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2018年1月7日作成

末森城と土肥氏

お好きな項目にジャンプ!1.末森城 1)末森城の説明 2.末森城跡
 案内板の写し
1)末森城の説明 3.それ以外の土肥氏
に関わる記録
1)浄蓮寺文書
2)歴史の舞台
 となった末森城
2)本丸及び主要郭
3)関連年表
 宝達志水町というと、何か能登の北部の者からすると、加賀のようなイメージがあるが、この末森城跡がある末森山山やその南東の宝達山ほ含め能登である。能登の歴史を扱うサイトである以上、取扱わねばなるまい。
 この末森山を含む周辺地域での発掘では、旧石器時代から近世までの遺物が多数出土しており、古くから人々が活動していた場であった事が伺われます。

1.末森城
1)末森城の説明

 末森山は、宝達山系から西に派生した舌状丘陵先端の小山で、標高138.8m。南麓を相見川(あいみかわ)が流れる。この地の麓は平地において越中国境までの距離が最も近くなったところである。しかも城跡から日本海まで3kmしかない、天然の要害で、戦国期に末森城(当初は末守城とある)が築かれた。最頂部に本丸、その南端に二の丸、若宮丸、三の丸や生活区域と推定される若宮があったと伝え、周辺には女郎屋敷・侍屋敷、伊予屋敷など城と関連すると思われる地名が多数残る。

 上杉謙信能登侵攻より前の時代にもおそらく城塞的な構築物はあったのだろうと思われる(そう書かれた記録も見受けられる)が、天正5年(1577年)の上杉謙信の書状より前にあった確実な証拠はまだ見つかっておりません。

 昭和60年から63年(1985〜88)押水町教育委員会が詳細な分布調査を実施、約3万ヘクタールの範囲で、平坦面、堀切、土塁、腰郭など多くの遺構群を確認した。本丸跡とされる郭は長軸が66m、短軸が15mの文銅形で面積1300平方m。大手虎口推定地と若宮跡で発掘が行われ、前者では柱穴群、後者では掘立柱建築跡2棟と土杭・溝・柱穴などの遺構を検出、越前焼・珠洲焼・瀬戸焼・青磁・白磁・染付・土師質土器・瓦質土器及び鉄砲玉・釘・銅銭・銅製金具・砥石・碁石などが出土している。

末森城本丸跡 2)歴史の舞台となった末森城
 天正5年(1577)8月、上杉謙信が加賀の金沢御堂に依る七里頼周に宛てた書状(水野文書)によると、当時謙信は七尾城再攻撃のため兵を展開していたが、ほとんどを制圧して「末守」にいた。同年9月15日七尾城が陥落すると、越後より従っていた村上国清・斎藤朝信を当地末森に配した(歴代古案)。謙信の加賀一向一揆との和睦、越中・能登の領国化が進行するなか、「賀能之間之地」(「上杉謙信書状」水野文書)という要衝のこの地が重視されることになり、越中の土肥親真が配された。

 しかし天正8年閏3月、加賀一向一揆を滅ぼして能登へ進入した織田方の柴田勢に攻められて降伏(信長公記)、親真は織田方に属することになり、8月には羽咋郡一円を知行地として給された(同年8月23日「菅屋長頼奉書」気多神社文書)。以後、土肥親真の在地支配が進行し、城の麓には城下町である「末守町」(千秋文書)が形成されていった。

 天正9年8月、七尾城代菅屋長頼に替わって前田利家に能登が与えられると、親真は前田利家の与力的立場におかれ、利家の正室芳春院(お松)の姪(末守殿)を娶って両者の関係を強化した。天正11年4月の賎ヶ岳の合戦には柴田方として利家に従い、土肥茂次(伊予)を城代として残し、出陣したが討死にしたため、利家は茂次の補佐役として奥村永福・千秋範昌を派遣した。天正12年9月9日、徳川家康に同調する越中の佐々成政が、突然能登に入国して当城を包囲し、南側の坪井山に本陣を置いて攻撃を開始した。

