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石動山信仰
<石動山信仰分霊社分布図>

上記の図(石動山信仰分霊社分布図)は、「国指定史跡 石動山」(石川県鹿島町)を借用
上記の図の凡例説明が見難いので、左に転記
本社伊須流岐神社比古神社
石動・伊須流岐の名を持つ分霊社
五社・五所の名を持つ分霊社
 石動山は、古くは「いするぎやま」あるいは「ゆするぎやま」と呼ばれていました。この神社は延喜式内社であり、能登国二の宮であります。中世以前は、金剛證大宝満宮と称され、それ以後は五社権現とも称されて「いするぎ修験」の中核をなしていました。
 現存する石動山の伝記や同由来書によれば、その盛時において伊須流岐比古神社以下すべて八十末社、社地50町四方、大宮坊を中心に総名を天平寺と称する坊院360余、加賀・能登・越中・越後・佐渡・信濃・飛騨の7ヶ国を知行国として4万3千石余、衆徒の数およそ3千を擁した勅願の道場であたといいます。

 今も、上に示した分布図でわかるように、北は青森から南は大阪にかけて、一山衆徒の活動によって勧請された石動山の分霊社が数多く存在しています。現在神社庁に登録されている分霊社の数は、135社ですが、実数は数倍に達すると思われます。
 (石川県には、14社、富山県には21社、新潟県には69社がまとまっています。他は、青森県は1箇所、秋田県には2箇所、山形県8箇所、長野県4箇所、岐阜県は7箇所、福井県は1箇所、滋賀県は7箇所、大阪は1箇所)
 この事実は、「いするぎ修験」のあり方を示すものとして、地方文化史上、高く評価されてしかるべきであります。

 ところでいするぎ修験をおこなったいするぎ法師とは、神官でも僧侶でもなく、修験者で山伏でした。彼らは、毎年3月の晦日から5月3日まで山の霊力体得するために石動山に籠り、掟を守って床堅(とこがため)(不眠不動の行)、水断、穀断の荒行に堪えることから始められ、次いで呪術を習って「験力」を身につけたそうです。

 こうして一応の修行を終えると、彼らは期間を定めて十坊一組となり、みずから難行苦行を求め、野山を駆け巡り、荒行を重ねて野宿して、呪力、神通力、験力(げんりき)を身に着けようとしたのです。こうした「行」を一般に験者の「とそう行(→と(手ヘン+斗)そう(手へん+数)行)」といいます。一山の寺坊に寄食するときは、本寺大宮坊に帰属しながら教学を修め、広大なる寺領を警護するために武術も練りました。
 そして各地の霊山に、こうした修験者(山伏)が山林修行をしており、たがいに繋がりをもち、その験力のあるところを、「験競(げんくら)べ」していたのであります。石動山衆徒はの験力は、京都においても能州山伏あるいは「いするぎ山伏」として相当高く評価されていました。

 いするぎ法師は、隣国 白山 衆徒と深くつながり、本社伊須流岐比古と相殿(あいどの)に白山比咩を祀り、白山の開祖泰澄(たいちょう)大師を招じて石動山開祖の列に加えていました。白山においても、白山比咩、伊須流岐比古夫婦説もあり、中間の宝達山の金色童子はその子との伝えもあります。修験道の開祖と仰がれる役小角(えんのおづぬ)(又は役の行者)を祀った行者堂も山内に建ち、日本修験道の総本山となった熊野三山信仰も取り入れられ、大宮坊横に熊野本宮誠證殿(しょうじょうでん)も建っていました。

 したがって彼ら石動山衆徒は、各地の情報を容易に知りえたのであり、同時に、ひとたび政変が起こるや、知られざる間道を通って隠密的な役割を果たし、時には武器をとって出陣もしました。

 ※七ヶ国勧進(説明は頁の一番下)に出かけた衆徒たちは、虚空蔵求聞持頭巾の法をもって体得した優婆塞(うばそく)和美の姿、即心成仏ならぬ即身成仏たる自信をもって庶民の宗教的要求に応えていたのであります。
 現在彼らの具体的な活動を把握することは、非常に難しくなっています。彼らが実行した真言宗の修行自体が「求聞持頭巾、秘密肝要」といってきたのであれば当然のことかもしれません。
 
 しかしこのように一時は、全国にその名をとどろかせた石動山ですが、明治元年(1868)、廃物毀釈の嵐が吹き荒れました。神仏習合の霊山、石動山の影響は(同じ石川県内の白山同様)非常に大きく、衆徒の還俗、寺領の没収、七ヶ国勧進の禁止など、同山は一気に経済的・宗教的基盤を絶たれることになりました。衆徒達は、連日激論を戦わせた末、伊須流岐比古神社を存続させ、神輿堂を拝殿として残す他は、ほとんどの堂舎・仏像・仏具・仏典などを処分することに決し、明治7年(1874)、ついに石動山は瓦解しました。
 その後、各坊院の関係者らが次々と山を下るなか、新たに能登や白山地方から多くの開拓者を迎え、やがて山村集落として再出発することになりました。
※ <七ヶ国勧進>
 堂舎建立保全をはじめ、一山の運営費は石動山創立以来、全て一般庶民からの勧進喜捨によって賄われていました。加賀・能登・越中・越後・佐渡・信濃・飛騨の7ヶ国の人民を産子(うぶこ)として、戸毎2升から1升の知識米(ちしきまい)4万3千石を徴収することが、奈良時代の天平勝宝8年(756)に勅許されたと伝えられています。
 近世になり、七ヶ国知識米集めが思うようにいかなくなり、明和9年(1772)、後花園天皇より「七ヶ国知識米徴収は先規の通り」との綸旨(りんじ)を賜っていますが、効果のほどはおぼつかないものでした。
 七ヶ国勧進、知識廻りは勅許という権力によってではなく、石動山の創建を願う‘いするぎ法師’たちの活動から出来あがったものです。彼らは分担地域を決めて、北国の津々浦々を戸毎に訪ね、知識米、米銭の喜捨を頼みました。また除災招福、病気治癒の護符を配り、求められれば加持祈祷もしました。
 いするぎ法師の験力(げんりき)が人々の尊敬を集めました。さらに彼らの笈(おい)の中には「いするぎの一本薬」が納められ、病の床につく人に与えられました。富山売薬の置き薬のように、次の年に来て、使った代金をもらい、不足分を補充する体制もできていたのではないでしょうか。宝池院製の「五霊膏(ごれいのくすり)」は昭和初期まで新潟県頚城(くびき)地方にまで売られていたといいます。他には七尾製の「和中散」、「神夢散」、延命院の「ゴオウ」などがありました。石動山のブナ原生林の床に、白山からもってきたセリバオウレン・ギョウジャニンニクなど薬草が多くあります。
 いするぎ法師の知識廻りは、一山運営費の調達が大きな目的でしたが、布教、人民の救済、文化、情報、時には新知識の伝達など、彼らの来訪を待つ人々も多かったのです。青森から大阪にいたるまで多くの分霊社が建てられたのも頷けます。

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