)の反幕府勢との戦いが続いた。守護政所を鹿島郡府中(七尾市)に移した。守護を免じたのち、赤蔵寺に入った。

吉見氏頼(よしみうじより)
南北朝期の能登守護。吉見頼隆の長男。掃部助・三河守・右馬頭・道源入道。父の能登守護在任中から代官を務め、越中(富山県)・能登の反幕府勢力と戦う(参考: 「南北朝の争乱〜能登の国人たち〜」 )。文和元年能登守護となり、少なくとも27年間その地位にあった。その間執拗に進攻する越中の反幕府勢力桃井直常一族・氏頼の守護支配に反抗する穴水の長一族・富来地方の有力者・富来斎藤次、若山荘による山方六郎左衛門ららと戦い、能登全域の勢力を拡大した。しかし、珠洲郡若山荘の田所職(荘官)にあった本庄宗成(ほおんじょうむねしげ)が、(足利将軍家と姻戚関係にあった) 若山荘 の領主・日野家の家来から、足利家の寵臣までになると、 本庄氏との確執がおこり 、康暦(こうりゃく)元年(=天授5年、1379)、それまでの幕政の中枢にあった細川頼之の忠実な協力者であった吉見氏頼もこれに連座し、かわって本庄宗成が守護の地位を得た。だが本庄氏の守護支配も、そののちしばらくして頓挫し、明徳2年(=元中8年、1391)の暮れ頃までには、室町幕府の有力一門守護の畠山基国が、河内・越中に加えて能登守護も兼務するようになった。

○吉見十郎三郎(よしみじゅうろうさぶろう)
暦応3年(1340)吉見氏頼のもと、 得江頼員 などを引き連れ、越前に出陣し、越前守護斯波高経を援けたりしているのが記録に残っている。

吉見伊予入道(よしみいよにゅうどう)
能登守護代。 応安2年(1369)の越中守護・桃井直常能登乱入 に際して、能登守護方の拠点であった能登部の守りを担当していた記録などがある。

吉見頼基
頼隆の弟。

吉見頼重
氏頼の弟。

吉見詮頼
氏頼の子。

○吉見統頼(よしみむねのり)
能登畠山氏の家臣。孫太郎。能登守護吉見氏の末裔で、 畠山義統 に仕えた。文明2年から明応2年、能登国鳳至郡櫛比荘(門前町)の田地を、能登總持寺に寄進している。

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