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吉見氏と本庄氏の確執

(2001年3月15日作成)

 南北朝期の能登守護には地元出身の吉見氏が起用されていました。能登の吉見氏は、武蔵国の吉見荘を本貫地とした鎌倉御家人の 吉見氏 の流れで、鎌倉後期頃までには、羽咋郡の邑知潟西南域付近の平野部に移住していたものらしい。その間の詳細は不明だが、鎌倉末期に吉見円忠らが、本貫地を離れて足利氏の軍事行動に加わり、畿内で勲功を挙げているから、能登吉見氏は隣国加賀の富樫氏などと同様に、一族を挙げて積極的に動乱の渦中に身を投じ、その功をもって能登守護の地位を得ていたものであろう。

 吉見氏の守護活動としては、吉見頼隆・氏頼らが、内乱期の北陸で、反幕府勢力(反尊氏)勢力として活発な動きをみせる越中の桃井直常・直和(なおかず)一党らの討伐に、多くのエネルギーを費やしており、応安2年(正平24、1369)には、奥能登の南朝勢力の掃討に一応成功している。
(参考頁: 「南北朝の争乱〜能登の国人たち〜」  )

 この間、守護の禁制が、永光寺(ようこうじ)などの寺社に度々掲げられているのは、内乱の過程で、吉見氏が国内の在地秩序の維持に腐心したあらわれでもあった。

 しかし、守護方の軍事力として吉見氏の指揮下で参戦した能登の国人・土豪層は、 守護代の飯川(いがわ)氏 をはじめ、得田・得江・土田など多くは口能登に本拠地を持つ諸氏であり、奥能登では、まだ長谷部(長)氏や本庄氏など、守護の統制に服さず、直接足利将軍の奉公衆(親衛隊)に加わり、守護の分国支配から独立した在地領主的基盤を維持する国人衆もいた。

 そうした中で、南北朝にいたり、守護吉見
氏頼が罷免され、かわって本庄宗成(むねしげ)が守護に就任します。本庄氏は、もともと珠洲郡若山荘の田所職(荘官)を相伝した土着の家筋である。宗成は、同荘の領家(荘園領主)であった日野資教(ひのすけのり)の家来となって在京し、資教の妹業子(ぎょうし)が将軍足利義満の正室になると、その乳父(めのと)として幕閣で権勢を振るうようになっており、将軍の寵臣ともいうべき存在であった。

 こうした立場を背景に、宗成は早くから能登守護を望んであり、守護の吉見氏頼と険悪な関係にあった。そして康暦元年(=天授5年、1379)の政変が起こると、幕府の中枢にあった細川頼之が失脚し、それに伴い細川氏の支持者であった吉見
氏頼も失脚した。かねてより細川氏と対立関係にあった新管領の斯波義将体制のもとで、従来頼之党に属してきた能登守護の吉見氏頼が、その職を罷免され、かわって本庄宗成が念願の守護の地位を得たらしい。

 永和3年(天授3年)(1377)8月、宗成が将軍義満に能登守護職を競望して、許されそうになったが、このとき守護の吉見氏頼が、宗成を誅伐しようとする騒動を起こしたため、果たされなかった。宗成は義満の寵臣となって、洛中の治安を取り締まる検非違使の職に登用されていたが、依然として能登守護の地位を狙い続けていたらしく、康暦(こうりゃく)の政変で吉見氏の勢力が後退したのを機に、その職を奪ったものであった。

 しかし、寵臣としてのし上がった本庄氏の能登守護職も、そののちしばらくして頓挫し、明徳2年(=元中8年、1391)の暮れ頃には(他説では、宗成が死去した嘉慶3年(1389)正月)、室町幕府の有力一門の畠山基国(もとくに)が、河内・越中に加えて、能登守護も兼務するようになった。

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