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棚 木 城 址

(2006年1月25日上梓)
 2006年1月仕事で宇出津に寄ったついでに、棚木城を取材し、以前作成した「能登の城・砦・館」の棚木城の項の説明に一部追加及び修正をほどこし、単独の頁に分離した。

マップ図内の黄色いコースが一周約1kmにあたります 能登町宇出津の宇出津湾南東部の半島状丘陵遠島山の先端部に位置する城域0.3k㎡(現在「遠島山公園」となっている城跡案内の右のマップ図の黄色いコースが一周約1kmにあたります)の城。の天正年間(1573-92)越後上杉謙信の家臣であった長与一景連の居城とされるが(「三州志」「能登志徴」など)、それ以前に棚木氏によって築かれたと伝えられる。
 現在、棚木城址にある案内板には、「室町幕府の管領・畠山義統の次男、棚木左門氏が約450年前に築いたものといわれます」と書いかれております。管領・畠山義統とは、勿論、その能登守護の 畠山義統 のことです。
 大永年間(1521.8.23〜1528.8.20)に、棚木左衛門謀反の聞えがあって、長英之がこれを攻めたことがあるそうだ。棚木左門氏之というものがいて、その子の棚木新五連之(→後の長連之)長秀連の養子となったが(加能郷土辞彙)、内紛によって越後の黒滝に移った。これにより長連之は、黒滝長氏の祖となった。長景連は長連之の子孫らしい(「石川県大百科事典」(北国出版社)、「加能郷土辞彙」(日置謙篇))。なお「長家譜」に見える長景連を畠山氏庶流の棚木氏末裔とする所伝は、後世の付会の可能性が強い、とする説もある。

また棚木城は、天正5年(1577)の上杉謙信の能登侵攻に際に、上杉勢の攻撃を受け落城したと伝えられています。

 天正10年(1582)5月27日の織田信長黒印状(長文書)によれば、長連龍は同月22日に長景連の立籠もる「太那木城」を陥落させており、信長がこれを賞しています。この合戦は前田利家と上杉景勝が越中魚津で対峙していた折り、上杉方の長景連・島倉吉蔵、熊倉伊勢、剣見与十郎ほか牢人衆が兵舟をもって宇出津に上陸、当城に籠城したのに対し、利家が同じく魚津で自分に与力していた長連龍を急遽派遣してこれに対処させた戦いでありました(5月15日「前田利家書状」中谷文書ほか)。いわば前田方の後方撹乱するための陽動作戦でしたが、親戚にあたる長連龍にやられ、(今度は上杉側の城として)再度の落城となったわけです。
 「長景連は小林平左衛門の為に討たれ、島倉・熊倉・剣見なども戦死した。当日の大手一番乗は阿岸掃部、一番首は国分上右衛門、搦手一番乗は鈴木因幡、一番首は奥村慈休であり、討死は岡部名左衛門・阿岸掃部であった。」(「加能郷土辞彙」(日置謙篇))棚木城跡の東にあたる弁天島あたりから、棚木城域先端の離れ島及び月見御殿あたりを撮影した遠景

 長景連は、文明(1469-87)末年頃越後国志郡に領地を有した守護代長尾氏の系譜を引くとみられ、先に書いたように黒滝長氏の一族である。
 長景連は、天正4年(1576)の上杉謙信の能登侵攻に際し、奥能登の守将として 正院川尻跡 (現珠洲市)に配された。しかし天正7(1579)年8月頃の畠山氏温井氏らの反攻による越後撤退にあたって、ほとんど戦わず帰国したことが不評を呼んだらしく、天正10年の寡勢での能登出兵は、景連にとって汚名をそそぐ覚悟の出陣であった(5月19日「長景連書状」北徴遺文)。

 また、輪島市渋田町の諏訪神社の木造男神像を蔵した厨子は戦国末期から江戸初期の作とされるが、その厨子銘に「一向念仏宗井口山照光寺第7代目義敬、宇出多ナ木ウチ死ス第6代義」とあり、討死は天正10年(1582)の棚木での合戦の際のことであろう。

 城跡付近には、通称本丸・二の丸などと呼ばれる地が認められるほか、舟隠しと称する小入江がある。平坦面(郭)などの遺構が、半島の基部付近から先端にかけて、かなり広範囲に広がる大規模な城郭で、大小八面の平坦面と空堀・腰郭・隅櫓跡などが確認されている。
 「能登名跡志」に「氏宮は棚木白山宮、神主棚木氏也。一社は酒垂宮松尾大明神にて、町の南の岡にあり。神主加藤氏也」とみえる。白山宮は棚木城跡付近の白山神社、酒垂宮は崎山城付近の酒垂神社とされる。

 左上の写真は、城跡内にある「米流し坂」といわれる場所を撮影したものです。ここには、七尾城にある伝説とよく似た内容の伝説が言い伝えられているようです。天正5年(1577)上杉勢の攻撃の際、城を包囲した上杉勢は、水攻め(水を断つ作戦)によって、籠城する兵士たちの士気をそごうとしましたが、士気盛んな兵士たちは城内に水が豊富にあることを示すために一考を案じたそうです。それは城にある米を坂から流し、その音を滝に乗せて、水が豊富にあるように思わせるはかりごとでした。しかし、その坂に流した米に鳥たちが群がり、事は露見し城は落ちたといいます。右上の写真は、城域跡を撮影したものだ。郭跡と言うより、結構こういう広い場所の多い城跡であった。海に迫(せ)り出た台地状の城と言った感じだった。
 私は釣り好きなので、宇出津には年に何回か来るのだが、この遠島山公園(棚木城跡)は、約30年ぶりに訪れた。確か以前来た時は、小学校か中学校の遠足で訪れたのだった。左上の写真は、この城跡から、南側の海を見下ろしたもの。写真の左上に小さく見えるのは、宇出津湾西岸で、丘の上に小さく白い灯台がみえるが、わかるかな?。右上の写真は、城域内(公園内)に立つ、地元宇出津出身の衆議院議員・故・益谷秀次郎の銅像を撮影したものである。益谷氏は、吉田茂首相が訪米の際に、臨時内閣総理大臣に就いたこともある実力者で、衆議院議長にもなりました。穴水出身の坂本三十次氏(元官房長官)とともに、能登を代表する政治家です。
 城の東南端の、離れ島の少し手前にあった月見御殿跡。この東屋は勿論公演整備の際建てられたものである。ガイド用の説明板には「城主の愛姫がここに舘を設け、入江に映える月をこよなく愛したと伝えられ、十五夜の満月には城兵を集めて月見の宴が開かれたという。」 左の写真のカッコ内の説明の入り江とは、ここのことで、この向こう側にある離れ島は、月見御殿があるこちら側と、ほんのわずかしか離れていない。一番広い部分でも、せいぜい10mというくらいだろうか。
 棚木城の本丸跡を撮影したものである。2005年末から2006年初頭にかけて降った大雪の残雪で埋もれていました。 公園内にある「しらさぎ橋」という吊橋です。下は川や入り江ではなく、入り江につながる谷間にある花菖蒲園です。

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