 土肥茂次伊予守は討死にしたが奥村永福・千秋範昌主殿助は籠城して抵抗した。急報を受けた利家は自重を望む羽柴秀吉の意を顧みず金沢から出撃、11日早朝、城を囲む佐々軍を背後から攻めて当城へ入った。利家の嫡男利長も松任城から駆けつけた。戦いは佐々成政の大敗に終わる。一方、大敗した成政は越中に退き(末森記)、利家によって当城は廃城になった。
なお末森城の戦いについては、私のHPの 「前田利家」 のページにも詳しく書かれているので、そちらも参考にしてもらいたい。
2.城跡の案内板の写し
 末森城が、石川県指定文化財[史跡]に指定されたのは、平成3年10月4日である。以下
参考に、末森城跡の駐車場と本丸跡の案内板に書いてあった押水町教育委員会作成の記述をここに転記する。

1)末森城の説明
 末森城跡は、羽咋郡押水町の北部に位置し、海岸線の距離がもっと狭まった標高138.8mの末森山に所在する、中世の山城です。城の築城年代は不明のままですが、昭和60年度から4ヶ年にわたって実施されました詳細な分布調査や発掘調査などから、だいたい15世紀後半から16世紀末にかけての建造物跡や輸入された品々、生活用具、あるいは鉄砲の玉などが発見されました。
 城を形作っている曲輪(城郭)と呼ばれる平坦な部分は、合計すると約3万平方メートル以上あり、約20万平方メートルの山中に広がっています。またこの城は口能登の要衝に位置することから、しばしば合戦の舞台となり、能登の中世戦国期を代表する歴史的に重要な城の1つと言えます。特に末森城を有名にした合戦に、前田利家と越中の佐々成政との間で行われた「末森合戦」が広く知られ、加賀百万石があるのは、この戦いに勝利したことによるとされています。末森城二の丸跡

2)本丸及び主要郭の説明
 この郭(くるわ)は、末森城中最も高い位置にあり、近世に入ってから「本丸」の名前で呼ばれています。昭和61年度(1986)に礎石確認のための調査を実施したところ、本丸主門の基礎石を始めとして、数十ヶ所の礎石と思われる反応が得られました。このうち、数箇所については、試掘し確認しました。建物の規模・構造形態などを知るには、背景的には不足していますが、基礎石を必要とする、かなりの重量のある構造物があったことが推量されます。

西側からみた末森城跡(橋の下は国道159号線である)。 なお、本丸にあった建造物は、末森城廃城後それぞれ移築されており、本丸主門については、金沢城の鶴の丸南門として移され、宝暦9年(1759)に焼失するまで実在していたほか、本丸の構造物については、末森合戦に功績のあった者に払い下げられており、これも明治の大火で焼失するまで津幡町地内に実在していましたが、現在では伝承以外にその威容を知る手掛かりは無くなってしまいました。
 ただ、町内
の幾つかの寺院については、末森城の解体によって得られた、多くの建築物を転用したことも知られており、今後の調査によってどのような構造物があったかを知る手掛かりになるものと考えられます。

