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その他の遺構跡
上の写真2枚は、伊須流岐比古神社境内にあるイワシヶ池を撮影したものです。イワシヶ池はかつては、聖なる水を汲み取る閼伽池(あかいけ)・アカ池と呼ばれていました。伝説として、氷見市中田の沖に浮かぶ虻ヶ島と底が繋がっていて、同じ清水が虻ヶ島にも湧いているとかいないとか・・・と言われたそうです。
 上の写真2枚は、鐘楼跡を撮影したものです。左上の写真の向こうに見える建物は勿論大宮坊です。ここは大宮坊の西側にあたります。
 案内板によると、天正10年(1582)の兵火により焼失後、明暦3年(1657)に再建されたもので、一辺6.5mの基壇上に2個の礎石だけが乗っている構造だったようです。
 ここに吊るされていた鐘は、直径が五尺(約1.5m)もある大きさのものであったそうです。その音は「講堂の鐘一つ撞つけゃ、越中よぼり(越中を呼びの意味)、能登よぼり、響き渡らぬ隈もなし」と唄われるほど、遠方まで鳴り響いたと伝えられています。
 また撞き初め式は、北国七ヶ国の善男善女寄進による髪でなった縄で吊るした、との伝説も残っています。
上の写真2枚は、講堂跡を撮影したものです。講堂は仏法を講じて、法会(ほうえ)や祈祷を行う最も重要な堂舎でした。建物基壇の大きさは東西約40×南北約30mと山内最大の面積です。南正面で約1Mの高さを持ちます。正面入口部分が、幅14m、奥行約2mにわたって前面に張り出し、石段がつくられています。基壇上には、少なくとも新旧2度建てられたことを示す礎石列が見られます。
 現在、露出しているものの多くは、正保4年(1647)に再建された新しい講堂の礎石で、桁行7間・梁行5間に、正面と両側に縁を持つ柱間2.4m(8尺)規模の大堂が建っていた。この堂は、明治初年買い手がつかず、その場で炭に焼かれたと伝えられています。
 旧講堂は、天正10年(1582)の兵火で焼失したもので、礎石のほとんどに著しい焼痕がみられます。
推定される規模は、桁行7間、梁行5間、四辺に縁をめぐらすもので、柱間が桁行3.6m(12尺)、梁行3.3m(11尺)、正面入口4.5m(15尺)を測る大規模なものでした。 再建された江戸期の建物は、この旧礎石を現位置のまま一部利用していますが、規模は約1/2に縮小しています。
講堂跡横にあった厄除錫杖坂を登った奥に拝殿。途中見える茶色い建物は確か宝蔵
 左上の写真は、大師堂跡にあった説明板。上の見えづらいところだけ転記する。「本来、ここに安置されたいたと思われる木造弘法大師坐像の墨書銘には「元禄十年(1704)宝達坊祐遍の寄進により、祖師堂に安置された」とあり、現在は太子堂とされていますが、祖師堂と呼ばれた時期もあったようです」
 右上の写真は大師堂堂跡のもの。
集団墓地群
上の写真は、太子堂横の広場にあったおびただしい数の墓石です。
中・近世にわたる石動山衆徒らの集団墓地で、中には高僧らの名も刻まれています。
右は、この墓地の近くにあった石の坐像です。誰か高僧を象ったものでしょうか。銘記してあったようですが、判読できなかったのかもしれません。
左上の写真は、五重塔跡。右上の写真は、五重塔跡にあった説明板です。見づらいので下に転記します。
「古絵図には、講堂背後の右側に五重塔、左側に多宝塔が描かれています。天正十年(1582)の兵火で焼失し、山側に倒れたようであり、周囲からは火災の凄まじさを物語る焼け爛れた風鐸片・木組用材・焼土・灰等が出土しています。塔の基礎周りは、一辺約10mの正方形台状をなし、地山の削りだしと盛土で構成されている。心礎・四天王礎・側柱礎および四周にめぐらされていた縁の礎石の全てが完存している。石動山の本山であった京都の勧修寺(かんじゅじ)古文書には、応永23年(1416)に建立にあたり同寺別当職(べっとうしき)の慈尊院実順が導師を勤めて塔及び講堂供養が行われたとあります。」
経蔵跡経蔵跡
多宝塔跡多宝塔跡
 左上の写真は、多宝塔跡にあった説明板。右上はその跡地の写真。これも案内板の写真の文字が見づらいので下に転記する。
「多宝塔は、本来、円形の塔身上に相輪を頂いた宝形(ほうぎょう)の屋根を載せ、四周に方形の裳層をめぐらした建物である。本塔には、円形塔身の柱跡は見られず、五重塔と同様で、一辺約10mの正方形台状の基壇に、心礎・四天柱礎・側柱礎および四周にめぐらされていたと考えられる縁の礎石が見られる。柱間は、約1.8m(6尺)で、四隅の礎石には、径17㎝、深さ8㎝の円孔があけられている。」
 補足説明すると、多宝塔は、釈尊と多宝如来を祀る塔です。密教の寺院では、五重塔と並んで最も重要な建物の1つです。多宝如来は、釈尊が法華経を説いた時、その真実を証明するために地中から宝塔を湧き出させ、その塔中の自分が座る場所の半分を釈迦に譲ったといわれています。
籠堂跡。籠堂(こもりどう)跡は、石動山衆徒が、春3月晦日から5月3日まで、峰入り前の修行のために籠もったところです。不眠不動や水断穀断の荒修行に堪えて、呪術を習いました。籠堂は伽藍の中心部にあり、開山堂の直下、五重塔跡、多宝塔跡の広場の直上にあります。ひたむきな求道心と情熱が古代石動山を興隆させていたのです。幕末近くの衆徒は出土する食器類(上の案内板の説明参照)の様子から、形骸化した修法だったことが窺えます。
籠堂跡開山堂跡
開山堂跡。右上の開山堂跡の案内板が少し見えにくいので又内容を下に転記する。
 「古縁起に見える方道仙人・智徳上人、新縁起に記される泰澄のいずれを祀ったかははっきりしないが、堂塔群の最高所に造られている。
開山堂は、参道より17段の石段を登った、約1.2m四方の平坦面上にある。礎石は完存しており、亀腹(かめばら)の周囲に約2.4m(8尺)間隔に配され、正面の一部を除く三方に縁がめぐらされた。2間4面、方形造りの建物である。開山堂棟札によれば、享和元年(1801)に大窪大工藤岡信濃守富綱によって再建されたものである。明治初年、この堂は中田村(現氷見市中田)に金130円で売却され、現在は中田の道神社拝殿となっている。」

 (参考)当コーナーの 「登山口」の道神社(氷見市中田町)
大森屋敷跡玉橋跡


(参考資料)
 ●「国指定史跡 石動山」(石川県鹿島町)
 ●現地の案内板の説明記述
 ●「能登の文化財 第8輯」(能登文化財保護連絡協議会:北国出版社)
 ●「能登石動山」(櫻井甚一・清水宣英・濱岡賢太郎・田川捷一:北国新聞社)他

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