 この本丸を中心として、北側に前田利家が「末森合戦」時に入城した搦手(からめて)長坂があり、南側に二の丸、三の丸、若宮丸、若宮とつづき、この主要な郭を囲むように二重に腰曲輪(こしくるわ)が巡っています。また、東側の谷あいには馬掛場(うまかけば)の通称を持つ大きな平坦面があり、城主の館が在ったのではないかと考えられています。西側には腰曲輪を形成する一方槍場の通称を持ち、ここから向山砦(むかいやまとりで)に連なる武者道が、三の丸・若宮丸間の大手道と平行して伸びています。
3)関連年表
西暦旧暦[歴 史 的 事 柄]
1336年室町幕府成立
1376年畠山義深、能登国他五カ国の守護となる。
1408年応永15年 畠山満慶(はたけやま・みつよし)、家督を兄・満家に譲り、能登一国の守護となる。
1467年応仁元年応仁の乱が始まる
1488年長享2年加賀一向一揆(百姓のもちたる国)により、加賀国守護、富樫政親が討たれる。
1550年天文19年※加賀の一揆勢力を率いて攻め入った、畠山家家臣の遊佐続光の前途を遮ったとされる、末森城の城主・土肥但馬だが、当時の畠山家家臣中にその名が見られない。
1554年天文23年※大槻合戦のことを記した温井紹春の書状には、土肥但馬の記述がない。
1557年弘治3年※温井兄弟が「押水」へ退去したことを示す文献から、畠山家家老「温井景隆・三宅長盛」の拠点として押水があったことがわかる。
1568年永禄11年出奔していた、畠山義綱が能登へ攻め入った時に、三宅彦次郎は、七尾方が去年から国境防衛の前線基地として構築していた坪井山砦を占拠した。
1576年天正4年土肥親真、能登へ入った上杉謙信と和睦したとされるが、これを確認するだけの史料は見つかっていない。
 5月18日 上杉謙信が、本願寺顕如との和睦が成立、加賀、能登、越中で織田信長軍と攻防を展開することになる。
 9月、上杉謙信が上洛のため、越中に出陣。8日には飛騨口に2城を築き、一向一揆に備えた。
 12月、上杉謙信が能登に侵攻、その大部分を平定し、19日に七尾城を攻囲。24日には石動山城を築く。
1577年     天正5年     1月18日、上杉謙信が七尾城と交戦。
 2月、北条氏政が謙信方の関東諸城を攻撃。上杉謙信は関東諸将からの要請に応え3月、春日山城に帰り、関東出陣の陣触れをした。
 『浄蓮寺文書』(現志賀町北吉田井・浄蓮寺)
上杉謙信勢が七尾城を守っていた5月10日の日付の書状で、土肥次茂という者が「富木之内釶打村国分左兵衛分五十貫」のうちの30貫文を馳走分として熊来の江尻の浄念(真宗坊主)に与えていたことが記されている。(この土肥次茂は土肥茂次と同一人物ではないか?)国分左兵衛とは、釶打村の西谷地城に拠った能登畠山氏の被官・国分氏(国分備前守慶胤代?)のことと思われる。
 能登畠山氏の重臣・長続連(ちょう・つぐつら)が謙信帰国の隙(すき)を突いて、謙信方の熊木(くまき)城、富木(とぎ)城を奪回し、穴水城に迫るとの報を受け、閏7月春日山城を出発。17日(現七尾市の)天神川原に陣を定める。
 8月9日 上杉謙信書状
 [金沢御堂の坊官 七里頼周に、末森を守って加賀へ支援に馳せつける旨を伝えている]
9月15日頃、七尾城落城
 9月17日、上杉謙信が『末森』を掌中にする。<村上春国、斉藤朝信を配置する>[歴代古案]...※
※上杉謙信は「末守」から、加賀への支援を約束する書状や、越後への文章を発送している。9月15日七尾城落城。
謙信の書状に「9月17日に末森と号す地も入手しに之は加能之間の地であるから、村上国春・斎藤朝信を篭置(こめおく)」とあり、末守を前線基地としていたことが伺える。
 9月18日、上杉謙信は、織田軍総勢48,000で加賀湊川(手取川)を越えたという知らせを受けた。
しかし織田軍が七尾城落城の報を受けると浮き立ち、28日夜陰に紛れて退却を始めたが、折しも大雨のせいで、湊川が増水し、逃げ場を失う。
そこに上杉軍の急襲を受け、織田軍は千余人が討ち取られ、溺れ死ぬ者数知れずという大敗北を喫した(手取川の合戦)。
 9月26日、上杉方が七尾城を修築し、鯵坂長実(謙信配下の武将)、遊佐続光(旧畠山家重臣)に守らせ、ひとまず関東を平定してから上洛しようと、春日山城に帰還する。
 12月23日、上杉謙信は、上杉軍団八十一名の動員名簿「上杉家家中名字尽手本」を作成、翌年3月15日を関東出陣の日と決定する。
 12月、上杉謙信名簿の越中衆の中に「土肥但馬」の名が見える。(現時点で文字記録に残る初見−明治期に記されたものは更に遡るが当時の裏付けとなる記録は見つかっていない)
 1578年 天正6年 3月、上杉謙信が(卒中?)急死する。
1579年天正7年7月17日、上杉景勝から土肥但馬へ「金沢御坊の下間頼純と協力すべき」(末守城を堅守するよう命令)との書状中に『その地堅固に相抱え候由肝要に候』とある[温井足徴(加能古文書)]→この文書のやりとりから、初めて土肥(親真)但馬の存在が確認されている。         
 同年冬、織田信長の武将となった長連龍は、能州敷浪の本泉寺に陣をはったとき、但馬は家臣の子を人質にいれ許されている。
1580年天正8年 ※柴田勝家が「末盛の土肥但馬を攻略した。」 [信長公記]
 土居但馬、禄二千貫にて信長公より末森城御預。
※末守の土肥但馬は、織田信長公より禄高2千貫(羽咋の知行)で末守城をあらためて預かり受けている。
 8月23日、織田信長より、土居親真に羽咋郡の知行を任される<羽咋郡4万石>
 「羽咋郡之儀 土肥但馬守知行」
織田軍による加賀一向宗の圧殺。
3月、長連龍、福水に居陣、前田利家は飯山に進駐。
※飲水の関係から飯山から菅原「大納言山」に陣を移したとの伝有り。{菅原館}
 10月26日、織田信長の奉行、菅屋九右衛門の部下の書状から、末守城中に土肥但馬がいたことが記されている。
 11月、山城国上賀茂社領の能登国・土田荘公用銭算用状に、年貢収納のため能登国に下向した賀茂使が土肥但馬に礼銭を送った、とある。   
1581年 天正9年   3月、前田利家が織田信長より能登一国を与えられる。菅原村に館を構える。
 ※織田信長から菅屋九右衛門に対し能登・越中の城については、全て破壊し、無くしてしまうよう命じている。
8月17日 前田利家が織田信長より能登四郡の支配を任せられる。 (←七尾城入城時期と推定される)
 9月3日 土肥親真が気多神社(現・羽咋市 気多大社)に社務領を寄進<社領地の返却>
1582年天正10年1月 七尾、所口に新城築城開始。
3月1日 一向一揆の解体。
前田利家、七尾、所口の小丸山城に移る。
 6月2日、織田信長、明智光秀に討たれる。(本能寺の変)
6月 温井景隆らが上杉景勝の後押しで、石動山荒山峠に立て籠もる。佐久間盛政(金沢城)、土肥親真(末森城)、前田利家(小丸山城)らが協力して荒山城を攻撃。
※石動山の衆徒と結んだ畠山遺臣である温井・三宅氏を、利家は佐久間盛政・土肥但馬の支援を受けて破る。(荒山合戦)
1583年 天正11年 3月 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、柴田勝家と近江賤ヶ岳で合戦する(賤ヶ岳の合戦)
賤ヶ岳の合戦で、前田方先鋒として出陣した土肥親真が討ち死にする(柳ヶ瀬の戦い)
※秀吉が「羽柴」から「豊臣姓」に変えるのは、元和二年(1616年)12月の太政大臣に任命された後である。
羽柴秀吉、柴田勝家と近江賎が岳で戦う。
※柴田方についた利家の先鋒として、土肥但馬は近江柳瀬の合戦で討死する。
 尾山城(金沢城)へ秀吉、利家入城。
※利家家臣、奥村助右衛門尉永福(ながとみ)が末森城主として入城。
千秋主殿助(せんしゅうもんどのすけ)、土肥伊予守(親真の弟もしくは甥)を大将として約1,500余騎が配置された。
1584年天正12年3月、羽柴秀吉、徳川家康と戦う。(小牧・長久手の戦)利家は秀吉方へ、佐々成政は家康方について戦うことになる。
※永福、鳥毛社に禁札を掲げる。<宿。西照寺 所蔵>
※「末森合戦」 成政「坪井山」に陣を敷き、先端を開く。
※伊予守守、城下町を守ろうとして200騎ばかりで討って出たが、討死してしまう。
※前田利長、千秋主殿助に末森城修復を命じる。
1585年天正13年佐々成政、豊臣秀吉の軍門に降る。
1586年天正14年※千秋主殿助から焼け落ちた城下にだされた書面に、末森城下が解体されたことが記載されている。
1600年慶長2年関ヶ原の戦い
1615年元和元年一国一城令
3.それ以外の土肥氏に関わる記録
1)浄蓮寺文書
上杉謙信勢が七尾を包囲していた天正5月10日、末守城を守っていた土肥次茂が「富木之内釶打村国分左兵衛分五十貫」のうちの30貫文を馳走分として熊来の江尻の浄念(真宗坊主)に与えていたことが記されている。
(このページに関わる参考資料)
『石川県の地名』(日本歴史地名体系17)平凡社、宝達志水町発行の「能登『末森城跡』」のパンフレット、末森城跡にあった案内ガイド等々

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